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落ち穂拾い的な 離れられない

 窓から彼の背中を見送って、医者は深い溜め息を吐いて椅子の背もたれに勢い良く体を預けた。 「後ろに倒れちゃいますよー」 「んー?」  ちらりと視線を遣ると、若い看護師がマグカップを手にこちらを見ている。  有り難くその手からカップを受け取ると、いい匂いのする琥珀色の液体にそろりと口をつけた。 「熱いです?少し冷ましたんですけど」 「いや、んー  大丈夫だよ」  医者の猫舌をよくわかっているせいか、看護師はそう聞いてほっとした顔をする。  コーヒーを飲んで視線は室内に戻ったのに、意識はまだ先程帰って行った患者を思っているようで、癖なのかペンの尻で机の上をとんとんと叩き続けていた。 「遥歩くん、どうしてあそこを出ないんでしょうか」 「  そりゃ、生きる術がない人間にとっちゃ、辛くても今いる場所を飛び出すのは大冒険だからだよ。もしかしたら外はここより酷いかもしれないからね、実際彼は以前にあの老害  じゃないな、あの病院で酷い目に遭ってたみたいだし」  そう言うと医者はやはり熱かったのか、一緒に看護師が持ってきていた牛乳を自分のカップに注ぎ入れる。口をつけて熱さを確かめてから、ふうともう一度溜息を洩らした。 「あと、ここ ここ」  指はとんとんと項を叩いている。 「噛まれちゃったら、離れ難いんだって」 「  でも、あんまり大切にされてるように見えませんけど」 「そこは重要じゃないみたいだよ。はっきりコレって理由を言える子はほぼいないんだけど、噛まれたオメガはそのアルファから離れ難く感じてなんとなく二の足を踏んじゃうんだよ、だから  まぁ、DVとかの発見が遅れる訳だけど」 「発見された時には手遅れな事が多いのはそれですか?」  こくりと頷いて医者はコーヒーを口に運ぶ。  牛乳で和らいだとは言えその苦さは自分の力のなさを表しているようで、自然と眉間に皺が寄る。 「噛んだ事の同意、不同意、関係ないんだよ。番になったら」 「でも  やっぱりそんなの  」 「それに現行の制度じゃあオメガが自分から言い出してくれないとどうしようもないんだよね。例えば、子供を産む為だけに金で買われてきて虐待されていても、オメガの発情に巻き込まれたから責任取って引き取っただけです、ケガは家庭内の事故ですって言われちゃうと、第三者の僕達は何もできないしねぇ」  空のカップをくるくると手で弄びながら、医者はやはり溜息を吐く。 「しかも、そんな人達が、加害者はオメガなのにそんなオメガに手を差し伸べるなんてエライ!スゴイ!って言われるのが納得いかないんだよね。もっと救いの手を出せるような機関とかできないかなぁ」 「じゃあー オメガの駆け込み寺とかどうですか?」 「渋い言葉を使うね」  若い看護師から出た言葉が意外で、医者は小さく苦笑を漏らした。 「シェルターだよねぇ、やっぱ必要だよね。作るよう言っておくかぁ……でもシェルターはアレなんだよ、アレがあるからさぁー」 「アレじゃわかりません」 「ほら、昔  君はもう生まれてたのかな?各国のオメガのシェルターが襲われて  」 「あ   」  看護師は心当たりがあったのか声を漏らして口を噤んでしまった。 「あの事件のせいでオメガの社会的地位が落ちたと言っても過言じゃないよね」 「授業で習いました」 「授業かぁ  そりゃそうだよねぇ、わっかいなぁ」  医者の声は話題を切り替えようとしているのがよく分かる声色で、看護師は小さく笑って頷く。 「若いですよー。所で瀬能先生?」 「うん?」 「赤ちゃんできました」  ごとん と足の上にカップが落ちたけれど、医者はそれに反応する事が出来ないまままじまじと看護師を見つめ返す。 「 ────はい?」 END.

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