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雪虫 10
物心ついた時から家の環境が良くないことはよくわかっていた。
ちょくちょく乗り込んでくるジジィの不倫相手やその旦那が暴れたり、借金で怒鳴り込まれたり……夜逃げでろくに学校に通わなかった時もあったし、高校になってからも授業料滞納や尻拭いの関係で行き辛くなってほとんど行っていない。
そんな生活から考えると、炊事洗濯掃除と世話を焼いてりゃ生きていける今の暮らしは極楽だ。
「 ま ずぅー 」
あと問題があるとしたらこいつの偏食だけかな。
「まずくねぇよ、ふつーだよ」
そう思いたいんだけど……
雪虫はポソポソと数口だけ食べて箸を置いてしまった。
「ちゃんと食べろよ!」
「もういらない」
空気に溶けていきそうな儚い印象なのに、一度言い出したら聞かない頑固さは閉口もので。
俯いた際に色の薄い髪に隠れた横顔を盗み見た。
こじんまりと整った顔立ちに、長い睫毛の縁取りのある青い目。華奢なんてものじゃない体付きは、雪虫の体が弱いと言っていたのをあっさり肯定してしまえる細さだった。
触れたら消えそうな、妖精みたいな……
「 じゃあ茶、淹れてくる」
その言葉にも不機嫌そうだ。
雪虫のオレの印象ってのはよっぽど良くなかったらしく、いきなり部屋に飛び込んできたことや、オレが来たからセキが行ってしまったことが気に食わないらしい。
いつも不機嫌でこちらを見ないし、距離を詰めることもできない状態だった。
「あのお茶、美味しくない」
数少ない、意見の一致だ。
「しょうがないだろ。あれは抑制剤代わりなんだから」
「なんでそんなの飲まないといけないの?」
なんで?
何言ってるんだ?
「お前はオメガだし、オレはアルファだし、飲んでおかないと困るだろ⁉︎」
むぅっと眉間に皺が寄って、雪虫が人形からちょっと人間らしく見える。
「何が違うの?」
「何 え⁉︎」
思わずテーブルを叩いて立ち上がったオレを、怯えた目が見上げる。
「な なんだよ 」
もしやと思ってそろりと尋ねた。
「なぁ、自分の性別知ってるか?」
「男だよ!なんだよ!」
金の眉が寄せられて……不機嫌そうだ。
「バース性は?」
不機嫌なまま困惑が隠せない雪虫を見下ろす。ここ二、三日相手にしていてなんとなくは感じていたが……
浮世離れしているのは外見だけじゃないらしい。
「バース性って、何?」
無性ならともかく、当事者である雪虫自身が何と尋ね返してきたことにびっくりした。
「ちょ ちょっとタイム!」
「タイム?」
尋ね返されたがそれに答えずに台所へと駆けこんで、大神ではなく瀬能の方に電話を掛けた。
「 はいはーい。先生だよ」
相変わらず軽いノリにどっと脱力を感じたが、そこに構うと話が進まないので無視した。
「なぁ!雪虫が自分のバース性を知ってないんだけど!」
「え?あー……そうかもね」
「そうかも!?」
この医者は何を言っているんだ?
β性で育ってきたオレですら、基本的なことは知っていると言うのに。
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