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第20話

 数日間、熱と喉の痛みに悩まされたものの、日ごろ鍛えていた甲斐もあってか風邪はすぐに軽快に向かった。  暁人の様子が気になったが、それを聡介に尋ねることは何故か気が引け、出歩けるようになってからこっそりと二人で住んでいたマンションに行ってみた。そこで見つけたのは、すでに別の名前が表札に入っている郵便ポストだった。  彼が大学を辞めるわけはない。別のキャンパスにある医学部を訪ねれば、会うことはできる。けれど結局、それだけのことが出来なかった。会ってどうしたいのかすら、陸には分からなかった。  大学に通い始めると、暁人と綱渡りの関係を続けていた時と変わらない、いつもの日常が帰ってきた。これ以上は、限られた時間を無駄にできない。もともと田舎に帰る気もなかった陸は、研究室が休みとなる盆も全て勉学と研究に充てた。何かに没頭している方が楽だった。  時期を同じくして、急に多忙となった聡介から回される仕事量もどっと増えた。心なしか食欲も落ちた聡介が心配だったが、夏バテだと笑ってはぐらかされるだけで踏み込ませてはもらえなかった。  聡介との間に起きたこと、暁人との間に起きたこと、佳との間に起きたこと。それらはみな突然のようで、これまで積み重ねてきたもことの結果だ。そして自分は、結局全てから背を向けて目を瞑っている。 「陸くん、ちょっといいかな」  聡介に呼ばれたのは、徹夜明けのある朝だった。窓から見える朝焼けの空はオレンジからブルーへの鮮やかなグラデーションを描き、浮いた積雲に今日も暑くなりそうだなとぼんやり思う。  小さな応接セットのある一角に着くと、そこには聡介が用意したらしいアイスコーヒーが置かれていた。二つある紙袋は、聡介のマンションから大学までのルートにあるパン屋のものだ。 「朝食がまだだろう。サンドイッチだが、食べながら話そう」 「いただきます」  勧められるままに冷えたコーヒーで喉を潤し、紙袋の中の大きなツナサンドをかじる。陸がもくもくと食べ進める間も、聡介はコーヒーしか口にしなかった。 「陸、カナダに行く気はないか」 「え」  どこか調子が悪いのかと尋ねようとした矢先に、とんでもないことを言い出された。突然のことに返事もできないでいると、聡介はゆっくりと本題を話し始める。 「実は去年君が発表した論文を気に入ってくれた博士がいてね。陸くんさえ良ければ、留学してみないかとの話を頂いているんだ。本格的に古生物学を学ぶなら、これ以上のチャンスはないと思う」 「は……い、あの、急なお話で」  古生物学を目指す者なら憧れないわけがない大学名に、認識の方が追いつかない。カナダへの留学は無論考えてはいた。しかしこんな突然に、それも先方から声をかけてもらえるなど、そんな事があるのだろうか。  ようやく混乱の少し落ち着いた頭が、近ごろ本業が疎かになる程に忙しかった聡介の様子を思い出させた。もしかしなくてもこの幸運の切符は、彼が必死の思いでもぎ取ってきた物なのだと確信する。 「費用のことは心配しなくていい。僕はほら、収入全部自分のお小遣いだから、たっぷり溜め込んでいるんだ。気になるなら、無期限無利子でお貸しするよ」 「でも俺は、先生の元でまだ学ぶべきことが」 「行きなさい。人生とは有限だ。君の……いや、僕の夢を君が、現実にしてくれ」  まるで己の夢を託すように、しっかりと肩を掴む聡介の手が熱く重い。もしかしたらと考えていたことが、きれいにピースが嵌ったパズルのように答えを見せてくれた気がした。震えそうになる手を、ぎゅっと強く握りしめる。これは別れではない、旅立ちなのだ。  何気なく眺めた窓の外の美しさを、この研究室で過ごしたかけがえのない日々を、自分は生涯忘れることはないだろう。

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