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第2話

 用足しが済み、帰り道の繁華街で吐いた若年の酔っ払いを介抱しているうちに駅前のほうが騒がしくなった。目の前を警察官が通っていく。海外の貧民窟よりも治安は良いがそれでも国内の中では噂になるほど荒れた区域のため、警察官の巡回はそう珍しくなかった。麦也(ばくや)は自分の酒の許容量も把握していなげな酔っ払いに水を飲ませ、溢れる分をハンカチで拭いた。ああはなりたくない、とか、すごいもの見ちゃった、と駅のほうから来る者たちが口にしていた。通行人の話からすると、どうやら駅前で男と男が猥褻(わいせつ)な行為に耽っているらしかった。麦也はふと公園で見た性暴行の被害者らしき青年を思い出して心を痛めてしまう。酔っ払いに肩を貸し交番へ届け、麦也は再び帰路に就いた。自宅前に背の高い筋肉質な男の影があり、駆け寄る。その者は子供に接するように両腕を広げ、麦也はその中に飛び込んだ。連絡のない訪問に首を傾げ、暗がりに溶け込む浅黒い顔を見上げる。 「また近くで事件があったみたいだ。怖くなかったか」  麦也は目を見開いた。十塚の大きな手が頬を撫でる。硬さのある人の夫、人の父親の指が少し伸びた髪を整えながら耳に掛けていく。 「え…?」 「猟奇殺人らしい。戸締りには気を付けろ」  被害者には冥福を、加害者には罪の許しを乞う祈りを捧げようとした。しかし中指を立てた両手は厚みのあるしっかりした掌に包まれ、止められてしまう。麦也に信仰を授けた相手からの行動に彼は戸惑った。 「やめろ。死んだ人間に幸せも不幸もない。罪人が待つのは司法の裁きだけだ。お前が背負おうとすることじゃない」  祈りを中断した片手だけは掴まれたままで、彼の厚みのある唇にその甲が寄せられた。 「こんなことはもうやめるんだ。今のお前にはもう要らない」  麦也は指や手の甲、手首に接吻する十塚を信じられないような顔をして凝然と見ていた。自身というものを丸々脳天から爪先まで映した鏡を割られるような衝撃と、視界に大きな亀裂が入るような印象に襲われる。頭は真っ白で、言葉も出てこなかった。 「自分のことを真っ先に考えてくれ。他人のことなんて二の次、三の次でいい」  されるがまま抱き寄せられ、次は前髪に数度キスが降り注いだ。 「お前が心配だ、麦也」  まだ信仰を授け、神に導き、生きることに輝きと意義を与えたこの男が口にしたことを信じられずにいた。まるで違う人間にラジコンのように操られているようだった。そうでないなら何か大きな不幸があって狷介(けんかい)な気性に持つようになったとも考えられた。となれば麦也は何よりまず第一に、最優先事項としてこの男のために祈る必要がある。 「いけません!そんなことを言っては…!世人(せじん)を愛さなくては地獄に堕ちてしまいます!もし十塚さんからその御心(みこころ)が消えてしまったのなら、僕が十塚さんの分まで祈ります」  麦也はわずかに語調を強めた。 「要らない」  祈ろうとする手をまた握られ、厚く硬い皮膚の持つ体温で蒸し焼きにされる。 「玄関まで送る。雨戸も閉めろ…いいや、今日は俺も泊まる」  ひとつひとつ解決していくにもひとつめから何も、決着すらできず十塚は話を進める。祈りを止めさせられた手は十塚の熱で火傷したのか疼いている。 「でも、あの、ご家族が…」 「大丈夫だ。お前を1人にしておくほど危なくない」  麦也は長い前髪の奥にある昏い双眸から逃れた。家人や子供の体調が悪くなったらと考えると、胸が詰まった。それを取り除く方法を誰に教えられたわけでもなく知っていた。 「大丈夫です、大丈夫ですよ。雨戸も閉めますし、鍵も毎日掛けていますから。ご心配には及びません。ご家族が心配します。僕のことは本当に大丈夫ですから」  十塚から逃げたくなった。失礼だと思いながらも身体は距離を作ろうとする。握られた手をおそるおそる引き抜く。 「これでも大人の男ですから。大丈夫です」  後退り、一歩二歩引いたところから見た十塚は知らない人のように思えた。あれから互いに違う場所に住み、地元から遠く離れても偶々そう遠くないところで暮らしていると判明した。それでも彼の暮らしぶりや生活はもう知らず、結婚相手の名も顔も知らない。息子の名も知らなかった。彼は次にはもう居ないことも告げず引っ越し、残されたのは結婚することと電話番号を記した紙一枚だけだった。それから差出人の住所はなく子供が生まれた旨のハガキが届いた。字面で十塚だと分かった。あの時に込み上がった感情が何より怖い。 「麦也!」 「大丈夫です!何かもてなせるようなものはないんですけれど…心配に及びませんから、本当に…」  十塚が捕食者か何かのように麦也は最初の数歩だけ後ろを振り向き、玄関まで走った。鍵を掛け、靴箱に寄り掛かると追い返すような真似をした自身の非礼に涙してしまう。それでもまだ込み上がりかけた感情と秤に掛けてしまえば軽いものだった。そして涙を拭うと、近所で起こったという猟奇事件の被害者と加害者に祈りを捧げた。暫くそこで膝を抱えていた。胸の詰まりは残ったままで、先程介抱した酔っ払いの陽気さを思い出すと、ふと同じものを頼りにしたくなった。小銭を握り締める。ほんの一過性の憂鬱で、気が変われば帰ってくればいい。とぼとぼと麦也はまた玄関扉を開けた。すでに訪問者の姿はなかった。門の前で探していたことに気付き、彼はまた落ち込んだ。外はすでに暗かった。大通りに出る道の途中にある小さな公園で猫の鳴く声がした。それは短く途切れ、何度も繰り返される。あんっ、あんっと高く鳴き、あまり聞いたことのない鳴き方だった。麦也はこの地域の猫が好きで、この公園には三毛猫と黒猫がよく出入りしていた覚えがある。鳴き声を追う。しかしその声の出処は猫ではなかった。小さなトイレの壁に手をつく2人組がそこにいた。体当たりをされ、あんっ、あんっと声が上がっている。外灯の光が届き、薄暗い中で白髪かもしくは金髪が揺れた。その奥には陰に溶け込んだ、闇より暗い髪がある。あんっ、あんっと鳴くような声は止まらない。麦也は呆気にとられた。色の抜けた髪をした者が振り返る。あんっと鳴く声が止まった。 「そんなことをしてはいけません!」  思考も挙動も停止していたが、一瞬二瞬、三瞬あたりで麦也は両方を取り戻した。この地域では去勢手術や避妊手術が行き届いているため猫の交尾でもそう目にする機会はなかった。麦也は性暴行の間に割って入った。淡い髪色の者は壁に押し付けた相手の片脚を担ぎ、麦也の制止も止めずに下半身で体当たりをする。被害者は男のようで暴かれた場所では性器が天を向いて震えていた。 「あっ、あっ!激しい…っ!」 「可愛い子が見てるよ。もっと楽しませてあげなきゃ、だろ…?」  第三者のことなど認めておきながらも構うことなく、加害者らしき金髪の男はさらに挿入を深め、激しく揺さぶった。 「あっあっあっ!んん…っ、お腹すごい…!」  片手をコンクリートの壁につく青年は首をがくがく振った。律動に合わせて動く勃起した陰茎の下でぬぷ…ぬぷ…と濡れた音が衣擦れや話し声に紛れている。 「いけません!いけません!こんなことは許されません!祈りますから!貴方の罪が許されるよう祈りますから!」  麦也は涙目になってあんあんと泣き叫ぶような青年を陵辱する男を諭しにかかった。 「うん…?混ざる…?」 「あ…んッ、その子……ちょっと、ぁっ……んン、頭おかしいみたいだから、あっあっあっ!」  性暴行の被害者と思われていた青年は親しげに加害者らしき金髪の男と話していた。そして喋っている最中に激しく揺れ、言葉が続かなかった。数秒ほどの爆発的な燃焼に似ていた。動きがぱたりと止む。 「うん…?ああ、この前の!」  明るい髪色の男が首を伸ばし麦也を覗き込んだ。その顔立ちが照らされる。麦也のほうでも見覚えがあった。キャバクラの広告が入ったポケットティッシュをくれたホスト風の男だった。 「ダメじゃん、こんな時間に頭のおかしい子がフラフラしちゃ。お(うち)まで送ってあげよっか。野郎には興味ないケド可愛いから特別ね」 「あっあっあんっ!」  彼は喋りながら腰を打ち付け、そのたびにコンクリートの壁に片脚を上げたまま潰される青年は喘いだ。 「待って、イく…」  金髪の男は麦也の顔を見て言った。そして目を逸らし、彼自身が捕まえている華奢な長身を強く抱き締めた。粘り気のある濡れた音の間隔が狭まった。 「あっあああっ!あっ!奥に出して、奥に欲しい……あっ!」  ぱちゅん、ぱちゅんっと体罰に似た音に変わる。麦也はぼんやりと身の内を暴かれながらも顔を火照らせ、潤んだ目で見下ろす黒い瞳を見つめ返した。コンクリートの壁にその肉体は強く押し付けられ、2人は蛹のように動かなくなった。しかし金髪の男が身動ぎ、体内を貫かれているほうの青年は白い頬をコンクリートに擦り付けてか細い声を漏らした。眠げに瞬く目蓋の下には蔑むような色を灯しまだ麦也を射抜いている。 「すごい……出てる……熱い…赤ちゃんデキちゃいそう……」  青年は腰を揺らした。 「そんな…強く締めないで、あっ…」  性暴行の加害者と思われたほうの男が焦った声を上げた。 「全部出した…?」 「もう空っぽだよ。でもキミが相手なら、あと1回くらいイけそう」 「じゃあ、舐めてあげる」  2人は立ち位置を変えた。金髪の男はコンクリートの壁に背を預け、今まで腹の中に男根を穿たれていた青年はその股間に顔を埋めた。衝撃的な光景だった。 「い、いけません!いけません!そんなことをしてはいけません!」  陰部を食べようとしている青年に泣きそうになりながら訴えた。肩を摩り、揺すった。 「童貞くんには分からないかも知れないケド、すごく気持ちいいコトだから平気だよ」  股間の器官を食われかねない側の男は苦笑いして説明する。麦也は狼狽えた。 「君にもしてあげようか?」  男性器を食おうとしている青年は口元で白い手を筒状にし前後に動かした。麦也は首を振りながら後退り、この2人が救われるよう中指を立てて祈った。ぐぽぽ…、じゅるる、と口から出すには憚られる物音に動じないよう努めた。薄らと空けている視界で影が忙しなく動いた。金髪の男の吐息も混じる。ぐぽ、ぐぽ、ぐぽ、とリズムが刻まれる。心臓が早鐘を打つ。恐怖しながら祈った。金髪の男が救われるように。 「美味しい?」  ポケットティッシュをくれた男は愉快げに訊ねた。返事はなかったが、こぷこぷ、じゅるじゅる、ずぞぞ…と次々に水音は変わっていく。スープを飲むときでも麦也はそのような音を立てたことがなかった。 「喉奥に出したい…いい?出すよ、……ぁっ、イく…!」  呻くような調子の声に麦也は目を開けた。コンクリートの壁に寄り掛かかる男は股間を食っている黒い髪を押さえ付けていた。涙を浮かべ、麦也は狂った光景に膝を震わせる。やがて股間を喰らっていた青年は金髪の男から頭を離した。 「んん…っ、まだすごく濃い。喉に絡まる…」  男性器を口に入れていた青年は唇を細く長い指でなぞり、何度も嚥下を試みる。そして麦也のほうへ躙り寄る。尻餅をついて麦也は後退する。 「(ぼく)、これで3度目だね。もう許さないよ。興奮したけれど」 「どうするの?連れて行く?」 「うん。連れて行こう」  しなやかな腕が身を竦め怯える麦也の頭を掴んだ。金髪の男は陽気に訊ね、青白い顔の美青年は妖しく笑った。 「こんなことはいけません、こんなことは…許されません…」 「一体誰が許してくれないんだい?許さないのは(ぼく)だろう?駄目だよ、そんな感情論をどこでも振り撒いていちゃ。公然猥褻で警察呼ぶ?」  髪を撫でるような手付きにおそるおそる青年の顔を窺った。 「1日に2回もおまわりさんのお世話になりたくないよ!」  ふざけたように金髪の男は笑った。 「(ぼく)、家族は?こんな時間に危ないよ、いい人ばかりではないからね」 「家族はいません…それに僕、大人の男ですから…」 「嘘ぉん。絶対嘘でしょ。未成年淫行になる前にホントのこと言って」  妖艶な雰囲気の青年の後ろから陰部を噛まれていたにも関わらず平然とした様子の金髪の男が顔を出す。 「み、未成年淫行!?いけません!子供をそんなふうにするだなんて!」 「うん、いけないことだよね。だから何歳なのか教えてくれる?」 「24歳です」  2人は顔を見合わせる。 「絶対嘘。どうせ17とかだろ?鏡見てきなよ、嘘つくのでも…ギリギリ19…うーんギリ20」 「本当です!天地神明に誓って!」 「免許証とかはないのかな」 「この前選挙に行った証明書なら…」  しかし今は小銭と家の鍵しか握っていなかった。ポケットを叩いて気付く。 「それ証明にはならないって。ちなオレ21ね。オレより年上だなんて面白いこと言うじゃん」  麦也は本当のことを話しても信じてもらえないことに口をぱくぱくさせた。目の前の美青年は鼻先が触れそうなほど顔を近付ける。しかし何も言わなかった。 「チン毛生えてんの?」 「は、生えてます…」  金髪の男の突拍子もない質問にも信じてもらうには素直に答えるしかなかった。 「ふーん。どう思う?」 「(ぼく)の仏はどうか知らないけれど、一般的な仏は3回は許してくれるからね。いいよ、許してあげる。次はないからね」  美青年は口の端を吊り上げて笑んだ。そして麦也の頭を掴み、小振りな耳元に口元を寄せる。 「次邪魔したら食べちゃうから」  薄い手が麦也のあまり筋肉のない胸に沿う。指が皮膚を掻いた。布越しに乳首を押され、悪寒に似た違和感が駆け抜けた。 「ぅん…っ」 「可愛いね。じゃあね、もう帰ったほうがいいよ。最近この辺り、ヒトを食べる鬼が出るらしいから」  青年はくすくすと笑った。麦也を置いて金髪の男に撓垂(しなだ)れる。 「送ってあげようよ?可愛いからレイプされそう」  金髪の男は青年に意見を仰ぐ。 「(ぼく)はちんちん、付いてるもんね?」  「……はい」 「大丈夫だって」  青年は金髪の男に言って、仲睦まじいカップルのように腕を組むと公園から出て行ってしまった。呆けていると背中に柔らかいものが当たり、驚きに跳び上がりそうになった。柔らかいものは背中から腕に回り、放り出した下肢に無遠慮な態度で居座った。この公園を根城にしている三毛猫だった。毛割れしているでっぷりとした猫で小さな樽に短かい手足が生えているような体型をしていた。麦也は安堵して食生活に困っていなそうな質の良い毛を撫でた。喉がごぉごぉと鳴った。何のために外に出たのかも忘れ、三毛猫を抱き直す。しかし抱き上げられるのは好きではないらしく、逃げてしまった。膝から重みが消え、麦也は手に付いた土を払って立ち上がる。酒はもう必要なかった。元来た道を戻り、家へと帰る。  門の前に差し掛かったとき、横から肩を掴まれ頬を打たれた。強い力で麦也はバランスを崩し、地面に転んだ。起き上がった途端にまた肩を掴まれ、人影が近付いた。麦也は顔を覆おうとした反射を抑え、土下座する。誰かを傷付けていたのだ。まるで心当たりはなかったが、現に殴られた以上はそうに違いなかった。となるともう詫びることしか、無能で無知な自身には何も出来ない。麦也はそう決め込んで、心当たりもないことに謝った。許されないことは彼にとって何よりの苦痛だった。 「もし俺が(くだん)の殺人犯だったらどうするつもりだった」  低く心地よい声は落ち着いてはいたが普段の滑舌や抑揚とはまた別のなめらかさが欠けていた。帰ったはずの十塚がいる。麦也は顔を上げた。硬い掌が熱を持った頬に当てられる。 「悪かった」  少し新しさのある匂いに包まれる。 「頼むから、夜に出歩かないでくれ」 「…ごめんなさい」 「謝らなくていい」  十塚の力強い腕に引かれ立ち上がる。彼に背を押され玄関へ入った。十塚も三和土に踏み込み、玄関扉が閉まる。 「十塚さん…」 「今日は泊まる」  麦也は十塚と見つめ合って止まった。遠くでパトロールカーのサイレンが聞こえる。 「僕、大丈夫ですよ。ご家族の方が心配しますから…」 「俺と一緒は困るか」 「と、とんでもない」  十塚は玄関の電気を点けた。そして麦也は歳の離れた友人を家へ上げた。彼は雨戸を閉めると言って部屋を案内させる。 「ここでの暮らしはどうだ」 「快適です。毎日幸せに暮らしています」  雨戸を閉める腕は筋肉の凹凸があり、山脈とそこを流れる川筋のようだった。浅黒い肌が蛍光灯に炙られ白く照り付ける。同性も魅了してしまう野生的な色気があった。彼はひと通り戸締りを確認し、宅配ピザを注文した。2人は居間でテレビの音声を流しながら沈黙に浸っていた。麦也は洗濯物を畳み、十塚も手伝おうとしたが、客人にやらせるわけにもいかず断った。彼の寡黙なところは変わらず、麦也のほうでもそれが苦ではなかった。客人はテレビを観ているものと思って麦也は洗濯物を畳んでいく。一言二言当たり障りのない会話を挟む。積み上げたタオルを風呂場に運び、居間にあるタンスへ下着や服をしまい、すでに寛いでいる客人の傍に座ってテレビを眺めた。時計の長針が真上を向き、アニメが始まる。二頭身の白猫のキャラクターが画面に現れ、麦也はチャンネルを替えた。ムグラというあのキャラクターを目にすると胸の2点がもどかしく疼き、脚の間がくすぐったくなった。ムグラは姉のようなしっかり者で、他のキャラクターを導く役割を持っていた。鋭い爪の潜む肥大化した丸い手で下腹部を(まさぐ)られる夢をみると落ち着かなくなった。絵を見るだけで股は奇妙な痺れを伴う。掻痒(そうよう)感とも違う、輪郭のある確かな感触を求めているような。 「麦也」 「はい」  動揺を悟られたのかと思い、麦也は驚いてしまった。股間を覆うような曇った感覚は他者に言える類のものではない。それだけは言語化できずとも直感的に分かっていた。 「さっき、誰と会ってた?友人か」  聞いたこのない躊躇がそこには籠もっていた。 「いいえ。友人ではありません。ですが以前、ティッシュを恵んでくださったことがあって…」  どうやら十塚もあの場を通りすがったものらしい。 「お前は昔から、何事にも首を突っ込み過ぎだ」 「ですが、救いが必要なら寄り添わなければ…」 「麦也」  十塚は四つ這いになり、麦也へ首を伸ばした。麦也は竦んで後ろに身を引いた。その分、客人は距離を詰める。眼前に迫られると怒鳴られるような気がして、目を閉じてしまった。唇が微かに弾み、さらに後退ろうとしたが背中に手が回ったためにかなわなかった。 「麦也…」  他者の体温に燻されている感じがあった。囁くように名を呼ばれ、ゆっくり目を開いた。しかしインターホンが鳴り、十塚の顔を見る間もなかった。玄関へ行こうとすると押され、もてなすべき客人に訪問者の相手をさせてしまう。そしてピザの箱2段をテーブルに置いた。 「何の土産も持ってこなかった。宿代も兼ねてピザで我慢してくれ」 「ご馳走になります」  十塚はもう目も合わせはしなかった。反発したり素直に従わなかったことに気分を害したようだった。麦也はどうしていいのか分からず顔も背けた十塚を見つめることしか出来なかった。心地良かった沈黙が突然重苦しくなる。謝らなければと思いはしたが上手く纏められず、声が出なかった。謝って許しを乞えば十塚はおそらくまた目を見てくれるだろう。しかし許されなかったら、許されないことからはもう逃げられない。苦しさに涙が溢れ、麦也はいきなり立ち上がって台所へ移動した。きちんと謝り、そして家族のもとへ帰さねばならない。家人も子供も待っている夫を、父親を一人占めしていいはずがなかった。ピザの代金もそっくり返すことに決め、麦也は冷蔵庫で冷えている茶の缶を見つけた。つい先日自治会から会報とともにもらったものだ。2缶ほどあるため家人の分もある。台所に入る1歩手前の傷んだ床板が軋む。 「麦也…」  どう謝りどう帰そうか、まだ決まっていなかった。怒られてしまったらおそらく何も言えなくなる。麦也は自身のひどく臆病な性分を理解していた。治す努力はしたつもりで、今もしているつもりだったがそれでも一向に治らず、他者からの害意を過敏なほど恐れた。不甲斐なさに打ちのめされることになっても、瞬間、瞬間はただ逃亡一点だけしか頭に残らない。 「あの…すみませんでした。その、帰ってください。ピザの代金は返しますから…持って帰りますか…?」  傷んで茶けた黒髪の奥に据わる昏い目が強く麦也を睨んだ。 「ごめんなさい…あの、来てくださってありがとうございました。お茶も…どうぞ」  震える手でよく冷えた緑茶の缶を2つ、互いを挟むテーブルの上に置いた。 「いい。夜中に出歩くな。邪魔したな」  十塚の声音は怒気を孕んでいた。麦也は震え、客人を見送りもせずに台所の床に腰を下ろし、玄関扉の音を聞いた。

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