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第1話

 電車に揺られていると隣に立つ人の頭の奥に具合の悪そうな顔があった。宝井(たからい)麦也(ばくや)は青褪め汗を滲ませるその横顔が美しいことにも、車窓に手をつき眇めた目元に噎せ返るような色気があることにも気付かないで人混みを控えめに押し分けた。青褪めた顔は白く、徐々に赤みを帯びていく。麦也は綺麗に畳まれたハンカチを喋るのもつらそうに息を漏らすその相手の額に当てた。その者は濡れたような黒く質の良い髪をして、色の白さを引き立てた、線の細い男だった。背の高い痩せた女にも見紛うが、目に入った骨格や喉の隆起のある曲線はとりあえずのところ直感的に男性と判断することができた。ハンカチを当てられた彼は妖しく潤んだ目を麦也に向ける。 『大丈夫ですか』  電車の音で麦也の声は掻き消え、車内は大きく揺れた。ドアに具合の悪げな20代半ばから高く見積もっても30代前半といった頃合いの青年が押し潰される。麦也はハンカチで熱っぽい眼差しの持主の汗を拭いた。頬を寄せた窓ガラスが曇る。ついた手の甲には骨が浮かび、透明感のある皮膚から血管が透けて見えるようだった。また車両が揺れた。人混みに揉まれ、爪先を踏まれる。麦也も真っ直ぐに立っていられなくなった。それでも体調不良を起こしている青年を放っておけなかった。大丈夫ですか。二度目の声掛けも消えてしまう。しかし届いたのか白い顔をした青年は麦也を捉えた。どこか虚ろな感じがあったが桜色の唇が吊り上がる。彼は不自然な姿勢をしていた。ドアに状態を預け、車内の中心へ尻を突き出すような、人混みを嘲笑うような体勢で、走行による揺れとは違う律動を刻んでいた。麦也からは見えない反対側にある彼の胸元が不自然に膨らむ。ペットか何かを隠しているのかと思われたがシャツの下に手が入っているらしかった。それを心臓の調子が悪いのだと思ってしまった麦也は大きく口を開けた。薄い手が助けを求めかける唇を塞ぐ。そして電車の揺れに逆らい、青年は麦也の首に腕を伸ばして凭れかかった。 「大丈夫ですか?」 「うん……大丈夫」  肩に小さな頭が乗り、頬を他人の毛先が撫でた。掠れた声が耳元に響いた。そして耳朶を生温かく湿ったもので包まれた。 「あの、」 「大丈夫だから…っ、騒がないで……ぅっ、ん…」  電車は揺れ、駅のアナウンスが流れる。走行音ばかりで他に話し声は特になかった。 「次の駅で降りましょう。僕も付き添います」 「…っん、だから…大丈夫だって……ァ、んんっ」  麦也は声を籠らせ、強く抱き付く青年を放っておけなかった。電車が止まる。作為的に無機質を装っているのか、気怠げな癖のあるアナウンスと直後、炭酸飲料を開けた時に似た音を立ててドアが開いた。身を剥がそうとする青年を引っ張り、麦也は駅に彼を降した。目の前にあるベンチに座らせ、麦也は下から窺うように薄汚れた地面に膝をつく。 「大丈夫ですか」  青年の服は乱れ、体調不良とは別のものが見え始めた。麦也自身は経験のないことで戸惑いに眉を寄せてしまう。 「痴漢…ですか?」  狼狽えながら麦也は焦った。話に聞いたことしかない。気にしたこともない。よく使う電車に女性専用車両はあったが、意識したこともなかった。何より、被害者は女性であることしか想定していなかったことに気付く。それがさらに麦也を惑乱させる。気休めの言葉すらひとつも浮かばなかった。口は開いたままで、しかし言うことは出てこない。 「痴漢プレイ」  青年は呆れたような、うんざりしたような様子で答えた。 「はい…?」 「痴漢プレイ。愉しんでいたの。君に邪魔された」  彼は麦也を見て意地悪そうに笑んだ。数度瞬きしてしまう。言われていることの意味が分からなかった。意味自体は通っていたが、そこにある意図を汲み取れなかった。 「痴漢…ではない?」 「痴漢してもらっていたの。痴漢されるのが好きなんだ」  持ち上がりかける自身の掌を麦也は片手で握り込んだ。 「どうしてそういう紛らわしいことをするんですか」 「君が勝手に勘違いしただけじゃないか」  美しい顔はドラマなどでみる開き直る悪役というよりも子供の過ちを諭すような一種の哀れみを持っていた。 「そういうことはお(うち)でやったほうがいいと思います…」  そして彼は言い返すかと思えば麦也の顔を眺め、微笑むばかりだった。麦也は頭ごと淡い色の茶髪を掴まれる。 「君、可愛いね」  耳元で掠れ気味の声がした。気付くと人目を引いていた。麦也は青年の無事を認めるとばつが悪くなって学校に向かった。  学校に着くと校庭の端に教科書の山が落ちていた。麦也は土を払って学年とクラスを確認する。案の定、同じクラスメイトのものだった。教室に入ると教科書の主の席には花瓶が置かれ、椅子が倒れていた。引き出しからはゴミ箱の中身が溢れていた。日当たりのいい机に座る4人ほどの集団が麦也を見てにたにたと笑った。 「どうしてこういうことをするの」  そのうちのクラスのリーダー格といえるひとりは麦也を振り返った。 『お前が必死になるのが面白いから』  机の上の花瓶を退かし、机を掃除する。加害者たちは麦也を囲んだ。このクラスにはいじめがある。麦也は1人ひとりの顔を眺めた。 『お前もよく自分のこと好きと言うキモいやつのこと庇えるな』  リーダー格のひとりが言った。前に出てきて麦也の身体に自らの身体を擦り付けると悶えさせはじめた。ああん、ああん、と彼等は言った。 『気持ち悪ぃ』  やがていじめの被害に遭っているクラスメイトが登校する。麦也は彼に挨拶をしたが、相手には聞こえないらしかった。教室は下卑た嗤い声で満ち、紙屑が飛んだ。授業中もノートの切れ端に書かれた手紙が回ってきたりした。内容は麦也に告白した者を揶揄するかのように、宝井愛してる、だとか、宝井とエッチしたい、だとかそういった内容だった。挙手をして教師に提出すると回ってきた手紙を回収するにはしたが、真面目に授業を受けるように注意する程度だった。昼食の時間もまた虐げられたクラスメイトは給食に削りカスを盛られ、麦也は注意した。彼に自分の昼食をくれ、麦也は祈りの時間に充てていた。唯一の友人から紹介された神に祈りを捧げると不思議と力が漲り、何にも恐れを抱かずに済んだ。クラスメイトたちも見慣れた光景に奇異の目を向けることもやめた。チコリの弁士と呼んでいる、本尊も創設者もない信者わずか2名の新興宗教で、麦也は漠然とした神に祈りを捧げる。その祈りというのが外に向け両手で中指を立て、座禅を組むというものだった。目は閉じず、しかし薄く開かねばならなかった。これをすると不思議と落ち着いた。クラスの荒れた生活にも気分を害されずに済んだ。  放課後にいじめを行う者たちのひとりに体育館裏に呼ばれ、抱き付かれる。彼は股間を押し付けたりしながら麦也をコンクリートの壁で潰そうとした。珍しいことではなかった。抱き付かれ、下半身を押し付けられたり、尻に股間を当てられたり、当てさせられたりすることはよくあった。言葉は何も交わさないで、チャイムの時間まで制服をぶつけられ、ぶつけさせられる。意図は分からなくとも麦也は求められる限り応えた。  麦也は部活には入らず、放課後になると学校から駅までの帰り道にある唯一の友人と呼べる者の家に寄った。歳は離れていたが馬が合った。彼は十塚(とおづか)(まもる)といった。眦から眉にかけて下から引いたような傷痕がある男で、彼は常に本に囲まれ、今日も文庫本を読んでいた。チコリの弁士の流儀に則り、麦也は十塚に中指を立て挨拶した。伸ばしっぱなしのくしゃくしゃの髪の下で相手は陰湿に笑った。 「あのね、今日はね、また――」  本を読む十塚の前に座り、麦也は駅であったこと、学校であったことを話した。あれが気持ち悪かった。これが最悪だった。誰それが嫌い。あの時間が苦痛。何もかも早く消えればいい。朗らかな表情で泣きながら彼は十塚に喋った。聞いている相手はページを捲る。 「可愛いって言われてすごく気持ち悪かったの。おしりにお股当てたりされて怖かった。耳元でハァハァされる生活もう嫌だよ」  大きな手が麦也のさらさらとした髪を撫でる。本を読み終えた十塚に麦也は甘えて、胸元の開いた作務衣に飛び付いた。遠くでカラスが鳴き、家主が持たれていた大きな窓ガラスは一面オレンジに染まっていた。大きな肉叢に抱き込まれながら2人で畳に転がる。暗い部屋で十塚の鼓動と衣擦れの音だけが聞こえた。 「上出来だ」  低い声が聞こえる。昼間に鍛えているのか張りのある逞しい筋肉に頬を摺り寄せる。麦也は嫌煙家ではあったが十塚の煙草臭さは大好きだった。 「僕が転迷開悟(そつぎょう)したら心中(ケッコン)してね…」 「必ずな」  胸元に口付ける。十塚のほうでも麦也をさらに強く抱き締めた。 ◇  月日が経ち麦也は()う20歳を越えていた。十塚は結婚し子を儲けた。彼からは哲学的なこと、人の世の摂理、様々なことを教わった。それだけに麦也は彼も動物なのだと理解し、祝福した。家庭を持った友人の引っ越し先に出入りするわけにもいかず、やがて疎遠になった。久々に連絡があって飲もうという話になっていたが子供の急病により会うこともなく解散になった。店側からの伝言により、そのまま引き返して暗くなった帰り道を歩いた。近くの公園で少し休んだ。外灯とトイレの明かりで視界に不便はなかった。自販機で何か買おうとしたが喉は渇いていなかった。すぐ傍のトイレから子犬の鳴くような声が聞こえ、やがて人が出てきた。犬かもしくは猫を捨てた現場に出会(でくわ)したのだろう。見つかりにくいが雨風は防げるトイレに。飼える環境にはなかったが、捨てられた動物を一目見たくなった。この辺りの地域は動物病院が多く、外を徘徊している猫も丸々として耳に虐待とはまた違うV字カットがあった。選挙では区議会議員のひとりが動物の保護に力を入れていたのを覚えている。わざとらしい芳香剤と公衆トイレの異臭、さらにもう少し生々しい匂いが漂う中へ入っていく。くち、ぴち、と濡れた物音がした。奥の個室からだった。モーター音も聞こえる。麦也は中を覗いた。便器の上には捨て猫でもなく捨て犬でもなく人がいた。膝を開く姿勢で縄に縛られ、日に当たらない内腿が正面を向き、そこにはマジックペンで大きく正正正下と書かれていた。その狭間では首を擡げた陰部を晒し、パープルのイモムシに似た形状のものを肛門へ挿入されていた。器官に与えられた機能から外れるほど太い物体を受け入れ、血は出ていなかったがその代わりといわんばかりに米の研ぎ汁のような色味の液体が垂れていた。 「ん…ぉっお……ンッ!」  人の気配を感じ取ったのか、拘束されている者は硬く縛られ強制的に開かされた膝を揺らす。麦也は驚いたがすぐに我に帰り、目隠しを外した。本格的な目隠しで後頭部でベルトに似た複雑な構造をしている。こういうものがあることに恐怖する。犯罪に巻き込まれているらしい者は怯えているのか首を振って逃れようとした。 「今助けます」  拘束された者は暴れた。「怖がらないで」「大丈夫です」と言い聞かせながら固く絞められた目隠しや猿轡のベルトを外した。犯罪を助長する反社会的な道具として麦也は黒ずんだタイルに投げ捨てた。現れた顔は訝しげに麦也を見上げた。 「今縄も解きますから」 「…何してくれているのかな」  皮膚に食い込んだ縄に触れると、威嚇するような声音で相手は喋った。 「やめてよ…どうしてくれるの。直してよ。それとも君が相手してくれるの?」  ナメクジが這った跡のようなものが付着している麗かな黒い髪に公衆トイレの電気が輪を作る。麦也は後ろから肩に手を置かれた。地域の猫よりも丸々と太った大男が立っている。達磨に脂肪をつけたような顔が怒ったように無愛想に彼を見下ろし、分厚い手はトイレの外へ引っ張り出した。 「ダメですよ、こんなこと。すぐにやめないと。警察に連絡はしませんから、いけません。人をあんな風に扱っては…今ならまだ間に合います。僕もチコリ様に許しを乞いますから」  麦也は襟を掴まれながら巨体の持主へ説得を試みた。男は何も言わなかった。公園の出口で放られ、また公園に入ろうとすると、岩のような拳が3回ほど顔面に降り注いだ。もう一度立つが、首を掴まれ道路に投げ飛ばされる。少し離れたところから車が近付いてきていた。麦也は後退るしかなかった。男はその様子を確認すると暗い公園に消えた。鈍い痛みを抑え、再びトイレの前に寄ると、彼なりの信仰に祈りを捧げた。仮に十塚と飲み会の約束を果たしたとしても、()うに帰っているだろう時間まで長いこと祈り続けた。あの巨体の男の罪が許されるように、あの青年の苦痛が和らぐように熱心に熱心に長いこと祈った。  夜が更け、公衆便所からまさに肉体によって便器にされていた青年が身を引き摺るように現れた。麦也は掠れたような、呻くような声を聞いて祈りをやめた。左右に揺れるようにのそり、のそりと歩く痩せた長身を追う。異様な雰囲気だった。生きた屍を思わせる、ただ交互に左右の足を出し、無意識によって上体をかろうじて保っているような歩き方で、泥酔状態か激しい体調不良という感じがある。 「大丈夫でしたか」  近付くと青年の歯がガチガチと鳴った。軋むように首が回ってくる。喉で唸るような声が抜けていた。 「いつでも味方になりますから。貴方が安らげる日が来るよう、僕も祈ります」  鼻血が吹き出し、口角を切らした顔で麦也は笑いかける。相手はカチ、カチ、と歯を鳴らした。 「お(うち)まで送ります」  腰を痛めたのか、ただ単にそういう癖なのか、特徴的な歩き方は歩幅分亀より速いだけで、そう変わりがなかった。夜が明けてしまいそうな歩みに寄り添い、麦也は傷付いた様子の青年の家に向かった。相手は喉から空気を漏らすような呻めきを上げるばかりで、麦也も性被害に遭ったらしき彼に話しかけたりはしなかった。ようやく家に着いた。広大な敷地の平屋で、玄関の引戸はガラガラと古めかしい音が鳴った。 「ではここで。気を付けてくださいね。僕はいつでも貴方の味方です」  中指を立て祈る。青年はまったく麦也の存在をも忘れたように玄関へ入っていた。閉じられることのない玄関を閉めて麦也も住処へ向け踵を返した。1人になると帰り道のアスファルトが滲み、ぽつりと小さな沁みを作る。夜空を見上げた。しかし雨は降っていなかった。頬がくすぐったくなり一度拭うと止め処なく涙が溢れた。十塚に会いたかった。また昔のように話を聞いてもらいたかった。厚い胸板に飛び付いて逞しい腕に抱き締めて欲しかった。顔を見るだけでもいい。せめて一言二言交わしたかった。ひくっ、ひくっと、吃逆を起こし、咽びながら歩いた。そして身勝手な感情に翻弄されたことを恥じ、電柱に頭を打ち付けた。痛みはまた悲しみを呼び、抑圧を許してはくれなかった。うっうっと嗚咽し、またとぼとぼと歩いた。草木も眠る時間帯だったが反対から歩行者があり、顔中血塗れにしながら鼻を啜る彼にキャバクラの広告が入ったポケットティッシュを渡した。 「ごめんなさい。ごめんなさい。何か恵んでもらおうと思ったわけじゃないんです、僕はそんな…」 「落ち着いて、ほら。落ち着いて。救急車は呼ばなくて大丈夫だね?」  金髪の男が顔を覗き込んだ。麦也は頷いた。服装や雰囲気はホストクラブの従業員を思わせた。滲んだ視界を何度も瞬く。 「可愛いから声かけちゃったよ。君、男の子だよね?」  麦也は頷いた。 「そっか、そっか」 「ありがとうございます。このご恩は忘れません。貴方の未来に幸多きよう、祈ります」  金髪の男は関わりたくなさそうに適当なところで話を切り上げた。これから用があるとかで先を急いでいるらしい。麦也は彼の後ろ姿に中指を立て祈った。すると悲しみは薄れ、人から与えられた優しさに胸がいっぱいになった。それでもまだ泣きやめずにいる自分を恥じ、腕を抓った。またとぼとぼと道を歩いた。古い一軒家は父方の家だが、待つ者は誰もいなかった。玄関の框でどっと疲れて腰を下ろす。下駄箱の上に置かれた家族の写真立てを抱いて、祈りも忘れ横になった。十塚に会いたかった。彼の子供や彼の慌ただしさを案じられない気持ちを後ろめたく思うこともなく、優しい心地に包まれ眠りに落ちる。口元に薄らと痣が浮かび、鱗のように乾いた鼻血が剥がれた顔にゆっくりと涙が流れていった。  一晩寝てシャワーを浴びると気持ちはすっきりと晴れ、十塚の身だけを案じることができた。元気に暮らしていることだけは分かった。多忙な彼へ麦也から連絡することはない。祈りを終え、テレビを点けたまま家事をこなしていると、画面に見慣れた場所が映った。昨晩寄った公園で、明るいと別の場所のように思えたが、邪魔なほど中心に立った時計台やトイレとベンチの配置からいって間違いなかった。テロップには殺人事件と書かれている。被害者は男性らしい。タオルを畳む手を止め、麦也は亡くなった者と殺害した者に祈った。無心を装っても無心を装っても脳裏には性被害に遭い傷付いたような青年のことばかりが浮かんだ。そうこうしているうちに電話が鳴る。相手は十塚だった。電子音に変換された低く心地の良い声が聞こえる。整ったはずの感情が乱れた。彼は謝り、漠然とした約束をまた取り付ける。麦也は上辺で彼や家庭のことを気遣い、電話を切る。会いたかった、その一言が言えなかった。結婚したと告げられるまで麦也は彼の婚約や恋人の影にまるきり気付かなかった。一貫して世に出ることを嫌い、大衆を侮蔑している感じがあった。子供ができてからは厭世的で尖った感じが声からして消えていた。むしろ嘲笑ってすらいた大衆に彼も溶け込んでいる感じがあった。受話器を置いた手はそのまま目元に移る。気触(かぶ)れた皮膚が痛みと痒みを併せ持っていた。暗い感情に呑まれそうで麦也はまた祈ったが御することの出来ない息苦しさに外へと出た。結婚を知らされた時も、祈りでは凌駕できない息苦しさがあった。玄関前に人が立っていた。電話を切ったばかりの相手がそこにいる。結露した買い物を提げていた。その様が麦也の知る姿よりも庶民的で最初誰だか分からないくらいだった。彼は麦也を見ると黙って歩み寄り、抱擁した。懐かしい匂いに知らない家庭の匂いが混じっている。 「すまなかった」  麦也は相変わらず分厚い胸板に鼻先を押し付けられながら首を振った。 「ご家族は大丈夫なんですか」  さらさらとした色の薄い茶髪を無骨な手が撫でる。 「近所で事件があったらしいが、怖くないか」  衰えていない筋肉に顔を埋めて頷く。 「すまなかった、本当に…」 「いいんです。それに十塚さん、来てくださいましたから」 「顔、どうした?」  懐かしい香りに身を包まれ、肺いっぱいに吸い込んだ。大きな手に肩を掴まれ離されると、その手は次に麦也の小さな顎を掬った。癖のある傷んだ前髪に覆われた切れ長の昏い双眸に見下ろされる。厚みある掌が頬に添えられ、口の端にある傷を乾いた指がなぞった。 「少し転んでしまって」  十塚はまた麦也を力強く抱き締めた。蒸されたように暑くなる。優しさと勇ましさのある腕に弱る。 「ごめんなさい。嘘です。とても可哀想な人がいたんです。でも助けようとして、助けられなかったんです。嘘も吐いて、その人のことも助けられなくて…僕は最低です…」  友人の久々の体温に麦也の口は緩んだ。大きな熱い手は彼の髪を梳き、耳の裏を掻く。見た目に反した繊細で慎ましやかな手付きに目を閉じる。 「お前の所為じゃない。危ないことに首を突っ込むな」 「可哀想な人なんです。今にも救いの手が必要な人なんです…」 「俺は…お前を危険な目に遭わせるために神だの仏だのを教えたんじゃない。危ないことをするな。もうきっぱり忘れるんだ」  節くれだった指は前髪を上げ、麦也の額にある傷も目敏く見つけた。諭すような声音は優しく、首を振ることは出来なくなる。 「頼む」  塞がったばかりの傷口に唇が触れた。麦也は円い大きな目を瞠いた。もう逆らうことはできない。 「…はい」  躊躇いながら隆々とした人の夫、人の父の広い背中に腕を回した。 「また来る」  麦也は返答を控えた。家庭がある相手の重荷になるわけにいかない。子供もまだ手が掛かる頃らしかった。 「愛してる」  低い声が耳元で言った。麦也は動けなくなった。背中を軽く叩かれる。幻聴だったらしかった。十塚は買い物を差し出す。悪い気もしたが拒むのも気が引けて受け取った。礼を言わせる隙も与えず、十塚は踵を返す。

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