66 / 74
手のひらの天使
数か月後。
「お疲れ様でした、お先に失礼します!」
「おう、お疲れ。シホもカホも気を付けて帰れよ」
「千代晴さんも風邪ひかないでくださいね、大事な『店長代理』なんですから」
「お、おう」
閉店作業を終えて店を出て行った二人を見送ってから、俺は再びキッチンへと戻った。
ふんわりと焼き上がったスポンジを水平にカットし、ココアクリームを塗ってから縦にカットしたイチゴを並べて行く。
回転台に乗せて表面を真っ白なホイップクリームでコーティングし、満足のいく滑らかさにしてから、今度は側面にクリーム付きのパレットナイフを当て、ゆっくりと台を回転させる。
「………」
衛さんにとっては朝飯前でも、俺にとってはまだまだ緊張する作業だ。クリームがでこぼこになっていないか、なっていたとしたら修正ができるか。ナイフを強く当てすぎたり台を早く回転させたりしたせいで、スポンジが崩れてしまわないか。
時間をかけて側面のクリームが綺麗に塗れたことを確認し、今度は表面のデコレーションだ。
オーソドックスに縁を星口金の生クリームで飾り、中央をサントノーレ口金で花を描くようにデコレートし、全体的にココアパウダーをふりかけ、最後にイチゴを等間隔に乗せて行く。
「……ああ、疲れた」
衛さんは側面もクリームでデザインしたり、何なら表面もクリームのバラやリボンやフリルで飾ったりしているが、俺にはまだ無理な作業だ。何しろここ最近ようやくクリームの絞り方の基本が身に付いたレベルなのだから。
完成したホールケーキを慎重に箱に入れ、落とさないようしっかりと箱の持ち手を握る。
最後に改めて明日引き取り予定の特注ケーキや廃棄前ケーキのチェックをしてから、俺は店の電気を消して外へ出た。
衛さんに作ってもらった店の合鍵は、衛さんの不在時に俺がこの店を任されている証だ。店長代理という肩書きまでもらえて、時間がある時はケーキ作りの基礎から教わっている。
俺は弾む足取りで家路を目指した。頭の中にあるのは勿論ヘルムートの笑顔と、暖かなタオルにくるまれた水色のタマゴだった。
タマゴはもういつ孵化しても良いくらいの所まできている。じっと見つめていると時折微妙に動いたり、薄っすらと中の赤ん坊が笑うようにダンスしているのも見えるのだ。
一つ心配なのは、「赤ん坊がどんな生き物であれ、今用意できる物は何もない」ということだ。例えば魚類やヘルムートと同じクラゲだったら、故郷の濃度と同じ海水が必要なのではと思ったが……クーヘンの生き物の環境対応能力というものは俺の想像を遥かに超えているらしく、生活に水が必要でも極端な話、水道水で良いとヘルムートは言う。
人間が飲める程には綺麗な水と分かっていても、何となく生まれたての赤ん坊に水道水というのは不安がある。だからネット通販で少し値の張るミネラルウォーターを購入したのだが、今度は水温や室温をどうしたら良いかとか、冬だけど暖房をつけ過ぎない方が良いかとか、次から次へと心配事が持ち上がってくる。
「千代晴、心配しすぎです」
と、ヘルムートは笑うが。
初めての子供であり、かつ専門家の手を借りることのできない育児なのだ。心配しすぎても足りないくらいである。
ともだちにシェアしよう!