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第9章③

 それから二日後の晩。  スザンナは再び、「今夜も遅くなるから」と言って出かけて行った。すでに朝食の時に、夕飯はいらないと言っていたから、クリアウォーターは特に驚かなかった。 「誰に会うんだい?」  ただ出発前に、何気なく姉に聞いた。珍しいことに、スザンナは即答しなかった。 「その内、教えてあげるわ。なあに、興味あるの?」 「いや、別にそこまでは…」 「最近、あたしの漫画のファンになった人よ。話し上手で楽しい相手よ」 「そうかい」  クリアウォーターは姉の横顔をさりげなく観察した。その言葉に偽りはないらしく、化粧をした横顔はうきうきして見える。いい傾向だと、クリアウォーターは少しほっとした。少なくとも、元夫のことを引きずって日々を送るより、ずっと精神的には健全だった。  姉が出て行ったのと入れ違いで、カトウがやって来た。小さな包みを抱えた恋人を玄関で迎え入れ、クリアウォーターはそのまま居間に通した。  ひと続きになっているキッチンのテーブルの上には、すでに夕食の準備が整えられていた。  黄鯛の塩焼き。煮物。茶碗蒸し。お赤飯。  いつもより豪華な――というより、完全に祝い事の食事だった。 「…あの。少佐の誕生日って、八月でしたよね」 「そうだね。そして君は十一月だ。今日は、誕生祝いというわけではないよ。まあ、座って」  とまどうカトウに席をすすめ、自分も座る。  そこでクリアウォーターはおもむろに口を開いた。 「正式な辞令は今週末に届く予定だ。これは、その前祝いだよ」  カトウは内心、首をかしげた。   ーー辞令? 前祝い? 「君の辞令だよ、ジョージ・アキラ」  クリアウォーターは笑みを浮かべた。 「四月の事件を解決するにあたり、君は非常な貢献をした――それがやっと認められる形になった。昇進おめでとう。カトウ二等軍曹どの」  その言葉に、カトウは目をぱちぱちとしばたかせた。  鯛の身をほぐし、赤飯を味わい、茶わん蒸しをたいらげる内に、ようやくカトウの頭の中にクリアウォーターの言葉が染み込んできた。 ――昇進。給料が少しだけ増える。あとは、軍服の袖章のデザインが少し変わるか…。  とりあえず、めでたい話のはずだが、まだ実感がわかない。それでもクリアウォーターが我がことのように喜んで祝ってくれているのが、気恥ずかしくもうれしかった。  思えば。この一年の間に、カトウを取り巻く環境は大きく変わった。 ――語学兵なら、まあ危ない目には遭わないだろう。軍に戻って、日本に行って、まっとうな人間として仕事してこい――  かつての上官ジョー・S・ギル大尉はそう言って、カトウをどん底の生活から引きずり出して、ロサンゼルスから送り出してくれた。  今年の四月の経験を踏まえると、ギルの台詞の前半はとんだ見込み違いになったわけが。  少なくとも後半に関しては、一年前のあの頃よりもましな人間になれたのは確かだろう。  こうして恋人となった相手と一緒に、温かい夕食を囲っていられるのだから。  食事が終わった後、クリアウォーターとカトウは小図書室に移った。そこでカトウはようやく、今日の来訪の一番の目的を果たすことができた。  小さな包みを渡されて、クリアウォーターは意外そうな顔をした。 「これを私に?」 「はい。その……入院中にお世話になりましたから。せめてものお礼です」 「おや。そんなに気を遣ってくれなくてよかったのに――でも、ありがとう。今、開けてもいいかい?」  カトウがうなずくと、クリアウォーターは丁寧な手つきで包み紙を開いた。  中から現れたものは、一見すると小さな木製の小物入れに見えた。ただ、その側面に何かレバーのようなものがついている。  クリアウォーターは箱の正体を知って、やわらかい笑みを浮かべた。 「オルゴールだね」  緊張した面持ちのカトウの前で、クリアウォーターはレバーを回してゼンマイを巻いた。  机の上に置くと、小箱はすぐに澄んだメロディを奏で出した。  繊細でいて不思議と力強い。何かの物語が始まりそうな、そんな旋律――。 「…パッヘルベルのカノン」  カトウが知らなかった曲名を、赤毛の青年は言い当てた。オルゴール用に編曲されたのだろう。クリアウォーターの知るカノンのテンポより、ゆったりしている分、全体の曲調が温かみを増していた。  クリアウォーターはそっと腕を伸ばし、カトウを抱き寄せた。 「素敵な贈り物をありがとう」  耳元でささやかれて、カトウは顔を赤くした。そのままクリアウォーターの胸に頭を預ける。恋人が目を閉じたのを見て、カトウも同じようにならった。  部屋の中に満ちる音楽に、二人は静かに聞き入った。  言葉はいらない。  ささやかな幸せを分かち合うのには、今は互いがいれば十分だった。

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