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どっとはらい 3
目の前で起こった事が信じられず、とりあえず落ち着こうと唾を飲み込もうとしたが、喉が干上がっていたせいか咽せた。
「 っ、ぅ、っ」
「お茶を急かしてきますね」
そう言って奥に行こうと立ち上がった柊に思わずしがみついた。
初対面の男が急に抱き着いたのに、柊の表情は穏やかで慈愛の欠片さえ見える。
「だっ 大丈夫です!」
頼むから、
頼むから……
この人形と二人きりにしないでくれ!
「 っ」
自身の思考にぞっとした。
いつからこの人形を『人』と思う様になったのか?
「 平気 です」
悪寒に背筋がぞくぞくと震える。
暑くて堪らなかったはずなのに、今では震える程寒い。
死体の様にローテーブルに四肢を投げ出して転がるその姿が、恐ろしくて恐ろしくて……
不躾にしがみついたのに、柊は怒る所か目の前の恐怖を忘れさせる様な微笑みを浮かべて背中を摩ってくれた。
紫の宝石が魔除けになるとするのは何処の国の話だったか?
深い紫水晶と小さな砂金で出来たような双眸が、見下ろして優しく細められた。
「 あの、お茶飲めますか?冷たい物にしましょうか?」
奥から盆を持った青年が顔を覗かせ、そう心配そうに問いかけてくる。
人に心配をさせてしまう程、今の自分は取り乱していると言う事が分かり、逆に冷静になれた。
「いえ、それを 頂きます」
風呂敷を開ける前ならば冷たい物が飲みたいと思っただろうが、今はとにかく温まりたかった。
様子を訝しんだのか、彼は急いでこちらに来て白地に青い花の描かれたカップをテーブルに置く為に膝を屈める。
「 ぁ 」
カチカチ とコップが震えて音を鳴らす。
何事かと横顔を見ると、人形に視線が行っている様だ。
それを見てきゅっと眉間に皺を寄せた後、潤んだ瞳を伏せながら小さく頭を下げた。
赤い顔と、頬を伝う汗が見える。
「あの、具合が 階段も辛そうでしたし、熱中症かも!少し休まれた方が 」
思わず出た言葉だったけれど、出過ぎた言葉だっただろうか?
そろりと柊を見ると微笑んで頷いてくれた。
「暑くなってきましたからね。ハルキ、奥で休んできなさい」
そう言われても、やはりチラチラと人形と柊を見て戸惑っている様だ。
「構わないよ」
「 っ、ゎ 分かりました 」
よろけながら奥に姿を消したのを見てから、柊は再び人形を挟んで向かいに座った。
「今回のこの件ですが、端的に言ってしまえば『残った匂い』が原因です」
「匂い?」
「あなた方アルファは良くしませんか?マーキング」
いきなり慣れ親しんだ言葉が飛び出し、面食らって言葉が出なかった。
「えっあっ」
「あれを物にした場合、ずっと残り続けることがあります。それがフェロモンに敏感な方にとっては『何か感じる』に繋がるわけです。ほら、消臭できるスプレーで除霊できる って、話題になりませんでしたか?」
指を曲げてレバーを引くジェスチャーをして見せる柊に、ぽかんと口が開いた。
「あ、はい。 え⁉︎あれってそう言う?」
「原因の匂いが消えるので、結果『霊障だと思っていた物』がなくなるわけです」
「えっと でも、フェロモンで人形の顔が変わるなんてことないですよね?」
風呂敷を開いた時から比べると、人形の顔は奇妙に歪んでしまっている。
「それはあれです、こう言う人形でも高価な物はガラスケースに入っている。でもこれは剥き身でしょう?」
「はい」
「湿気を吸収し易いわけです。頭部の素材が吸湿すると眼球を固定した箇所がずれて眼球がずれる、放湿する際にまた眼球の位置が戻り、結果動いたように見える。こんなところですかね」
そう言って柊が後ろのデスクから、店頭でよく見かける消臭スプレーを取り、容赦なく人形にプシュプシュと吹き掛けた。
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