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かげらの子 74
「 いや、いや。こんな事じゃいかん」
烏の濡羽色の髪の間からこちらを見上げる大きな瞳を思い出し、その視界に入る事の出来た瞬間の高揚感を思い出すと、湿気に冷えた体にぽっと温もりが灯るようだった。
「美しい目だった」
鏡のような……
「一心にこちらを見詰められると、心を奪われてしまった気に……いや、違う、心を捧げたくなるんだ」
奪って行くような、乱暴な物ではない。
自ら跪き、頭を垂れ、そして自らで抉り出した心臓を両手に持って捧げたくなる……
「そんな相手と……宇賀と離れ離れになれる筈がない!」
強く言い切ったせいか、捨喜太郎の声は小さな穴倉に満ちて響いた。
「…………道、宇賀がいれば、もう一つ、道があるじゃないか」
伊次郎ですら何があるか分からないと言っていたが、それは逆に道がある可能性もあると言う事に思い至り、捨喜太郎ははっと目を輝かせて拳を作る。
「弟御の恋人があれだけ反対されたのに素直に村から出て行けた筈がない、……先神が……雄雌蛇が手を貸したと言うのならば、もしかしたら道は村の入り口ではなく雄雌蛇を祀ってあるあの山の方に、どこかに抜ける事の出来る道があるんじゃないか⁉だから、恋人が村を出る時に先神が手を貸した なんて話が出てくるんだないんだろうか⁉」
一人でわっと一気に話し終えると、ここにはこの仮説を聞いてくれる相手が一人もいない事に気付き、捨喜太郎は萎れるように項垂れた。
「だから、先神の巫女となって蛇に襲われなくなった弟御が必要だったんだ。山の向こうのどこまでに蛇が出るのかは分かり様がないが、ただ身重だった弟御が行けないくらい険しい道なのは間違いないだろう。だから、弟御を残して行くしかなかった」
恋人が何故戻ってこれなかったのかは分からない。
当時の事だ、道に迷って野垂れたか、残党狩りにあったか、謀略に絡め捕られたか、それとも、山の奥に隠されるように存在しなくてはいけない村よりも都会を選んだか……
捨喜太郎は恋人を待ち続けた弟御を思って陰鬱な気分になった。
「……いや、こうしちゃおれん。今の内にここを抜け出して、宇賀と一緒に山を越えよう」
祭りの当日は全ての明かりが落とされると教わっていたので、それに紛れるようにしてこの村から出る事が出来れば と捨喜太郎は考えて何度も頷く。
「ここから出て、宇賀を見つけて……」
村が闇に沈むまで蛇の森で身を顰め、祭りの灯篭が消されたのを見計らって逃げ出せばいい と、ざっくりとした計画を立てた。
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