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第22話
「俺のことはもういいよ。自業自得だし、自分でなんとかする。それより一日でいいから家に顔出してくれよ。兄貴の気持ちもわかるけど、大学に入ってから一回も帰ってないだろう。お袋のやつ、婆ちゃんを施設に入れるって言ってるんだ」
祖母の名前が出たことに、ようやく陸の視線が佳の方に向けられた。複雑そうに揺らぐ黒い瞳に、佳はもう一度とにかく顔を見せてやれと繰り返す。
母親が入所させるつもりの介護施設は、風光明媚な場所を謳い文句にした県境の山間にあるホームだ。一度入ってしまえば、両親が厄介払いができたと面会にもいかず放置するとは目に見えている。
「そんなに悪いのか」
「うん、まあ……ね、家族の顔も名前も分かんなくなっちまって。俺がこっちに来てから徘徊も始まったみたいで、もう限界だってお袋が。近場ですぐに受け入れてくれる所はないから、なんかすげぇ山奥の施設に入れることになるって」
母と祖母の確執は、自分たち兄弟にはあずかり知らぬ所だ。むしろ彼女たちのせいで、トバッチリを喰らったと佳は思っている。
絵に描いたようなとまではいかずとも、せめて平均的の家族であったなら兄との関係はどんなものだったのだろう。子は親を選べない。何不自由なく大学にまで行かせてくれ、むしろ愛を過剰に与えられてきた自覚はあるが、歪なそれは結果的に毒と同じだ。
「そうか。なら、最後に会いに行くことにする」
夕暮れのアスファルトから発せられる熱のせいか、兄の声をぼんやりと遠く聞こえた。
「……最後とか、そんな言い方すんなよ」
心細げに響いた声に、少し前を歩いていた兄の足が止まった。残暑という言葉が空々しいほどの気温だが、太陽が顔を出している時間は確実に短くなっている。ようやく沈んだ夕日に、僅かに残っている蝉たちが最後の鳴き声をあげている。
「来月カナダに行くことになった。教授が無理をして作ってくれた、最初で最後のチャンスだ。暫くはこっちに帰るつもりはない」
「カナダ?」
「お前の新しい下宿先もついでに頼んでおく。俺が留学するせいで同居解消ならおかしくはないだろう。バイトで勉学を疎かにするな。俺の話はそれだけだ、お前もその件だけならもう帰るぞ」
「まって、兄貴!」
慌てて駆け寄って腕をつかむと、ぎょっとしたように陸が目を見開く。年頃になってから、佳は極力兄に触れないようにしてきた。伝わる体温に胸の奥がつきりと痛む。
「っんで、なんでそんな大事なこと、一人で決めちまうんだよ。俺が兄貴の先輩に伝言頼まなかったら、家族に黙ったまま行くつもりだったのかよッ」
「そんなの、今までと同じだろう?」
掴んでいた手を振り払われると、もう一度つかむだけの勇気は出ない。陸は受験も大学も一人で決め、実家に頼ることなく奨学金とおそらく梶聡介の援助を受けてここまでやってきた。
日帰りで通えないこともない距離であるにも関わらず、お互いにこの四年半一度も顔を見せず。電話の一本すら交わさない。陸にとって家族は、とっくの昔に家族では無くなっていたのかもしれない。
どこかで分かっていた筈なのに、改めて突きつけられた現実に打ちのめされる。そしてそこまで擦り切れた絆であっても、自分たちが兄弟であるという呪いは永遠に消えることはないのだ。
「次の日曜だろう。俺も、一緒に行っていいかな。最後なんだろう」
「勝手にしろ」
昼頃に着くように出るとだけ言って、陸は今度こそ佳を待つことなく歩き出す。遠ざかる背中に何も言えず、ただ俯いて痛いほど手を握りしめた。
追いかける佳を待ってくれた兄は、この手を引いてくれた人はもう居ないのだと、痛いほどに思い知らされた。
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