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第13話

 白昼夢のような数日が過ぎると、毎日はまたいつものリズムを刻み始めた。  東北の短い夏はあっという間だ。あれほど煩かった蝉たちが、ぽつりぽつりと地面に転がり始める頃には、陸の肩につけられた聡介の噛み跡も僅かに残るだけとなっていた。  暁人や佳と顔を合わせることもなく、以前と同じように大学に行く毎日。聡介との関係は、嘘のようにあるべき姿に戻されてしまった。  肩に残された傷がなければ、恥ずかしい夢を見たのだと思うほどに、そこには何ひとつ変わらない優しい恩師しかいない。そして彼がそれを望むなら、陸からは何も言うべき言葉はなかった。  身体に残った僅かな痕跡も消えたら、いつものように全てをこの身の内に飲み込めばいい。聡介が望むこと、求める物、陸はただそれだけを叶えたかった。 「うわ、降ってきた」  すぐ側にいた男が声を上げると同時に、ぽつりと大きな雨粒が鼻先を叩いた。つられて見上げたとたん、一気に勢いを強めた雨脚はスコールのように降り注ぎ始める。  慌てて近場の建物に避難する人々の姿が、断続的に地面を叩く雨の水飛沫に霞んで見えた。マンションはもう目の前だというのに運が悪い。舌打ちをして走ることを選択するが、強すぎる雨脚にあっという間に全身がずぶ濡れになっていく。 「くそっ、どうするんだ、これ」  なんとかエントランスにたどり着きはしたものの、シャワーどころかバケツの水を頭から被ったようだ。ぼたぼたと滴を落とす邪魔な髪をかき上げて、レジ袋の中にまで水が入っている買い物を確認する。  夕食に足りない材料を買いに出ただけだったのが幸いだ。手荷物は購入した少しの野菜と肉だけ。大丈夫そうかと水を捨ててから安心すると、今度こそ脱いで絞らなければ不味そうな服にため息が出る。 「何やってるの」  仕方なく上着くらいを脱いだところで、見知った声が傘を叩く雨音と共に聞こえてきた。マンションの入口で半裸になっている間抜けな男に、大きめの雨傘を持った暁人が目を丸くして立っている。  とっさに声を出すことも出来ず、陸は無言のまま手にした自分のシャツを絞った。たっぷりと含まれた雨水が雑巾を絞ったときのように滴り落ちて、石の床材を濡らしていく。ここから六階にある聡介の部屋まで、水たまりを作りながら上がることは許されるのだろうか。  現実逃避をするように床に溜まった水を見つめていると、傘を畳んで近づいてきた暁人の靴が視界に入った。どくりと、心臓が跳ねるのがわかる。暁人の顔を正面から見ることができず、手の中のシャツをひたすら絞る。 「タオル取ってくるから待ってて」 「え、あ」  俯いたままの陸にかけられた落ち着いた声に、反射的にポケットにいれてある鍵を弄った。しかし陸が出すよりも先に、金属のぶつかる軽やかな音がしてキーケースが取り出される。 「鍵はあるよ。これでも一応は息子なので」  風邪引くだけだから逃げないでよと念を押すと、暁人は共有玄関のエントランスキーを開けて中に入ってしまう。  ずぶ濡れのままに見送る暁人の背中が、すぐに到着したエレベーターの箱の中に消えた。手に持ったシャツが、じっとりと重い水気を含んでいて気持ちが悪い。  改めて羽織る気にもなれないそれを握りしめながら、暫くは止みそうにもない空を見上げるしかなかった。

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