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どっとはらい 2
咄嗟に手を伸ばしたけれど、箒を支えに踏み止まると彼は顎を伝う汗を拭って小さく謝罪してきた。
「すみません 暑くて 」
喘いでも喘いでも酸素の入ってこない、湿度の高い空気に参っているのは彼も同様だった。
頸を守る為の首輪は、確かに安全の為に必要なのだろうが、ネクタイですらそう思うのにその息苦しさは想像に難く無い。
「大丈夫ですか?」
「 、 ええ」
赤い顔を手の甲で押さえて、青年はまた階段を上がり始めたが、どこか覚束ない足取りに見えて心配だった。
同じく塗装が剥げて錆が浮いた、年季の入った扉を開き「お客様です」と奥に声を掛けた。
「入ってもらいなさい」
「はい。 どうぞお入りください。師匠は正面の部屋に居ますので」
「お邪魔します 」
第一の印象は薄暗い……だった。
ビルの見た目から考えるとだいぶ綺麗にはされてはいたが、それでも古臭さは拭えない。
言われたまま進んで行くと、五角形の部屋の奥にあるデスクからのそりと人が立ち上がる。
逆光になったその姿を見た時、白髪が見えたので老人だと思った。
「大神さ 大神の使いで参りました」
頭を下げた先に見える爪先は黒、ズボンも黒、そしてこの季節だと言うのに、黒い長袖のタートルネックに身を包んでいるせいで肌が見えるのは顔と手だけだった。
その肌は、透明感を感じる程に白く滑らかだ。
「お話は聞いています。柊です、どうぞ」
近くに寄って見てみると、白髪と思ったのは光を弾く銀色で、顔は気後れする程の美丈夫だ。銀で縁取りされた瞳は信じられない程鮮やかな紫色をしており、そんな神秘的な瞳を他に見た事がなかった。
「まずはお座り下さい」
そう重ねて勧められて、つい不躾に見入ってしまっていた事に気が付いた。
「すみません」
「いえ、こんな髪、貴方には珍しくないでしょう?」
「いえっ あ、はい 」
色素が欠乏している なら身近だけれど、こんな宝石と銀糸で出来たような人は滅多と見ない。
「さ、見ましょう。こちらに置いてください」
そう言われてローテーブルに風呂敷包みを下ろした。
大して重いわけでも無いのに、ずっと抱き締めていたせいか机に置いた途端、体が軽くなった様な気がした。ほんの数時間だとは言え、何かあってはととにかくしっかり抱き締める事に夢中になっていたせいかもしれない。
軽くなった肩に、ほっと息が漏れた。
「重かったでしょう?」
重いか重くないかで言えば、預かった瞬間はずしりと感じてはいたが、持てない重さではない。
長く抱き締めていたせいか重さは馴染んでしまって、確認する様に問われて言葉に詰まる。
「あ どうなんでしょう?重さはありますが流石にこれ位はなんとか」
「では、開きますね」
堅く結んだ風呂敷の結び目を、なんの苦もなく解くと花が開く様に広がった。
柊が手を掛けたからだろうか、細かい模様の入った野暮ったい小豆色の風呂敷が優雅な花弁に見える。
「 ああ、これは凄いですね」
虚な目が見えた。
「 ひ」
「市松人形ですね」
「いちま 」
「木とおが屑で作られた人形です」
簡潔に言う柊は視線を逸らさずに、真っ直ぐ風呂敷の上に横たわる少女を見ていた。
つぶらなのに虚な瞳、ふっくらとしているのに違和感の残る顔立ち、白く滑らかそうなのに煤けた頬、かつては整えられていたであろうざんばらな黒髪、微笑んでいるはずなのに不気味な印象を残す赤い唇と覗く白い歯。
そして金糸銀糸の刺繍を施された、昔は色鮮やかだったかもしれない、草臥れた着物。
きしり きしり
「 ─────ひっ」
今、目がこちらを向いた。
表情を歪ませて、またきしり と音を立てる。
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