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かげらの子 65
「榎本様は、こちらの先神様をお調べにいらしたのでしたね」
「ええ と、言うよりは『雄雌蛇』を……」
「『雄雌蛇』……そう、その名前は御兄弟がこちらにおいでになる以前に使われていたお名前で、その蛇神を先神様としてお祀りしているのです。そして先神様には伴侶がおります」
田植え唄に出てきた『番』と言う言葉を思い出しながら、軽く頷く。
「その伴侶からお授け頂けた物、それがこの軟膏の薬箋でございます」
傷口の上に塗られた軟膏が体温を吸って緩やかに溶けて皮膚に馴染んで行くのを見遣りながら、捨喜太郎は蛇が薬酒の材料になると教えたのもその伴侶なのだろうと当たりを付ける。
「これだけでなく、強い稲や織物、煎じ薬、様々な物が、先神様の伴侶からもたらされるのです。こちらの……」
そう言うと、傍らに置いてあった竹筒を引き寄せて捨喜太郎の手に持たせる。中には液体が入っているらしく、ちゃぽん と小さな音が耳に響く。
「この柳から作ったお茶も、伴侶からのお授かり物です。痛みを取りますのでどうぞお飲み下さい」
促されてその竹筒に口をつけながら、先神ではなく伴侶から?と怪訝な顔をしていまったのを留夫は見逃さず、やはり微苦笑で「疑問にお思いでしょう」と細かく首を縦に振った。
神に伴侶と言う都合のいい言葉で飾り立てた生贄を捧げて加護を得るのはある話だけれど、迎え入れられる伴侶自身が加護を授ける話など聞いた事がなく、捨喜太郎は以前にも田植え唄を聞いてその疑問を持った事があったのを思い出す。
「先神様が選ばれる伴侶は、必ず貴男様のように『持つ者』なのですよ」
手当の後片付けをしながらぽつんと言った言葉に耳を疑い、はっとその顔を見る。
「先神様が呼ばれるのです。この時期、伴侶が必要になると、必ずやってくるのですよ」
「は……?」
「貴男様のように深い知識を『持つ者』が」
「や ⁉先神様の伴侶は宇賀でしょう⁉」
咄嗟に腰が浮いたが、驚きすぎたのか座り込み過ぎたせいなのか腰が立たずによろけるように畳に手を突いただけだった。
「宇賀は巫女です、伴侶ではない」
はは と、何を御冗談を と言う言葉が続く。
「宇賀は『雄雌蛇』となって伴侶を迎え、この村に新たなお授け物をもたらすのですよ」
何を と言葉を続けようとした所で、唇の不自然さに気が付いた。捨喜太郎は懸命に動かそうとするのに、声を出す筈の口は腫れぼったいような、まったく他人のそれのような奇妙な感触がするだけでぴくりとも動いてはくれず、舌を動かそうにも不自然な呻き声が零れるだけだった。
はっと先程立ち上がりそびれた足に視線を遣ろうとしたが、その前に迫って来た畳に恐れをなして目を瞑るしかない。
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