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かげらの子 42

 海外には蛇の天敵になる獣もいると聞くが、捨喜太郎にはさっぱり分からない。  規則正しい鱗を持ち、足もないのに流暢に歩いて行くその姿を好ましいと思った事もないせいか、蛇が何が好きで嫌いかなど興味を持った事もなかった。 「え  あ、なんでしょうか?不勉強で……」 「煙草の煙、それから大きな音、でしょうか」  神経質そうな指先が掻くように引き出しを引っ張り、中から紙と墨を取り出す。そして達筆な字で『捨喜太郎』と書いてみせる。  喜びを、捨てる。  幼名にしても酷い響きだ と、捨喜太郎はこの字を見る度に思う。 「ええ、まぁ……改められると、お恥ずかしい……どうしてこんな名前を付けたのか  」 「お生まれになった時、体が弱かったのでは?」 「月を満ちずに生まれたとは聞いております」 「では、この字はその為につけられたものでしょう」  『捨』の字を丸で囲うのを見て、視線の合わない伊次郎の顔を見た。 「は  ?」 「大事な物程、鬼やらに狙われてしまいますから、これは取るに足らない捨てるような物だ と鬼達に思わせる為に、そう名付けるのだそうです」 「…………」 「こちらの字を」  『喜』 「人を喜ばせる字です、語源は祭祀に辿り着き、打楽器と祈りを発しているのを象っているそうです」  『捨』と同じように、『喜』の文字にも丸を書き、 「神を喜ばせる意味があります、魔除けとしても、大きな音の苦手な蛇除けとしてもとても良い名です。名前なんて……とおっしゃるかもしれませんが、この国には元来言霊と言う言葉もあります、その名の持つ力を侮る事は出来ないのではないでしょうか?」 「…………」 「喜びを捨てる と、あまりこの名前を好まれていないようにお見受けしますが、息災祈願の『捨』、魔よけの『喜』とし、太郎は輩行名として一番最初の男の子として与えられたとすると、とても大事にされている事が分かる良いお名前ですね」  そう言うと伊次郎は新たな紙に『捨喜太郎』と美しく書き、その命を吹き込まれたように見える文字の書かれた紙をそっと捨喜太郎へと差し出した。 「……一つ一つ物事を突き詰めて行けば、物事はこうも見え方が違う物なのですね」  人に告げるのに躊躇う、そんな名前だとばかり思って過ごしてきていた捨喜太郎にとっては晴天の霹靂で、差し出された紙を受け取ってはみたが何とも言えない面持ちしか返せない。

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