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第3話

◇  友達を傷付けてしまった!そのことで麦也は声を出して泣き出した。十塚は麦也に新たに名をくれた者だった。本名の「爆紅夜(ばくや)」を揶揄われ、蔑まされたことを相談した時、「麦也(ばくや)」の字を当てたのは十塚だった。ひとつの麦が落ち、そこから新たな実を結んでいく、という意味らしかった。この名前を麦也はすぐ好きになった。親から与えられた呪縛(プレゼント)を捨てる後ろめたさもなく解決した。十塚は誰よりも麦也にとって偉大な人物だった。その相手に反発し、追い返してしまった。十塚が授けた名の由来のような善人になりたかった。だが心から善人にはなれず、せめてそうであろうとした。しかし善人になろうとするその行いこそが彼の中の理想像からかけ離し、己を苦しめた。猿真似よりも下手な、三文芝居より安いものだった。麦也は泣き止まず、苦しみのあまり、許しを乞う相手も定められず漠然と許しを求め、渇望し、懇願しながら気が狂ったようにすぐ傍にある風呂場のドアで手を叩き潰した。十塚に嫌われてしまったら生きていくことも許されないとすら思った。最低な自分をもう誰も許しはしない。赤らんだ手の痛みにまた泣き出す。そして疲れ果て、失神したように眠った。夢の中ではムグラが優しく慰めた。爪の潜んだ3つの丸い指が髪を撫で、心臓のリズムに合わせ頭を軽く叩いてくれる。長い尾を揺らし、優しい言葉を吐いた。頑張ってるヨ、えらいネ、大丈夫ダヨ。麦也は丸まって、ムグラを抱き締める。ムグラも喉を鳴らして抱き締め返す。みんなバクヤのコトが大好きダヨ。ムグラの白く平坦な胸に顔を埋めると股間が張った。腿を擦り合わせる。ムグラの大きな目に、麦也は映っていなかった。鏡のようなその大きな目には十塚が映り、恐ろしい顔をして麦也を睨んでいた。 『ヨクモ 俺ヲ傷付ケタナ、爆紅夜(バクヤ)。許サナイカラナ、許サナイカラナ、絶対ニ許サナイカラナ』  遠くでパトロールカーのサイレンが聞こえた。まるで他人事で、麦也は酒缶を空ける。一口、二口で缶に描かれていた桃の味は消え、冷たさと苦味しか感じられなくなっていた。しかしここ2日間、寝るかこの苦い冷液を飲み続け、大した抵抗感はなくなっていた。これほどの楽園を彼は知らなかった。風に当たりながら飲むと息をしながら天国が味わえた。公園のベンチから外灯に舞う蛾を何が楽しいわけでもなく見つめてへらへらと笑った。庶民的な極楽浄土にあるトイレでも子犬か猫が頻りに鳴き、蛾に飽きるとよろよろ立ち上がり、俗間的野生に帰された動物を触りたくなった。猫なら飼えるかも知れない。犬でも場合によっては飼いたいと思った。醜いか、ひどい片輪の犬猫ならば飼わなければならないという義務感があった。それが自分を醜くひどい片輪と評する彼の中で自分を愛する方法のひとつだった。自分を愛さなければ罪なのだと高校時代に教師から聞かされて以来、自分を愛さない罪を恐れた。  汚れたタイルを伝って公衆トイレ独特の匂いが漂う中に入った。洗面台の下には虫が死んでいる。排水溝にはゴミが詰まり、液体石鹸の入れ物は壊されていた。奥の個室から、あんっあんっと小動物が鳴いている。可哀想だ。助けなければ。保護する必要がある。俗世に染まりきった野生は動物にとっての苦界に違いなかった。酔った頭でぼんやりしながら俗物に翻弄される毛玉を探す。あんっあんっと鳴く声は、彼の夢の中で優しく微笑みかけてくれるムグラのようだった。アニメとして放映されない、彼の中だけの優しいムグラだった。黒ずんだタイルを辿る。開け放たれた個室の中を覗く。金髪が揺れている。 「すぐイくんで、待ってくれます?」  背中を向けたまま金髪は言った。腰ががくがくと勢いを増して揺れた。便器の蓋がミシミシと軋む。金髪の男と思しき体格の者の腰の両脇から白い両手が現れた。 「すご、い…ッ!すごく硬くなってる…っ、あっあっあっ…」 「だめ、そんな絞めたら、ちんぽ取れる、っ!」  麦也は数秒そのやりとりを見てから爪先をトイレの出口に向けた。もしかするとトイレの裏側に目的の生き物はいるのかも知れない。胃の辺りが重苦しくなり、濃い酒気を帯びた溜息を吐く。這うようにしながらトイレの裏に回る。ぶよ、とした何かを踏んだ。ハエの飛び回る不快な音がした。あの犬猫は死んでしまったのだ。そしてその死骸を踏んでしまったらしい。酒に支配された頭は時系列を無視したストーリーを作り上げ、勝手に納得した。何も深く考えずに済んだ。十塚のことももうどうでもいいことだった。死んでしまった犬猫に祈りを捧げることにも意義が見出せなかった。祈ることは彼にとって重労働ではなかったが、意義がないと思うや否や途端にやる気が起こらないどころか抵抗感が湧き起こった。引き返すとトイレの前で金髪の男が立っていた。ジーンズのファスナーを直しながら辺りを見回している。 「ははは、すみません、長いこと待たせちゃって。終わりましたよ」  金髪の男は流れるように口にしたが次第に表情を渋くした。 「あれ、キミ、年齢詐称クンじゃないの…」  トイレから射す明かりに麦也は照らされた。 「何してんの?そんなところで。ってゆーか、何か見た?」  金髪の男は顔を引き攣らせ、よろよろと不安定に歩く麦也の手を乱雑に掴んだ。 「ヤバいかもっす、青雲(しょうん)サン」  金髪の男はトイレへ引っ張り、個室の中で尻を弄る青年の前へ酔っ払いを突き出す。 「また君か…」  タイルに白みを帯びた粘液が落ちていく。青年は壁に手をつき腰を上げ、孔を穿(ほじ)っていた。 「どうしたの、今日は祈らないの?改修した?」  ペーパーを転がす音が響いた。そして彼は内腿を伝う液体を拭き取る。 「祈ってよ、ほら。おれを安らがせてくれるんだっけ?」  服を整えながら青年は喋った。思考に靄のかかった麦也は言われたまま祈った。 「どうする?ヤバいの見られちゃったかも。やっぱ連れて行ったほうがよくない?」  金髪の男は少し必死そうになって言った。 「ねぇ、気違いくん。何か見ちゃった?」  青年は美しい顔を麦也に近付けたが、すぐに顔を引いた。 「くっさ。酔っ払ってない?この子」 「ちょっと酒臭いかも知れないすね。未成年飲酒でしょ。どこでお酒買ったの。通報しちゃうよ」  麦也は酒を買った時に出している個人番号カードを見せた。金髪の男は「マジか~」と呟いた。 「ホントに3コも上なんだ。でも24で童貞クンねぇ…」 「いくら見た目が高校生でも内臓はちゃんと三十路(アラサー)でしょ」  興味なさそうに黒い髪の青年は洗面台で手を洗い始めた。金髪の男はまた麦也の手首を掴んだままだった。黒い髪の青年は丁寧にハンカチで手を拭くとトイレから出た。金髪の男もそれに続く。麦也も手を引かれるままついて行った。彼等は公園を出たが先を歩く青年が振り返った。金髪の男が立ち止まる。麦也も止まった。 「それで、どこまで付いて来るのかな」 「あ、手 放すの忘れてた」  金髪の男と顔を見合わせる。そして大きな指輪の嵌まった手が麦也の手首を離す。しかし数秒後、彼は麦也をぬいぐるみのようにして抱擁した。 「でも可愛いよ?」 「でもも(スモモ)もないよ。見れば分かる」  金髪男は麦也の髪に頬擦りした。ごつい指輪に背中を摩られる。他者の体温に胸が締め付けられた。香水の匂いも微かな煙草の匂いも心地良かった。 「来る?」 「うん」  麦也は頷く。前に立っている青年は呆れた声を出した。それから少し意地の悪い顔をした。 「家族は?」 「いない」 「この世に?」 「お母さんは分かんない…」  俯いてアスファルトを見ていると、四指に嵌まったシルバーリングの動き方が緩やかなものになる。 「どうして?」 「お父さんは死んじゃったから。弟と、妹も…お母さんは連れて行かれちゃって、それきりなの。新しいお父さんも…」  ぽつりぽつりと麦也は話した。酒は過去まで塗り潰してはくれなかった。まだ青年は意地の悪げに麦也を見下ろす。 「どうして妹と弟も死んじゃったの?なんで?病気の家系?交通事故かな」 「あの、青雲(しょうん)サン?」  金髪の男は苦笑した。青年は冷たい顔をしてまた歩き出す。 「殺して埋めたの」 「わぁお」  隣の男は戯けた声を出す。先に行ってしまう青年は足を止めた。 「お父さんは?」 「首吊っちゃった」 「どうして?借金?病気?」 「分かんない」  酒の力に溺れると、どこまで他人に話していいのか判断もつかなかった。 「遺言書なかったの」 「血が繋がってない子共に寄生されるの嫌だったんだって」 「うわぁ」  小石を付けたような手が髪を撫でた。嫌味のない程度の柔い香水が身を包む。青年は目の前にやって来た。 「でも僕はもうあのお(うち)しか行く場所ないの。お父さんに悪いよね。でも他に行く場所ないの。お父さんのこと好きだったのに、僕はお父さんが死んでも困らせるの」 「死んだら困らないよ。死んだら終わりだからね。死んでも生きてるなんて思っちゃ、自殺した人が可哀想だよ」  小石の付いた手とは別の薄い掌が頭に乗った。 「きっちぃ~」 「でもね、オトモダチがいたからずっとシアワセだったの。そのオトモダチのこと傷付けちゃったんだ。きっと許してくれないよ」 「だってさ、レイくん。オトモダチになってあげなよ」  青年は冷たく吐き捨て、先に行ってしまった。レイと呼ばれた金髪の男は困惑気味に唸ってから麦也の腕を引いた。 「年齢詐称クンは名前何?個人情報保護法と黙秘権で喋らないなら詐称クンって呼ぶケド」 「麦也ってゆうの」 「白夜?何ヤって?え?」 「ばくや。爆弾の爆に紅色の(ベニ)で夜」 「すげ~名前。いじめられなかった?」  レイと呼ばれた男は歩きながら麦也の顔を覗き込む。 「珍走団みたいだって言われたの。だから(むぎ)って字にしてもらったの」 「へぇ~。ビール好きそう」 「いい字だね、麦か。いいと思うよ。でも同時に残酷だな。その字は自分で当てたのかな」  冷淡な態度を取っていた青年が興味を示す。麦也は首を振った。 「なんで?残酷っすかね?アル中まっしぐらっぽい?現に今、酔払(よっぱ)だし」  レイというらしき男は訊ねた。 「豊穣の意味もあるけれど、有名な聖書の一文があってね。それは自己犠牲なしに繁栄はないと言っているんだよ。ま、おれの解釈では」 「どゆこと?」  陽気な男は麦也を見た。 「人の名前にするにはあまりいい意味だとは思えないね。まだ花火みたいな名前のほうがいいよ、なんだっけ、爆弾に紅色の夜だっけ」 「一粒の麦が落ちて、そこから実を結んでいくって聞いたです」 「(ぼく)は、その一粒の麦のことなんてどうだっていいわけだ?」  青年はまた冷淡な態度に戻った。麦也はその背の高い痩身を見つめた。 「でも麦也(むぎや)60歳なら字面渋いケド、爆弾に紅色の夜だと40くらいでキツくないすか。今からバンドやる?それなら全然アリだし」  慰めなのか冗談なのか分からないことを言う男は麦也と青年を交互に見遣った。 「そうだ、オレの名前まだだったね。レイモンドって言うんだけど、ま、レイって呼んで。あの人は…」 「個人情報漏洩だよ」  前方からぴしゃりと言われ、レイモンドと名乗った男はへらへらと笑った。 「ご主人様とかお兄ちゃんって呼んであげたら喜ぶよ。上目遣いでね」  レイモンドは酔っている麦也の歩幅に合わせ、先を行く青年もちらちらと後ろを気にした。酒を次々と入れないと酔いが薄らぎ、少しずつ麦也の思考にかかった靄が晴れていってしまう。滞っていた悲しみがまた溢れ、麦也は俯いてぽつぽつと涙を流す。 「ほら~、青雲サンが意地悪するから泣いちゃった~。い~けないんだ、いけないんだ~」  香水が薫る脇腹へ頭を抱き寄せられ、指輪が容赦なく頭皮を髪越しに揉んだ。 「枯れ果てるまで泣かせておけばいいよ。ずっと泣いてるわけじゃないんだから」 「お家に来てくれたオトモダチのことね、追い返しちゃったの。心配してきてくれたのに。僕がワガママ言って怒らせちゃったの」  レイモンドは相槌を打った。青年は突き放すようなことを言いながらも話を聞いていた。そして木の生い茂った屋敷に着く。  麦也はまず、首輪を嵌められた。レイモンドがそれを付けた。 「今日から青雲サンのペットだからね」 「うん」  大きなベッドがひとつある部屋に連れて行かれ、首輪から伸びる鎖はそのベッドの柵に括り付けられた。 「ここで青雲サンに可愛がってもらうんだよ」 「うん…」 「でもまず水飲もうね。あの人、酒臭いの嫌いだから」  麦也はこくこく頷いた。誰かが話し掛け、誰かに必要とされている。また喚き出しそうなほどの喜びだった。レイモンドは水を運んできて、麦也に飲ませた。それから目元を布で覆われ視界を閉ざされる。 「暗いの平気?」 「うん」  まだ母親と暮らしていた頃、トイレに閉じ込められたのを思い出す。あの時は暗く、寒く、不安でいっぱいだった。しかし今はレイモンドがいる。 「いい子ちゃんじゃん。ちょっと1人で待てる?ヤバい?」 「だいじょぶ…」  髪を撫でられると、もう死んでもいいくらいに思った。足音と気配が遠ざかった。そして入れ違いに誰かが入ってくる。 「(ぼく)」 「はい」 「ここに来たら、もう帰れないよ。怖くても、もう逃さないよ。いいのかな」 「もう僕、帰るとこないから…」  斜め上にあった気配が近付いた。 「オトモダチのことは、もういいのかい」 「あの人には家族がいるから、僕なんか居なくても、すぐ忘れるよ」 「祈ったら?得意なんでしょ。何の神だか知らないけれど、助けてくれるかもよ」 「……もう祈れないの。だって僕、オトモダチを傷付けた悪人だから、祈ったって…」  冷たい手が頬に触れた。涙は目隠しに吸われる。 「悪人の祈りは聞かないなんて、随分とケチな神サマ仏サマに祈ってたんだね。見る目ないよ」 「だって…」 「人間なんてね、神サマ仏サマを作って解釈してやっとの生き物なんだよ。祈っても懺悔しても草を毟って肉を食べる欲求が治まることはないんだ」  骨張った身体に抱き竦められ、筋肉の反発はあまりなかった。だが吸着するような感じがあった。 「おれのために祈ってよ。ねぇ、おれのために祈って。祈れる人間と祈れない人間がいるんだよ。(ぼく)は前者で、おれは後者だよ。これは動作とか概念の話じゃない。祈る祈らない、信じる信じない、愛する愛さない、それはね、自分で制御できることじゃないから」  乱暴に指が髪へ入って撫でた。目隠しの下で麦也は目元を眇める。少し鋭さのある指が心地良い。 「祈ります…祈ります……貴方のために…」 「ありがとう」  冷たい指が前髪を分け、額を晒した。円やかなそこに唇が落とされる。 「(ぼく)が祈るだけ、おれは(ぼく)を愛するよ。無償の愛がいい?でもいけないよ、これは(ぼく)にとって毒だから。麻薬だ」 「お名前を呼ばせてください、僕に…お名前を呼ばせてください、是非、呼ばせてください」  麦也はおそるおそる抱擁し接吻をくれる相手に触れた。骨張った輪郭や細い首、柔らかな髪を掌で確かめる。 「駄目だよ。可哀想な(ぼく)の名前を、おれは呼んでなんてあげないんだからね、ポチ。おれに付いて来たからには、"一粒の麦"になんてしないよ」  爛れた手を冷たい手が拾い上げる。酔いと酔いの狭間に発狂し、罰を与えた手が処置されていった。そこには痛覚が戻った。軟膏と包帯の上から冷たいものを当てられる。 「痛かっただろう。これからはおれのものだからね、勝手にこんなことをしたらいけないよ。きちんとおれに許しを乞うんだ。そうしたら(ぼく)の尻をトマトより赤くなるまで叩いてあげるからね」 「ああ…ああ……」  麦也は悦びに震え上がった。青年の姿を手で探した。保冷剤を握り体温を奪われた指に、宙を掻く手が拾われた。歓喜の次には安堵が訪れ、青年の細い身体にしがみついておんおん泣き始めた。そこには黙らせろと命じられて風呂場に閉じ込める母親も、うるさいと言って殴る新しい父親もいなかった。撫でてくれる冷たい手があった。 ◇  "先生"のもとに住んでから数日が経った。たびたび先生は外出し、その時ばかりは繋がれたベッドから放たれた。屋敷のように広い造りで、掃除に入った若い男と親しくなった。彼は楠葉(くすば)と名乗り、麦也の昼食の世話をした。麦也の中では俗にいう「イケメン」に該当するレイモンドとはまた別方向のたいへんな美青年で、寡黙で愛想がなくスマートな感じがさらに磨きをかけていた。楠葉は器用にオム焼きそばやチキンオムライスなどを作り、麦也に食べさせる。食事中、別の部屋からは機械の轟音がした。本格的に掃除をしているところをみると先生にはハウスダストのアレルギーがあるようだった。掃除は長いこと続き、彼は入浴してから麦也と少し話してから帰るのだった。今日も例に漏れず、湯上がりの状態で麦也のもとに来た。濡れた髪にタオルを乗せ、ゆとりのあるシャツを着ている姿を眺めるのが麦也は好きだった。共通の話題はこの屋敷の家主のことくらいで、楠葉は先生の様子を訊ねたり、連れ込む男の愚痴を言ったりした。麦也はじっとそれを聞いて相槌を打つ。それでも話し方や表情に陰気な雰囲気があるせいか無口な印象を与え続けた。 「愚痴ばっかり聞かせて悪かったな、ポチ」 「いいえ」  ぶっきらぼうな手付きが、朝、先生によって綺麗に梳かされる髪をくしゃりと乱した。 「本当に、こんなところに来て良かったのか。アンタみたいなヤツが…」 「少し怖いくらい毎日幸せです。みなさんが優しくしてくださいますから」 「そうか。それなら良かった…」  楠葉は長く濃い睫毛を伏せた。薄い目蓋は梅の種に似た膨らみを作った。横顔から漂う空気感が十塚と重なる。もう会うことはないが家族と仲睦まじくやっているのだろう。朗らかな心地になった。あの人の配偶者から、あの人の子供から奪わずに済む。仲を引き裂くのは大罪だ。怒鳴られるだけでなく、首を絞められ、殴られてしまう。 「そろそろ帰る。明日は何が食べたい」 「お任せします。楠葉さんのお料理はどれも美味しいですから」 「そうか。それなら明日のお楽しみ、だな」  楠葉は照れ臭そうに微かに笑み、帰って行った。邸内はまた静かになった。そうすると麦也はどこかにいる先生を想って祈った。温かくなると眠った。先生の匂いが染み付いたマットレスに伏せると、アニメの白い猫が麦也を揶揄う。下半身が疼いて腿を擦り合わせた。目隠しをされていて見られないはずの、このベッドで行われていることが夢の中で再現されてしまう。ムグラが小さな口で麦也の股間に顔を埋め、下品な音を立てた。ピンク色の舌がネコ科の特徴を無視して柔らかく性器を舐める。麦也は内腿を擦り合わせ、床を蹴った。脚の間がおかしくなりそうだった。ムグラの肉球で張り裂けそうなものを揉まれる。身をくねらせた。 「…っあっあっあっ!感じる…!」  息苦しさで麦也は目を刮っ開いた。先生が知らない男と壁で交合(まぐわ)っていた。レイモンドではなかった。乾いた音は母親が弟を叩く時のものに似ていた。新しい父親に殴られる時よりも軽快さがある。拍手のような音で、拍手よりはリズムが遅い。 「ポチ…!ポチ、起きたの…?あっあっあああっ…ッ!」  男の呻めき声が聞こえ、先生は壁に押し潰された。 「ポチ、見て!ポチ、おれを見て、ああ…あっあっ!あっ!」  ぱんっ、ぱんっと律動が乱れた。先生の声が大胆になった。泣き叫ぶような高さで腰を揺らす。ほとんど男の弛んだ尻と赤黒い袋しか見えなかった。それでも肌をぶつけられる痩身に目を凝らした。白く長い脹脛と爪先立ちになった踵に退廃的で淫らな感じがあった。 「ポチ…すごく硬くて太いのが挿入(はい)ってるの、見て…ポチ、おれのいやらしいところ、全部見て…」  壁と男の身体から抜け出て、先生は麦也の方を向いた。貫かれたままベッドまで歩き、マットレスに両手をつく。濡れた黒い目を麦也は見つめ返す。 「あっん、あっ、あァ…んっ、おれの恥ずかしい穴、ポチに見せてあげて……あァ!」  やがて先生は膝裏を持ち上げられた。陰部を開け広げて、麦也の目の前には、先生の後孔に巨大な陰茎が刺さっていく様が晒された。白く泡立ち、窄まりが広げられていく。白い身体が落とされるたび、蕾のような箇所ははち切れそうな赤黒い双子の腫物に隠された。 「あァ!ァッあ!ポチ、…ッポチ!いやらしい棒が挿入(はい)ってる…あんッ!」  腰を掴まれ、何度も何度も先生は下から串刺しにされる。苦しげに手招きされ、マットレスから首を伸ばす。両耳の裏を撫でられながらさらに近付けられると、噎せるような安らぎの香りがした。 「祈って、ポチ!祈って!ポチ、ああ…!」  祈ると、先生は恍惚とした表情を浮かべる。それを目にした途端、麦也もこれ以上ないほどの幸福感に満たされた。

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