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かげらの子 92

「今度こそは、二人で逃げよう」  そう告げた時、捨喜太郎の震えが宇賀に乗り移ったかのようにぶるりと揺れてその場に崩れ落ちてしまった。男達に引きずり回されても怯えた風をおくびにも出さなかったのに、今は追い詰められた表情で白い顔を更に青白くしている。 「  う がは、でられない」  ぽつんと呻いて嫌がるように身を捻る宇賀を抱き締め、捨喜太郎は力強く「出られる」と告げてしっかりとその身を抱き締めた。  宇賀の肩越しに見える遥か先の闇に目を遣れば、また再び泣き喚きそうになるのをぐっと堪えながら、細い体を抱き上げて警戒の目を向けながら動き出す。  それを嫌がるように宇賀は体を跳ねさせたが、それを抑え込んで励まされながら登って来た坂道を戻る。 「や  道が  」 「あちらを通らなくとも……」  二人の纏う艶のない黒い着物を見下ろした。  伊次郎の気まぐれだとしても、この月の光を弾かない漆黒の衣は闇に紛れるには最も適している。これを被りながら影に潜めば、この明かりのない山中で二人を見つけるのは無理だろう。  その事を告げて落ち窪んだ吹き溜まりのような闇に沈む村の方に目を向ける。 「……頼む、宇賀。今度こそ、私を信じてくれ」  その前に跪いて、額を地面に擦り付けながら懇願したい気持ちでそう繰り返すと、先神の御座すらしい場所から離れるにつれて抵抗していた手の力が緩み、やがて足のばたつきもそれにつれてなくなってしまった。  ただ捨喜太郎の背後に視線を遣り、悲しむような何とも言えない表情で唇を噛み締めている。 「…………」 「  此処が、いいのか?」  上がる息を落ち着かせる為に立ち止まった捨喜太郎は、その視線の先と表情に気付いてそう問い掛けた。  「ここがいい」と返された所で捨喜太郎には宇賀を此処に置いて行くと言う選択肢はなかったけれど、それでも宇賀が後ろ髪引かれるようにそちらに目を遣り続けている事は、捨喜太郎にとって安易に無視する事の出来ない事柄だった。  さわ と生温い風がそよぐ。  決して涼しくはしてくれない、ただ空気を掻き混ぜただけのそれに宇賀の髪が掻き混ぜて緩く絡める。 「…………」  透き通ったような湖面の瞳が月の光を反射して青く光りを弾き、ゆっくりと一度だけ瞬いた。 「  さきたろ、いとし?」  真正面からそう言われ、気恥ずかしい思いもあったが捨喜太郎は一度だけ軽く唇を引き結び、 「愛しいよ」  繰り返し繰り返し口に出すと、重さも何もないそれが心の中に積み重なって層になって……  捨喜太郎は叫び出したい気持ちを抑える為に宇賀の胸に顔を埋めて、きつくきつく華奢な体を抱き締める。  細い腕はか弱かったけれど、捨喜太郎の腕の力に応えるようにしっかりと体に手を回し、宇賀は声には出さずにしっかりと頷き返した。  逃げる身としては明るい月夜に少しは曇ってくれないかと思う事もあったが、村の全ての明かりが落とされている今は、少しでも月が影に入ってしまうと村に慣れない捨喜太郎では坂を下る事も出来ない。

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