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雪虫 57
「 勉強を始める前にシャワーでも浴びてさっぱりして来た方が良さそうですね。埃っぽいから」
「オレはいいよ、この後、水谷さんが来るから」
直江の気の毒そうな顔と、他人事のセキと……逃げ出せないオレは覚悟するしかない。
テーブルを廊下に出す音でオレに気づいたのか、扉がぽこんと鳴った。
「しずる?」
「起きたんだな」
「これから勉強?」
「そうだよ」
衣擦れの音がして、扉の向こうで座る気配がする。
「水谷さんが来るまでだけどな」
「あの人、嫌いなんだけど」
「きら え?」
「しずるに酷いことする」
雪虫のいる部屋から庭が見えるらしい。
カーテンのせいでオレからは見えないけれど、水谷が来ているときにはオレが見えるとのことだった。
「かっこ悪いとこ見せて ごめんな」
『運動』がただの運動ではないのは分かってはいたが、いざと言う時に身を守れるようにと教え込まれるそれは、逃げ出したいくらいスパルタで……
初日のようにぶっ倒れることもあった。
「かっこ悪くないよ」
「 ありがと。セキが来るまで、絵本読むか?」
「うん!」
少しでも傍にいたいオレに合わせて、セキは廊下で勉強をしてくれている。
直江も揃って三人で廊下でテーブルを囲う様は、側から見れば笑いの種にしかならないにだろうけれど、雪虫が傍に居て、他愛ない会話をしながら勉強するこの時間が好きだ。
「 『 その本当の姿は』 と、続きはまた後でな」
とんとんとん とリズムよく階段を登って来る音がする。
「ごめん、待たせたね」
「 」
髪を拭きつつ二階に上がって来るセキを見て、思わず半眼になるのは、なぜわざわざ大神のシャツを着てきたのか意味が分からないから。
「何を着てんだよ」
「だって大神さんのってゆったり着れて楽だし」
「そう言うのは大神さんがいるとこでしろよ」
「怒られるもん」
セキに怒ることもあるんだ、あの人。
「準備できました?」
ちらりとセキを見て、何事もなかったかのように腰を下ろす直江はプロだなと思う。
「しずる?今、何の勉強?」
「数学してる」
「すうがく」
「算数かな」
そう言っても、雪虫にはピンと来てないみたいで……
「また一緒にしような」
「うん」
背中で、ことんことんと音がして、そのうちページをめくる音が響く。
「絵本読んでる?」
「うん」
扉の隙間から漏れる甘い匂いに、集中力は根こそぎ奪われてしまうのが問題だ。
すっきりとした、でも甘い冬の花。
気を抜けば血の流れが下半身に向かってしまっていて、その度に背筋を伸ばして気合を入れる。
ぺらり と読めない絵本をめくる音。
随分と上手くなってしまったペンを回す音。
つまずいた箇所の説明をする直江の声。
雪虫の息遣い。
唾を飲み込む、微かに喉の鳴る音。
喉の…… って、ダメだダメだ!
「 そう言えば、雪虫は覚えてる街の風景とかない?」
「風景?」
「建ってた建物とか 」
そう言うのが僅かでも分かれば、場所を探し出して訪れることもできるかもしれない。
もしかしたら、雪虫の親が、まだ諦めずに探しているかもしれない。
「なんか特徴……「こちらに集中を」
流石に喋りすぎたのか、直江に睨まれて口を閉じた。
そうだ、オレには雪虫と番って、海に行くって野望があるんだ!
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