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かげらの子 33

 微かに触れた唇は水が玉を結んだ冷たい物だった。  頭から降り続けている水が浄化したのか、その薄い唇にあの男の吐き出した精液の味は残ってはおらず、仄かに清涼感のある香りが宇賀の呼吸からふと匂う。  薄荷?  蓮?  花薄荷?  どれとも違う、上品でありながらすっきりと感じる匂いで、捨喜太郎はそれが好ましくて堪らなかった。  叶うのならば、宇賀を腕の中に押さえて常にその呼気の中の匂いを感じていたいと思う程に、それは心を鷲掴んだ。  触れている箇所が痺れるような熱を持つ。  冷たい水に触れて、飛んで行く矢のようにお互いの体から熱が擦り抜けて行く。幾ら心臓が脈打って体を温めようとしても、ちっぽけな人間のする事と嘲る様に熱が霧散する。 「怖がらないでおくれ、愛しい人」  つ と漏れた言葉は山の音がざわめくここでは場違いな程穏やかだった。 「私は貴方の、声が聞きたいのです」  どうしてこんな言葉が出てくるのか、捨喜太郎自身が不思議だった。 「貴方の匂いを胸に納める事が出来たなら、私は思い残す事など   っ」  パシャンっと滝の猛々しい水の音ではなく、小さな雫を弾く音が響き、追いかけるように頬を叩く振動が辺りに響く。  その音に驚いたのか、山の全ての音が消え去ったかのように思えたけれど、それは事実ではなく、実際には一瞬も周りは止まらなかった。 「さきたろ、駄目だ」  紫の唇が震えながら、それでも自分の名前を呼んだ事に捨喜太郎の胸がぐっと軋んだ。息が吐き出せないとか、そう言った物ではなく、至上の愛しい者が自分の名前を呼んでくれた その事が……  鼻の奥がつきりと痛んで、熱い物がせり上がってくる。 「う が、 うがや   」  そう名前を呼ぶと、宇賀は捨喜太郎を怯える事無くまっすぐ見詰め、紫になった唇で小さく「寒い 」と零した。  宇賀は怯えていた訳ではなく、冷たい水を頭から被り続けて冷え切ってしまっていたようで、自分が近づいた際の震えもそれが原因だと分かった途端に捨喜太郎は幼子のようにほとほとと泣き出した。  それを宇賀が拙く慰め、震える宇賀を温める為に捨喜太郎は膝の上に座らせて、肌を密着させる為にそろそろと細い体を抱き締める。  宇賀の着物は水に晒されていて、当分はああでもしないと小便の臭いが取れないだろう。  結果、寒いと震える宇賀は産まれたままの姿だった。 「   さきたろ、あったかい  」  早く強く脈打つ心臓の上に頬を寄せ、宇賀はまだ体温の戻らない肩を不安そうに擦る。

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