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青い正しい夢を見る 40

 これが項を噛まれた事によるものかどうなのかは僕には分からなかったけれど、未だに正美さんの部屋の戸を開けてその臭いを探してしまうのだから、番にされたΩとはそう言うものなのかもしれない。  辛いのに、離れ難い。  嫌悪感はあるのに、憎み切れない。  嫌なのに、拒み切れない。  憎まれているのに、それでもその姿を追ってしまう。  端から見れば、それは僕が正美さんを慕っているように見えているのかもしれない。そのせいか、心配そうな顔をしていても、正美さんが訪れる事に関しては野村さんは何も言ってはこない。  そして、その事でそう思って貰えているのなら幸いで、ここを離れ難く思っているもう一つの理由を隠す事ができてほっとしている。  僕を庇った後の周りの態度を見たせいか、僕がいなくなったら意味のない折檻を一身に受ける野村さんが心配でここを離れられないんです なんて事を言おうものなら、野村さんは気に病んでしまうに決まっている。  恩を着せたいわけでもなんでもない、ただ彼女が心配だからこの生活に耐えている と言う部分もあった。  僕がこの生活に耐えられているのも、彼女がいてくれてこそだし、僕を大切と言う彼女の事を僕も大切にしたかった。  僕がいる事で彼女が少しでも幸せと思ってくれるようなら、それが嬉しいと思う。その言葉をはっきりと口にしてしまうのには申し訳なくて抵抗があるのだけれど、何くれと気に掛けて僕に優しさをくれる彼女に感じるのは、母親とはこう言う物なのかと言う慕う感情だった。  静謐の奥底にいるような耳の痛くなる程の静けさの教室で、気付けば目の前にいたのは彼だった。 「 伊藤くん ?」 「うん」  ちょっとはにかみながら首を傾げて笑う癖に、胸がきゅっと締まる。  ああ、そうだった、天真爛漫に笑うけれども、照れた時はそうやって笑うんだ。 「あ  の、元気 だった?」  そうなんとも間抜けな質問をした。  僕は制服を着ていたし、彼も制服だ。しかも僕と同い年だからもう成人している筈なのに、彼の顔立ちはまだ微かに子供の特徴を残していて……  これが夢だと分かっているのに。 「そっちは元気だった?」  「うん」と返せず言葉が詰まった。  そんな僕に伊藤くんは重ねるようにして尋ねてくる。 「何か、辛い事ない?ずっと心配してたから」  心配……  こちらを見る、奥二重の柔らかく優し気な瞳が、ただの僕の願いなのだとしても。 「   つ   ら」  彼には笑顔を見て貰いたかったから笑おうとしたのに、わなわなと震えた唇から「大丈夫だよ」の言葉は零れてはくれなくて、代わりに掠れた「辛い」がするりと溢れた。 「辛い んだ」 「どうしたの?」 「学校……まだ通いたかったのに」 「うん」 「  それから、部屋が黴臭くて、埃っぽし、布団も気持ちよくないし、い  意地悪され るし  」  僕の正面に立つ彼は、真摯な表情で僕を見てくれていて、優しい慈愛の眼差しを向けてくれている。  と  と、足元で音がした。  と  と   と、一つの音を追いかけてその音が繰り返される。  雨音かと振り返ってみるも、教室の窓から見える空は梅雨明けのような青い青いどこまでも澄み渡った晴天で、雨なんて降りそうにもない。  不思議に思って伊藤くんを振り返ると、指先がそっと頬に触れた。

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