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かげらの子 66
幸い、畳は柔らかく痛みはなかったが、捨喜太郎は自分の視線が床と並行になったのを不思議な面持ちで認識した後、自分が倒れ込んだのだと初めて気が付いた。
はく と口を動かすが、息だけが漏れて声が出ない。
「今代伴侶様、幾久しく健やかにあられ、末々永くこの村にお授け物をお恵み下さい」
視線の先の留夫が美しい所作で畳に指を突き、深く深く頭を下げる。その行動は客に対するそれではなく、崇め奉るものに対しての行動だった。
自分の意識ですら思うように動かす事が出来ず、朧げに時折感じる揺れが酷く長いように感じ、またあっと言う間の出来事のようにも感じて、まるで起きているのに夢の中に居るかのようだった。
そして時折、とん とん と何かを叩く音が聞こえてくる。
当初それは雀遣りの音だろうかとぼんやりした意識で考えていたが、「はぁ」とすぐ傍で溜息を吐かれてそれが雀から田んぼを守る為にならされる音ではなく、誰かが懸命に何かを叩いている音なのだと知れた。
「あ ?」
幾度目かのとんとん と言う音がやけに耳に響いて、捨喜太郎はその不快な音を止めて欲しくて声を上げた。結果出たのは小さな呻き声のようなものであったが、それで十分だったらしく音が止んでこちらに意識が向く気配がする。
「気付かれましたか」
固い岩を叩いたような、そんな声は一人しか覚えがなかった捨喜太郎は、名前を呼ぼうとしたが声が出ずに返事が出来ないままだった。
伊次郎が微かに動く気配がし、指先が体に軽く触れたのが感触がする。
「水を飲まれますか?」
「ぅ 」
声が出ない代わりに頷いて見せたが、怠い瞼を上げてそれでは相手に伝わらないのだと言う事が分かった。
暗い……闇……
思わずひゅっと喉が鳴ったのを伊次郎がどう感じたのかは捨喜太郎には分からなかったが、「大丈夫ですよ」と落ち着かせる声が聞こえた。
状況が呑み込めないまま、捨喜太郎は怯えて体を竦ませるがうまくいかず体をよろめかせると、腕が伸びてきてそれを支えてくれる。
「落ち着いてください、いいですか?」
「ぁ ん 」
いがらっぽいような、水分がなくて貼り付くような感触を拭おうと咳き込んでみるもののうまくいかず、げほげほと繰り返し喉を鳴らす捨喜太郎の手に、筒のような物が渡された。それは以前にも手にしたもので、中に液体が入っているのは容易に分かったが、今の状況でそれを素直に口に出来る程捨喜太郎は豪胆ではなかった。
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