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かげらの子 10
泥水の中で足を動かすぽちゃんと言う音すら、人が息を潜めたその場では響いては来ない。
ああ、余所者を迎え入れる際の空気だ と、捨喜太郎はぐっと息を飲んだ。
村の者ではない人間の訪れは、特にこのような閉鎖的な村には何を起こすか分からない正体不明のものを受け入れるのと同意義だからだろう。捨喜太郎が善良であるとも限らない、この村民達の態度は仕方のないものだった。
けれど、捨喜太郎にとっては留夫が温かく迎え入れてくれた次の瞬間だったが為に、酷く驚いたし衝撃でもあった。
俺達に一番近い場所にいた農夫が、傍らの妻を下がらせてから、留夫の前におずおずと進み出て、捨喜太郎から視線を外さないままで会釈とも言えないような会釈をして見せる。
「留夫さん こっちらの方は」
「村長のお客人だよ、これからしばらくご滞在なさるから、皆々によろしく言っておいてくれないか?」
留夫の言葉を聞いても農夫は訝し気で……
「夕刻に改めて屋敷に皆来るように触れを出しておくれ。村長からきちんと紹介をして頂いた方が安心なのだろう?」
「あ、や、や そんな 」
「足を怪我されているんだ、もういいかい」
「は、 あ、ゃ、申し訳ねぇです」
足を留めさせてしまった事に対する謝罪をぼそぼそと繰り返しながらも、農夫はほっかむりした手拭いの下から狐が獲物を狙うかのように用心深く捨喜太郎から目を離さなかった。
また、ゆっくりと体を左右に振らせながら、今度は元が段だったのか人が通り過ぎるから出来たのか、釈然としない段を上り始めた。人が日常で通っているからか、村の道はしっかりと踏み固められていて石も少なかったが、如何せん坂道が多すぎる為に、捨喜太郎は移動に骨が折れそうだと呻くしかなかった。
他の建物よりも大きくて立派。
捨喜太郎の村長の家だと案内された家の感想なんてそんなものだった。取り立てて奇抜な色合いと言う訳でもなく、壁にこだわりの修飾がされている訳でもなく。特徴を言えと言われたら仕方なく、大きい と答える程度の家だった。
もっとも、大きく平面の取れないこの土地の事を顧みれば、この場所では最大の贅沢をしているのかもしれない。
皆が田植えに勤しんでいた田んぼも、斜面に作られた段々で不規則な形をしていたので、この規模の家を建てる事が出来るのはそのままこの村での権力の象徴なのだろう。
「こちらにお座りください。今、水を持ってきますから」
捨喜太郎を縁側に座らせると、留夫は動きを止める事無くさっと背を向けて行ってしまった。
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