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第50話

 唇を引き結んだ。現在(いま)は記憶に鮮明だが、天音にくちづけたことなど日常の雑事に取りまぎれてすぐに忘れる。  ゆうべは激情に駆られたあまり頭のネジが二、三本ぶっ飛んでいた。ただ、それだけのことだ。  第一、(いとま)を告げても天音は別段、残念がるそぶりを見せなかった。それどころか、わたしが表に出るが早いか玄関の扉をばたんと閉めた。  言い寄られているのでは、と深読みしてしまうくらい、なついてきたくせに。そう思うと豹変ぶりが憎らしいような、あっさりした態度が物足りないような複雑な心境だ。  踊り狂う枝々を透かして、県道と交わる十字路が見え隠れしはじめた。やれやれ、と肩の力を抜いたとたん、前輪がすり鉢状のくぼみにはまりかけた。からくも脱輪は免れたものの、ギアチェンジにもたついた結果、エンストした。  先が思いやられる。私道を抜けきらないうちにこのザマでは、インターチェンジに行き着く前に峠道で立ち往生しかねない。  髪をかきむしり、エンジンをかけ直した。アクセルを慎重に踏み、ギアはセカンドに保ったままデコボコ道をそろそろと行くと、今度は倒木に行く手を阻まれた。  車を降りてどかしにいくと、あっという間に濡れねずみになった。おまけに、その倒木は押しても引いてもびくともしない。 「梃子がなければ、無理か。ジャッキでも積んでおけばな……」  ひとまず車に戻った。両腕を組み、頭の後ろにあてがってシートに背中をもたせかけた。  くだらない意地を張っている場合じゃない。山荘に戻って天候が回復するのを待つべきだ。 だが、気が重い。  ごねても一文の得にもならないという自覚はあるが、天音に会いたくない……少なくとも心の整理がつききっていない状態では。  どさりと、もぎ取られた枝がボンネットに落ちてバウンドした。腹をくくってUターンした。  呼び鈴を押すと、天音は、わたしが引き返してくることを予期していたように顔色ひとつ変えなかった。挽きたての豆のかぐわしい香りが、鼻先に漂ってきた。 「おかえりなさい。ちょうどよかった、コーヒーを淹れたところです」 「台風が通過したら、すぐにおいとまする。それまで雨宿りさせてもらう」    わたしは、むすっとスニーカーを脱いだ。天音のかたわらをすり抜けて、螺旋階段へと急いだ。

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