21 / 45

第21話

 夏休みを一週間ほど残して、佳は実家から大学で出来た友人の下宿先へと戻った。  気さくな友人は家賃その他半分持ちは助かると軽口を言ってくれるが、念願の一人暮らしの家にいつまでも居候はできない。  とにかく金だ。引越し代が気になる程の荷物はないが、まず家賃数ヶ月分の費用がかかる。両親に言えば出してくれるだろうが、兄の所で暮らすと大口を叩いた手前、話したくない。  それにそんな事を口にすれば、不利益を被るのは佳ではなく陸だ。これ以上、親と兄の溝が広がるところを見たくなかった。 「行ってきます、と」  佳に住む場所を提供してくれている友人は、遠方ということもあってもう少し故郷で過ごすと連絡があった。あと数日は気楽な一人暮らしだが、今夜もはりきって見入りの良い深夜のアルバイトである。  しっかりと戸締りをして二階建ての学生用アパートの階段を降りると、郵便受けのあるエントランス前に立っている人影が見えた。  本人の性格と同じく愛想に乏しい、シンプルな白いバンドカラーシャツに、黒のスキニー。服のことはよく分からないとモノトーンの物しか買わない兄は、白が朱色に染まるような夕焼けの中でも沈んだ色素の中にいる。 「なにか用か」 「え、と、なんでここが?」 「お前が研究室の先輩に頼み込んだんだろうがッ」 「うわぁああ、ちょいたんま、そんな怒んないでくれよ。はい、はいはい、ダメ元で頼みました。いやだって、兄貴の連絡先わかんなくなっちまったし、張り込みしたりしてぶん殴られたくないし、俺なりに必死だったんだって!」 「話が長い。結論から話せ」 「は、はぁい。あ、俺これからバイトだし、歩きながら話していいかな。こっから徒歩三十分くらいだから」  お願いと顔の前で手を合わせると、陸は切れ長の目をさらに細くしてこちらを睨みつけてから、ふいと先に立って歩き出した。慌てて後を追いながら、反対方向に行きかけている兄をこっちと呼び止める。 「しかし暑ィなぁ、今夜のバイトもキツそうだ」 「バイトって、何をしているんだ。まさか水商売か」 「夜間工事の交通整理だよ。早く金作らないとだからなぁ。夏休み中は詰め込んでいかないと」 「焼け石に水だ。さっさと父さん達に出してもらうなり借りるなりしろ。盆には帰ったんだろう。なぜその時に相談しない」 「だからそれはぁ、ああもう、色々とあるじゃん。兄貴から見たら悩みのない無神経な能天気野郎かもしれないけど、俺にだってそれなりに悩みはあんの!」  自業自得とは言え、住所も分からず連絡手段を絶たれた佳に残されたのは、研究室を直接尋ねることくらいだった。  何度も途中まで足を運び、陸が出入りをするのを見つけたこともある。けれど結局、話しかけることが出来なかった。兄の心の内がどうであれ、自分がした行為は彼を酷く傷つけた。  それくらいは、あの心臓を鷲掴みにされたような冷たい声を聞けば分かる。だって自分と陸は兄弟なのだから。どんなに疎まれていても、生まれたときから世界の誰よりも近くにいた存在なのだから。  だから、聞かなくても分かった。暁人は否定していたが、人を寄せ付けない所がある兄にとって彼は確かに特別な存在だった。特別で大切で、どう接して良いのか分からない。まるで触れないことでその輝きを守ろうとしているような、奇妙なバランスの執着心。  そんな目で暁人を見つめている陸がもどかしくて、兄に想われながら他に心を移す男が憎たらしくて、近しい故にどうにもならない自分が惨めで、佳は超えてはいけない一線を超えてしまった。  その結果がもたらした現状を、どう解釈するべきなのか。兄が愛するのは暁人の父親だと言われれば、納得するものがないわけでもない。そもそも地元から離れたがっていた兄が、比較的近場でもあるこの大学を選んだ理由も、梶聡介がいることに他ならないだろう。  陸は弟に自分のことを話してくれるような兄ではなかったが、彼が聡介に心酔していることは二人でいる様子を見ればすぐに分かる。それが敬愛なのか恋愛なのかは不明だが、愛に優劣をつけるとすれば、なんの情が一番になるかは本人次第だ。

ともだちにシェアしよう!