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第2話

「先生、資料分けておきましたから、後でチェックお願いします」 「お、もう出来たの。さすが陸くん、助かっちゃったなぁ」 「コーヒーでも淹れましょうか」 「逆、逆。僕が心を込めて淹れさせていただきますよ。あ、夕食奢るから、食べたい物を考えておいて」  鼻歌混じりでドリップバッグの用意を始める恩師の姿に、ありがとうございますと礼を述べて背伸びをする。長時間同じ姿勢をしていた身体をゆっくりと解し、ほんの少しこりを感じる首元を指で揉んでおく。パソコンでのデータ作成は嫌いではないが、根を詰めるとやはり疲れる。  大学で教鞭を取る傍ら趣味で古生物学の研究をしている梶聡介とは、中学で入った地学部が縁で知り合った。  地元で大きな病院を経営している梶家の娘婿でありながら、恩師は己の好きなことのみを追求している自由人だ。病弱だった母親の方が惚れ込んで、いまも病院長を勤める祖父が家を出られるくらいならと婿養子に迎えた話は、暁人から聞かされるまでもなく知っている有名な話である。  梶聡介と自分はどこか似ている。そんなおこがましい事を思ってしまうのは、家族と距離を置いている聡介の姿に憧れているからだ。敢えて離れるのと群れから逸れてしまうのでは違うのに、自らの愛するものだけで構成された静かで孤独なあの空間が、陸にはどうしようもなく羨ましく見えた。 「そういえば弟さん、うちの大学に合格したんだよね。下宿先とかはもう決めた?」 「あ、暫くはその、実家から通うつもりみたいです」 「えぇ、うちは車通学許可してないし、さすがにキツくないかな。通うのに疲れてたら何も頭に入らないよ」 「彼奴そそっかしいから、一人暮らしは母が反対していて。でもそうですよね、また俺からも言っておきます」 「まあ陸くんが気を使わなくても、本人が自分で言い出すと思うけどね。おっと、お湯が沸いた」  電子ケトルがたてた音に話を切り上げた聡介に内心ほっとする。外の空気を入れようと近づいた窓の向こうには、ぼんやりと霞のかかった春の空が見えていた。大学で迎える五度目の春。ようやく家族から離れることが出来たこの世界に、弟がやってくる。  喉に刺さった小骨のように、じくりと自分の中の深い部分が痛みを訴えた。  気付かないふりをして目を逸らしても、掴んでくる手を振り払っても、血の繋がりという関係はどこまでも付き纏う。 すべての関係を壊す最初の一石は、何の予告もなく投じられた。 『なんかさ、部屋の前で座り込みしてる人が、大荷物抱えて陸の弟だって言ってるんだよね。これ、どういうこと?』  一緒に暮らし始めて一年。いまではお互い毎日のスケジュールも知らない暁人から電話が入ったのは、研究室への泊まり込みが続いていたある日のことだった。  デスクに置いてあるカレンダーをみると、学生たちは春休みの真っ只中。新生活が始まる者たちが大移動を始める時期だ。 「……悪い。ちょっと電話を代わってもらえるか」 『いいけど。はい、陸に繋がってるから』  痛む気がするこめかみを押さえながら待っていると、もしもしと久しぶりの弟の声が端末越しに聞こえてくる。 『兄貴、久しぶり。いくら電話しても出てくれねぇからさ、思い切って来ちゃった。すげぇ立派なマンションじゃん』 「お前、なんでそこが分かった」 『住所変わるからって転居連絡くれただろう。大学に入ってから休みの日も実家に寄り付かず、電話すら出てくれないとなれば押しかけるしかないだろう。ねぇ、とにかく一度話を聞いてくれよ。いま追い返されても俺行く所ないんだって』 「家に帰ればいいだろう。ぎりぎり通学可能圏内だ」 『鬼ッ。とにかく今晩だけでも泊めて!』  相変わらず調子の良い弟に、中途半端に連絡をし続けていたことを後悔しても遅い。  いや、どちらにしろ地元の国立大学に進学した時点で、こうなることは予測できた。聡介の下で学ぶ以外の道を考えられなかったとはいえ、この距離で家族との関わり合いを完全に断つことは難しい。 「話を聞くだけは聞こう」  もう一度代わってもらった電話口で詫びを入れて事情を説明すると、暁人は別にいいよと即答した。やけに明るい口調が引っ掛かったが、ここで問答をしてもどうしようもない。  急いで帰るとだけ返事をして通話を終了させると、陸は目頭を強く押さえてから机に突っ伏した。黙っていた疲労もあって、微妙に目まいがするような気がする。  なぜ今日に限って暁人は帰ってきたのだろう。大学生になったら一緒に暮らしたいと押し切られて住み出したのに、近ごろでは二人とも留守にすることの方が増えた1LDKのマンション。  男二人が住むにも広いとは言い難いその空間に、佳がやってきた。それが微妙な綱引きを続けていた暁人と陸の関係を崩す、最初のきっかけだった。

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