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1  それはファンタジー

 それは不思議な光景だった。  まるで、空に浮かんだ少年の周りから、その少年の頭上に広がる青い青い空から、音が、音楽が自然と生まれてるような、本当に映画のワンシーンみたいだった。  両手を口元で組み、じっと座るその少年と青い空と、そびえ立つような入道雲に俺はしばしの間、見惚れて、その周りで踊りだす音楽に聞き入ってしまった。 「なんだそりゃ」  夏コミの分厚いパンフレットとここ数日にらめっこをしていた陸(りく)が呆れ顔をこっちに向けて、溜め息をついた。 「いや、まじで、音がさ、ふわぁって広がってたんだよ」 「だから、なんだそりゃっつってんの、柘玖志さぁん、脳内ファンタジーが過ぎますよー」  そして、今俺はコミケのルート暗記に忙しいんですと、ものすごく失礼なほど、思いきり背中を向けられた。  いや、いいけど、それは個人の自由だけどさ、親友として言わせてもらうと、俺ら、高校三年生だからね。受験で英単語に漢字、数学の公式、サインコサインタンジェントはもう知ってて当たり前だけど、そういうのを詰め込まないといけない脳味噌に、コミケの神ルートを詰め込むお前の方がなんだそりゃだから。 「だって、本当だったんだよ」 「はいはい」 「本当だったんだよー!」 「わーかったっつうの。あれだろ? イケメンでぇ、サッカー部のキャプテンしててぇ、女子に人気でぇ、イケメンでぇ、アッタマもいい三年A組の」  イケメンって二回言ったけど。でも、そう、その三年A組の市井啓太が屋上に一人でいた。  そんでその市井啓太の周りで楽器も何もないのに音楽が鳴っていた。 「あれじゃねぇの? スマホ」 「んー……」 「スマホで音楽聞いてたんじゃね?」 「んんー」  なんか、そういう感じじゃなかったんだよ。もっとさ、本当に空気の中から音楽が生まれたみたいに、実際にはないけど、でも俺の目にはあの青空に音符が踊ってるようにさえ見えたんだ。  本当に、本気でさ、音が踊ってたんだ。 「んー……」 「んがー! 鬱陶しい! 俺は! コミケで頭がいっぱいなの! 今回は商業の作家さんすっげぇ参加すんの! 制覇しないといけないの! 腐男子の俺にとっては神様なの!」  いや、そんなの誰も「制覇しないといけないぞよ」なんて言ってないじゃん。お前が勝手に使命感に燃えてるだけじゃん。 「だって、あの作家さんが初めて全年齢向け出すんだぞ! エモいんだぞ! それにこの! この作家さんはまじで……二次、秀悦すぎるからぁ。あー早くRもの買いたい」  間違えた。燃えてるんじゃない。 「はぁ……ありがたみ」  萌えてるんだった。 「誕生日きてるのにぃ。もう十八歳なのにぃ」 「でも高校生じゃん」 「……ふぐー! わかってるよ! バーカバーカ、お前なんかお前なんかぁ、今週発売の夢見る少女漫画でも読んでろ! ここから追い出してやるっ!」 「ちょっ、な、待っ」 「ここは漫画研究部の部室です! 部外者は入らないでください!」 「ちょっと、……」  ならいいじゃん。俺に今週発売の「オオカミ君に食べられ……ない!」を読ませてよ。いいところで次巻を待て! になっちゃったんだからさ。  けどそんなことを言う暇もなく、ガラガラピシャン! と扉が閉まった。しかも鍵までかけて。でもこれじゃあ他の部員さんも入れないじゃん。 「はぁ」  とりあえず、陸に言いたかっただけだからいいけどさ。  あの光景は本当にすごくて、びっくりしたってことを。ただそれだけ。あの市井が! まるでファンタジーの世界観で! あまりに人世離れしててびっくりした! ってさ。  でも、市井は俺みたいな普通の、普通すぎる一般的高校生からしてみたら、その存在自体が人世離れして見えるけど。市井がもうすでにファンタジーだけど。成績優秀、スポーツ万能、おまけにイケメンとかさ、神がかっててむしろそっちの方が俺にしてみたらリアリティーがないっていうか。  俺は、全然、普通すぎてさ。  成績は普通、いや、ちょっと嘘。普通よりすこーし下。運動はできるでもできないでもないくらい。ちなみに運動部には所属してる。あんまりゴリゴリに練習しないって噂を聞きつけて、即座に入部を決めた陸上部。走るだけでいいし。陸にはこの辺ではうちにしかない弓道部か剣道部に入れって進められた。理由は簡単、着物萌えってやつのため。じゃあお前が自分で入れよって言ったら、そういうことじゃない、そういう問題じゃないんだと突っ返された。 「さてと……」  まぁいいや。  とりあえず、今日発売なんだよ、めっちゃ楽しみにしてたんだ。「オオカミ君には食べられ……ない!」の最新刊の発売を。  だってだって、前巻でオオカミ君と主人公の夢子がすれ違いまくりの喧嘩から、でもそろそろ仲直りフラグ立ったんじゃね? っていう展開で、あーしてこーして、ほらほらもうこれは仲直りするでしょ! だって、その廊下の角を曲がったところにいるから! オオカミ君がいるから! だからそのまま角っちょを曲がってくれよー! っていうところで、鉢合わせしてしまった……で終わってんだもん。  めっちゃ気になるでしょ。  仲直りするのしないの、どっちなの! でしょ。  どっちなんだろう、って、ルンルン気分から口笛なんて吹きつつ、仲直りしてくれないかなあ、あの時のは誤解だったんだってわかってもらって、そんでそんで一気に距離は縮まって、ぐんぐん近くなっていって、そんで――。 「うわっぷ!」  口笛を吹きながら廊下の角を曲がったところだった。  目の前に黒い壁がいきなり現れて、俺はそのままその壁に激突した。  ドーン、って。 「イタタタ」  鼻んとこを、コンクリートとも木の板とも違う、白い壁に。 「大丈夫か?」 「……」 「今の口笛、白石(しらいし)……か?」 「……」 「白石?」  白い壁、じゃなかった。  白いシャツだった。 「あ……市井」  白いシャツを着た、周囲に音が踊るイケメン市井だった。 「口笛」  今は音、しないらしい。 「あ、えっと……うん」  代わりに、落ち着いた低い市井の声が廊下に響いてた。

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