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第8話 泣きの涙

思うようにならない脚を引きずるように運び、水辺までたどり着いた彼はくずおれるように膝をつくと、下を向いたまま、浅い息を繰り返す。 「はっ……」 日差しをを受けて、流れる水面(みなも)はきらめく。泣き腫らした目には、その鮮やかな光彩(こうさい)が痛いほどに突き刺さる。 「っ……う…………ぇっ」 這いつくばるように岸辺から身を乗り出した途端、琉依(りゅうゆい)は流れる川面に嘔吐した。 吐瀉物(としゃぶつ)といっても胃液しか出てこなかったが、一度の嘔吐では吐き気が治まりそうもない。そのまま、更にえずく。臓腑(ぞうふ)ごと出てきそうな嫌な感覚に耐えることしか出来ず、青草を掴む指が深く土まで抉り、爪の間にまで入り込む。 「あ、あ゛……えっ………う、ぅっ……」 胃から(さかのぼ)る酸が、溶かすように食道を()いてゆく。 本来、そこを通るべきではないきつい酸度に喉が痛む。うつろな胃が迫り上がるような感覚は、さらに吐き気をひどくさせる悪循環をつくる。痛みと気持ち悪さに、涙がこぼれる。筋が浮き出るほどに(しら)む指先が、草を引きちぎる。 「げ、っ…………は、うぇ……」 しつこく、酷い吐き気がおさまらない。ぐうっ、と何度もひきつり震える背中に、ためらいがちに置かれる手があった。 それを認めたとたんに、涙が一気に量を増した。ぼろぼろとこぼれ続けるほどにあふれ、とまらなくなる。 分かっている。 見なくても、声が無くとも分かる。 そんな人は、一人しか知らない。 何度、そうしてくれたのか――変わらず、優しく背を撫で続ける手。 とん、と。なだめるように軽く叩く。 かと思えば忘れてはいない、とばかりに髪を撫ぜる。 それからまた、撫でる。 いつもと何ら変わらない手つき。 何も言わずに、ただ寄り添っているだけ。 涙が、波紋を作る(いとま)もなく川の流れに溶け込んでいった。 どれほど経ったのだろうか。 茫洋(ぼうよう)乙慎(いつしん)は形を変えて消えてゆく雲を見やった。 えずく回数も減り、吐き気はおさまりつつはあるように見える。それでも琉依は肩が上下するような呼吸をしながら、未だ動けずにいた。 いつまでもこのまま、そんな訳にも行かない。乙慎がためらいがちに、そろりと声をかけた。 「……立てます、か?」 無理からぬと予想しながらも、問われた方は案の定、気怠(けだる)そうに、首を振った。 失礼します、と小声で前置くと、半ば強引に這いつくばるように伏せた上体を引き起こした。 「や、め……」 もともと、そこまで血色の良くない琉依である。良く言えば色白なのだが、やはりいつにも増して顔色は悪かった。 ここまで憔悴(しょうすい)しきった主を見ていれば暴れるとは考えにくいが、背負った場合もしもの事があればとっさの対応が取ることが難しい。やむ無しと、乙慎は琉依を前抱きに抱えようとした。 「無、理……やだ……ッ」 「申し訳ありませんが、今はお断りします」 抵抗と呼べるほどではない拒絶も、懇願(こんがん)寄りの抗議も今は聞き入れてはやれない。払いのける様に手が振られたが、構わず背と両脚を支える。 無下(むげ)にすることを詫びながら、乙慎は従者として、世話役として、職務を遂行することを優先する。 「俺、もう汚い……から、触らない方がい、い……」 抱えられるまま、乙慎の肩に顔をもたせかける琉依が、消え入りそうな声で訴える。その弱い語気に、渋面(じゅうめん)に刻まれた皺がいっそう深まる。 「馬鹿なことを言うもんじゃありません」 怒気を含むでもなく、腫れ物に触るでもなく。 軽くたしなめる程度の、あくまでも普段の調子をもって向けられた言葉。精一杯の平静さを装った口ぶりさえ、顔を見られていないことが幸いしているからこそ通せる虚勢(きょせい)にすぎない。 それでも投げるかけられた言葉は、琉依をひどく嗚咽(おえつ)させた。 泣きの涙に(にじ)む、言葉にならない痛みが、世話役が歩を進める度にこぼれ落ちていった。

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