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第4話

 夜になって先生と入れ替わるようにレイモンドがやって来た。先生は大事な用事があるらしかった。要するにセックスをしに行ったのだと聞いて、麦也は顔を赤らめた。控えている真横のベッドで先生が何者かも縺れ、責め嬲られている時はまったく感じなかった生々しさが、当人のいない場所で直接的な言葉で表されると急に実感を持ち始める。 「童貞なのは見りゃ分かるケドさ、ポチ太郎ってシコシコしないの?」 「シコシコ?」  レイモンドは手で筒を作ってほぼほぼ左右に等しく上下に振った。 「マジか。保健体育だと、なんだっけな、オナニー?マスターベーション?」  麦也は顔を真っ赤にしてレイモンドから目を逸らした。恥ずべきこととして彼は、くすぐったさのある股間には触らないようにしていた。下着を汚すこともあった。 「何、なんだっけ、なんとかって宗教?シコシコするのダメなん?」 「あ、う…」 「教えてあげよっか」  ぶるぶると麦也は首を振る。全身が硬直した。レイモンドはその反応を面白がった。 「性欲が高まった時、人は(いちじる)しく利己主義になるから、自涜は最低だと…教わったんです」 「あ、例のカレシ?」 「友人です!」 「あ~、そっか。ポチ太郎さ、洗脳されてるよね、話聞いてる限り」  レイモンドは人懐こげな顔で麦也の目を覗く。 「え…?」 「だって友達なら、宗教(カミサマ)の話とかなくても友達じゃん?あれは違う、これはイケナイって、別にヤバいコトじゃないのに都合良く書き換えられてね?」  十塚のニヒルな笑みが蘇る。軽蔑するような、突き放すような口元を見るたびに自分を律した。何か禁じるようなことをその口からは聞いていないが大体のことは態度で分かるのだった。 「ポチ太郎がオトモダチだって思うならオトモダチなんだろうケドさ。ただオレは、ちょっと変だな~って思う。宗教(カミサマ)戒律(コト)そんな大事なら、ポチ太郎とオレ、多分だけど宗教(カミサマ)違うから、友達じゃないってコトになるじゃん」  麦也は少し何度か目瞬きした。十塚のことはもう()うに決着している。彼は家族と円満に暮らすのだ。そして今、レイモンドは自分を友と認めた。麦也は慎重に相手を見返した。 「オトモダチにケチつけたの怒った?」 「友人、今まで…その人しかいなかったものですから…1人も、1人だけしか…それで、もうきっと友人とは認めてくれないから…」 「なぁんだ、そんなコト」  レイモンドは肩を組んで背中を叩いた。麦也は身を縮めた。無遠慮に腕を叩かれるのが嬉しくて堪らなかった。 「ンでも友達って両方が友達って認めないとダメなんだ、ポチ太郎のルールだと。じゃあポチ太郎、オレの友達になってくれる?ダメ?」 「喜んで。僕の友人になってください」 「よっしゃ、オッケ」  腕を叩いていた手が麦也の艶の戻った髪を掻き乱す。 「幸せです。ずっとここに居たいです…」 「うん、もうここに居たくないって言っても遅いよ。ポチ太郎はこの家の子になったんだから」  それからレイモンドは麦也といつもと違う部屋のベッドで寝た。彼に与えられた部屋らしく、レイモンドらしい私物がいくつか置かれていた。新たな友人は愛犬と寝るような無邪気さで麦也の腹に腕を回し、小柄な背中に頬を寄せた。 「ポチ太郎はあったかいね。子供みたい。これでオレより年上なんだもんな。まだぜ~んぜん、実感湧かない。3コじゃギリギリ中学校もカブらないじゃん」 「あの人とは小学校も重ならないくらい歳が離れていましたから、僕はあまり気にしませんので、レイモンドさんの思うよりに接してください」 「マ~ジィ?なんかすご。でもそうする。だってポチ太郎、マジで弟って感じするもん、本当の弟より」  レイモンドの喋り方は緩やかで眠そうだった。 「弟がいらっしゃるんですね」 「弟の話きっちぃか。ごめん」 「ああ、いいえ。純粋に気になったので。レイモンドさんは明るくて優しい人なので、弟さんは楽しかっただろうなと思ったんです」  麦也の腹に回っていた腕は髪に行き、頭をぽんぽんと撫でた。 「それはちょっと違うなぁ。オレ、中学校までマジで悪くてさ、チーマー入って中学校出たらそのまま反社ルートってつもりだったんだケド、弟に負けたってゆうかさ。いや、普通にそのまま負けた」  眠そうな調子は変わらなかった。思い出すついでに寝てしまいそうな感じすらあった。 「負けると、どうなるんですか」 「チームを出て行くのが約束だったから、オレはオハライバコ。OBが面倒看てくれて、そこからセクキャバのボーイとかしてその日暮らし。――か~ら~の、青雲サンのワンちゃん兼お肉ディルド」 「お肉ディルドってなんですか」  レイモンドは間を置いた。「難しい質問だね」と言って麦也の股間に手を伸ばす。 「わぁ!」 「陰茎(これ)を青雲サンのお尻に貸してあげるってコト」  性器を掴まれると恐怖と同時にそれを上回るぞくぞくとした寒気に似たものがそこに渦巻き、広がっていった。 「シコシコしなくてさ、ムンムンしないの?秘ケツ教えてよ、オレ毎日シコらないとダメなんだけど、疲れるんだよね…」  もうほとんどレイモンドは寝かかっていた。何となく麦也の股間の器官を掴んだ手を動かす。疼きとも痺れともいえない曖昧な感覚が爪先まで波紋のように広がった。 「変な、感じ、します…そんな、触らないで…っあ、」  下半身が御せなくなり、まだそこにある他者の手に腰を動かしてしまう。 「ポチ太郎の匂いめっちゃ落ち着く」  そして膨みはじめている麦也の股に掌を当てたままレイモンドは寝た。麦也は目が覚めているというのに、ムグラに張り詰めたものを慰められる妄想が止まらなかった。腫れた部位は治まるどころか勢いを増している。肩にレイモンドの口元を押し付けられ、吐息が布を越え肌を焼いた。麦也は腿を擦り合わせる。背後の寝息は安らかだったが麦也は落ち着かなかった。頑なな陰部に置かれた友人の手は無意識にその膨張を握り直そうとしていた。 「ぅ、ん…、っ」  肌触りの良いシーツを蹴る。膝の骨と骨がぶつかる。腿の間のもどかしさは眠気を遠ざけていく。苦しさにもならないが平然ともしていられない緩やかな苦しみからは、レイモンドが寝返りをうって、やっと解放された。安堵は束の間、次は触ってみたい、刺激したい欲求との闘いが始まった。公共放送では映せないムグラの淫猥(いんわい)な幻影が大きく丸い手で痴欲を揉んだ。触ってみたかった。腰の骨から溶けそうな印象があったが、それはとても望ましいことのように思えた。固く目を瞑ってやり過ごす。シーツを摘んでいなければ、その指は肉体の中心で戯れてしまいそうだった。この欲の前ではあらゆる悲しい記憶が風の前の塵と等しく、容易過ぎるほどに、そして意識せず遥か彼方に吹き飛び、"あの人"から教えられたとおりに己の快楽しか考えられなくなるのだ。ムグラの凛とした顔を、丸い玉のような口蓋を、ピンク色の肉球が愛らしい手を、生臭い噴出液で汚すことに躊躇いがなくなり、むしろ積極性を持って汚そうとしてしまう。それが恐ろしかった。自分をさらに醜悪な白痴というだけでなく、浅ましいほどの恥知らずで邪悪な卑劣漢に堕とすのだった。下腹部の凝りに悶々としながら、ただそれに打ち克ちたいがため、人の一生では償えない罪を脳裏に浮かべた。使えるものならば手前の過ちまでをも利用する低劣さに激しい自己嫌悪で気が狂いそうになると一旦、肉体の冒熱は治まった。また許されない感じがした。丸まって眠りに落ちる。 『えらいね、お留守番できたんだ。いい子だ』  冷たい手に撫でられ、その掌に頬を寄せる。鼓膜に優しく響く淑やかな声に気分が凪ぐ。 『でもこっちは悪い子ちゃんだね。ちゃんとおねんねしなきゃダメだろう?』  麦也は下腹部を触られもぞもぞとシーツを蹴った。子供が観るためだけに作られたムグラが到底子供の前ではできないようなことをはじめる。 「ん…んっん、」  下半身を襲う微かな疼きから麦也は浮上しかけた意識で逃げようとした。しかし身体は期待している。確かな感覚を求めている。揉んで、触って、撫でられてみたい… 『可愛い』  ムグラの柔らかな毛に覆われていそうな大きな丸い手を探す。人の肌によく似ていた。麦也は目を開けた。先生が帰ってきていた。床に座り、横になっている麦也を覗き込んでいる。視線がかち合うと彼は首を傾げた。濡れた黒い瞳に喉が鳴る。 「駄目だよ、レイくん、まだ寝てるから。起きちゃうよ、いいのかな?」  服の上から生理現象を慰撫されている。しかし核芯ではなかった。妖しく動く指で小さな双果が揉みしだかれている。 「ぁ…先生……いけま、せ……」 「うん?イけない?声出したい?ちょっとなら大丈夫だよ。レイくん、寝起き悪いから」  先生が微笑みかけた途端にベッドが軋み、レイモンドは寝返りをうった。麦也を抱き枕だとでも思っているらしく、筋肉はついているが細い印象のある腕を小柄な友人の胸や腹に絡める。 「ち、がっ……っあ、」  レイモンドの寝相に驚いているうちに穿いているものを膝まで脱がされ、先生に性器を露出していた。羞恥に股を隠そうとする。 「ポチ、ほら、朝はちゃんとヌキヌキしてあげないと、赤ちゃんの(もと)が苦しいって泣いてるよ」  麦也の手を退かし、隠された昂りを引っ張り出すと片手間のように朝露に濡れたそこを扱きはじめる。 「っあっ…あっ、くすぐった…っぃ、…っ」 「大きいね。皮も剥けてるんだ。ちょっと意外だけど、いやらしくて素敵だよ」  彼は空いた手で頬杖をついて涙目になっている麦也を見つめた。 「祈って、ポチ」 「あ…っぁうぅ、でも……ッ」 「お願い、祈ってポチ」  小さな甘酸っぱい果実のような先端部の窪みを先生の親指の腹が抉った。 「はぁうッ!」 「ふふふ、ね?お願い。祈って、ポチ」  レイモンドの手が胸を揉む。人の体温にあちらこちらを包まれている。麦也は祈った。先生はまた小さく、品良く笑った。 「せんせ……、おちんちん、変です…!」 「オナニーとかもしないのかな。24ならもちろん精通はしてるんだよね?」  麦也は恥ずかしさに目を閉じた。他者に陰部を晒すことに羞恥とは異なった熱が上がる。 「精通、してるよね?オナニーは?」 「あ、ああ…そんな…恥ずかしいこと……言えませ…っあぁ、」 「ふぅん」  扱くほうの手など見ることもなかった。手淫をしているとは思えないほど清々しく笑った。黒曜石のような目が細まると、麦也は下腹部に猛烈な放出欲が湧いた。 「せんせ……漏れちゃいます……、トイレに…、トイレに行かせて…くださァっ、」 「早いね」 「トイレに…!あっ、漏れちゃ……あぁっ!漏れちゃう!」  先生はベッドへ上体を乗せた。薄紅色の丸い三角形をざらついた質感に焦らされ、痛みに近い疼きが起こった。今からトイレに駆け込んでも間に合わない。麦也の視界で花火が上がった。先生の口の中に精失禁している。祈ったままの手で股間に埋められた墨汁の河川を彷彿させる髪に触れた。先生は麦也を向いた。口は開いたままで、舌を出している。練乳に似た強い粘り気のある白い半液体が乗っていた。 「あ、あ…」  麦也が震えているのをみると先生は卑猥な口を閉じた。毒々しい光景は夢のようだった。彼は喉を押さえ嚥下を繰り返す。 「ゼリー状になってる…喉張り付いてて、クセになりそう」 「せんせ……」 「こんなに濃くして、いやらしい子だね」 「ん…ティッシュ要る?」  ティッシュを持った腕が伸び、麦也はおそるおそるレイモンドを振り返った。 「おはよ、ポチ太郎。寝れた?」 「あ…あ、あ…いつから、あの…」 「漏れちゃう!から。あんな大声出されたら起きるって」  先生がティッシュのボックスを受け取り麦也の股を拭いた。 「おかえり、青雲(しょうん)さん。-からのおやすみ」 「うん、おやすみ。行こうか、ポチ」 「え~、ポチ太郎連れて行っちゃうの」 「うん」  白い手に腕を引かれ、大きなベッドがひとつある殺風景な部屋に戻される。鎖が鉄製のベッド柵を鳴らした。先生はベッドに四肢を投げ、疲れた様子を見せた。 「匂い、嗅いで。臭い?」  細い腕が彼を心配したポチの鼻先に差し出される。しなやかな肌に鼻腔を近付ける。石鹸の匂いがした。胸の奥が締め付けられ思わず頬も寄せてしまった。 「いい匂いがします。石鹸と先生と、洗剤の匂いがします」 「正直に言ってよ」 「いい匂いがします。人肌の匂いがします。先生の匂いがします」 「じゃあ舐めて」  麦也は猫のような気分になって、舐める前に彼の手を頬や髪で摩った。先生は笑った。 「何してるの」 「舐めます」 「いっぱい舐めて、おれを綺麗にして」  先生の手を自分の唾で汚すことに躊躇いがあったが麦也は舌を伸ばし、指のひとつひとつ、指の股、爪と肉の間へ丹念に舌を這わせ、舌先を遣った。 「ポチは可愛いね」 「幸せです…」 「ねぇポチ。この世で最も残酷な刑を知ってるかい」  麦也は苦々しく笑う先生の黒い目を見つめた。 「石投げの刑…でしょうか」  考えてみてから答える。"あの人"と観た映画にそういう刑が出てきた。戒律により姦通を疑われた配偶者が無実の罪にも関わらず石打ちの刑に処され、嘲笑と軽蔑、非難を一身に受け絶命するまでを描くショッキングな内容をしていた。返答を聞くと先生はへらへらと笑った。 「結局何が一番残酷かなんて決められはしないけれど…たとえば、いきなりふと、良心が現れた時だよ。忘れていたわけでもなくて…いきなり、無かったはずのものが…それが罪悪感というのかは分からないけれど……」  澄んだ黒い目は天井を見上げると突然黙った。麦也も天井を仰いだが、何があるわけでもなく、板の繋ぎ目が規則的な迷路を作っているのみだった。 「純粋な(ぼく)なら、迷わず死刑!って言うと思ったよ。この世は産まれて堕ちた時から、絞首台に向かって歩いているのも同然なのに…おれも(ぼく)も、もちろん、レイくんも」 「死んで償われることなんて何ひとつありません。生きるべきです。そうしたら生きている人に、何か償えるはずです…」 「被害者遺族に同じこと言えるかな、言えそうだね、(ぼく)ほどのキ印なら。まぁ、死刑反対でも賛成でもいいんだ、おれは。でもね、みんながみんな(ぼく)の思うような良心を持ち合わせた人間じゃないんだよ、ポチ」  舐められていないほうの手が優しく麦也の体格をなぞった。肩や腕を確かめては何度も何度も撫で摩る。 「祈ってね、おれのこと。ずっと祈ってね」 「祈ります。祈ります」 「おれはね、(ぼく)のその薄汚れた目がとっても好きだよ。とっても、とっても濁ってて、おれには(ぼく)がお似合いだと思うんだ。こっちにおいでよ。もっと見せて」  額が合わさるほど接近し、黒く麗かな瞳は至近距離で麦也の目を眺めた。 「弟と妹を、どうして殺したの?」 「うるさいって怒られたんです。泣き止ませないと二度とお家には入れないって言われて、僕はどうしてもお家に入れてほしかったんです」 「いっぺんに?」 「最初は一番下の妹です。前にお母さんがお風呂に沈めてたら泣き止んだことがあったから…」  麦也は虚ろな目をして語った。先生と肌を触れさせていると落ち着いて話すことができた。 「弟は?」 「弟も、また泣き止ませなきゃって思ってお風呂に沈めたんです。動かなくなっちゃって、新しいお父さんが初めて山登りに連れて行ってくれたんです。僕は嬉しかったんですけど、お母さんに埋めてあげないと弟たちは怒ってるって言うんです。僕は穴を掘って、妹と弟を埋めたんです。新しいお父さんも手伝ってくれて、もう殴らないから誰にも言うなって言われたんです。でも帰ったら、外に出られなくなっちゃって。お母さんと新しいお父さんもいなくなっちゃって、妹と弟と4人でどこかに行っちゃったんだと思ってすごく悲しかったです…」  麦也は目を擦る。先生の腕の中に収まる。揺籠のようだった。 「つらかったね。立派に育っていい子。頑張ったね」 「先生…僕、幸せです。怖いです。僕は幸せになっちゃいけない人間なのに、幸せを手放すの、怖いです」 「ポチ、おれのカミサマはポチのことも許してくれるよ。ポチがおれのことを祈ってくれるみたいにね。ねぇ、ポチ。幸せなんてものは一過性の猛毒なんだから皿まで食らわないと、このあと来るドン底への裏切りだよ、ポチ」 「先生…先生」  恐ろしさのあまり麦也は先生にしがみついた。甘えることを硬い身体が許した。先生の体内に潜ろうとするかのように麦也は頭を押し付けた。先生の白い腕は彼の頭を抱き、その指で柔らかな毛先を摘んだり、巻き付けたりした。 「一緒に堕ちてくれる?嫌かな。助かりたい?」 「一緒に堕ちます。僕が踏み台になります。先生、先生…」 「ポチが居てくれると心強いよ。いつでも、いつだって、おれのために祈ってね」  気持ちは首の骨が砕けるほど頷いた。先生は目を閉じ、暫く黙った。麦也も寒そうな細い身体の横に丸まった。先生の体温を帯びた匂いを肺いっぱいに吸い込む。味わったことのない歓喜だった。 「レイくんのこと、好き?」 「はい、とても」 「…そう。レイくんもポチのこと、好きだよ」  掠れ気味の声で先生は言った。しかし会話を続けるつもりはないらしく、寝返りをうって麦也に背中を向けた。 ◇  視界は閉ざされたが聴覚はよく働き、真横のベッドはスプリングが軋み、ベッド柵に繋がれた鎖もついでに鳴った。 「あ…あっ…ん、レイくん…」  先生がシーツを掻き、レイモンドが腰を打ち付ける。陽気な調子の友人の真剣な息遣いと大好きな先生の乱れた声を聞きながら麦也は祈った。 「レイくん、レイくん……ぁ、んっ」  荒々しいレイモンドの呼吸と共に先生の媚びたような高い声が曇った。ぎし、ぎし、とベッドはひとつひとつ音を刻む。 「ン…んぁ、んっんっんっ…!」  麦也には先生が泣いているような気がした。ベッドのスプリングが代わりに喚いている。麦也は祈り続けた。 「ポチ太郎…」  レイモンドが息を整えながら話しかけた。麦也は祈りながら顔を声の方に向ける。 「ずっと友達だからね」 「はい、ずっと、友達です」  先生との交合が再開する。肉と肉のぶつかる音がした。それは徐々に速まった。 「青雲(しょうん)サン…っ、キて…!」  切羽詰まったレイモンドの声が聞こえた。麦也は不安になってシーツの上を探す。 「ポチたろ…」  相手から麦也の迷子の手を迎えに来た。ぴちゃ、と水の音がした。ぴちゃ、ぴちゃ…とその後も水溜りを踏むをような音は続く。麦也は迎えに来た手を握った。強く強く指を絡めた。  ぐちゃちゃ、びちっ、じゅる…じゅるる…みちち…  息切れが小さくなっていく。水音は止まらない。 「…友達になってくれて、ありがとね…」 「レイモンドさん、僕のほうこそ、ありがとうございます」  麦也の手の中でレイモンドの指が小さく動いた。今日はシルバーリングは付いていなかった。  じゅるる…みち、みちち…びゅっ 「青雲(しょうん)サンのために……祈ってね、これからも……約束、だよ」 「レイモンドさんのためにも祈ります」  小指にだけ強い力が加わった。小指の関節を、おそらく相手の小指に巻き付けられている。やがて小指にあった体温は消えた。肉感はまだそこにあった。麦也は手を預けたまま祈る。  じゅる、じゅるる…びちゃ、びちっ……みちゃ、みちゃちゃ…  聴覚は長いこと湿原にいるようだった。レイモンドの手を離せない麦也は片手で祈り続けた。水溜りを踏み付ける奥から咽ぶ声が聞こえていた。彼が許されるように、そして友が安らげるように、友が安らげたと思えるように祈り続けた。  じゅく、じゅく、じゅるる…じゅる、じゅる、みちち… 「ポ、チたろ…」  友はまだ生きていた。しかしそれが最期だった。水面を叩くその向こうで泣き叫びそうな息吹を感じた。寄り添うこともできない麦也はただ祈った。神を開発した"あの人"にも否定された見ず知らずのものに対し、彼が許されるように願い、友が安らげたと言えるように祈った。そして何より、自分に与えられた役をまっとうするために。 「レイくん…、許して……許して、レイくん…」  じゅるる…みちち……みちち…  鉄錆びの匂いの中でうっうっと先生は泣いていた。それでも水を弾き、掻き回し、吸っている。先生はおんおん泣いて鼻を啜った。  みちち…びちゃっ、びちゃ、びちゃ、じゅるる…  あああ、と先生が慟哭する。それがどうしても耐えられなかった。先生の悲しみに押し潰されそうだった。 「先生…」 「…ごめんね、ポチ。お前の友達を奪って、ごめんねぇ……」  その後になって楠葉が訪問した。麦也は風呂場に連れて行かれてから目隠しを外される。覚えのない赤い顔料が腕に付いていた。

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