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第14話 罠に嵌められて【賢太郎】

 事件は、Aハウス内で勃発した。  ある朝、営業部に早く出勤した女性社員が、事務室に入るや否や、掲示板に、ずらりと、同じ紙が貼ってあるのに気付いた。  そのビラには、(あきら)賢太郎(けんたろう)が抱き合ってキスしている写真が載っており、『藤宮(ふじみや) 賢太郎は工務店のジュニアに枕営業したホモ野郎』と、彼を罵倒する文章も書かれていた。  たまたま朝早く出勤しただけで、どぎつい中傷を目撃してしまった彼女は気の毒だったが、彼女が機転を利かせて、課長に電話して、課長から、総務人事部へ連絡が行ったので、総務人事部が素早く他部署の同様のビラを確認して回収できたため、そのビラは、殆どの社員の目に付くことはなかった。  しかし、賢太郎が、工務店の―おそらく三國(みくに)工務店の―社長の息子と、(ねんご)ろな関係にある、という噂は、あっという間に社内に広まった。  賢太郎が出勤した時、それまで営業部のみんなが、興奮気味に何かの話題で盛り上がっていたのに、彼の顔を見た瞬間、縁起の悪いものでも見てしまったかのように、いっせいにみんなが黙り込んで目を逸らしたのに気付いた。  賢太郎が、課長に問い掛けようと目線を向けると、気まずそうな顔をした課長が、握りこぶしの立てた親指で事務室の外を指差し、(ちょっと外に出よう)という仕草をした。  てっきり廊下で話すのかと思いきや、課長は、個室の会議室へと賢太郎を連れて行った。異様な空気を感じた賢太郎に、課長は、件のビラを差し出した。  賢太郎は、目を瞠った。  たまたま平日に輝が泊まりに来て、翌朝、出勤時に車で送ってくれ、少し会社から離れたところで降ろしてもらったのだが、その時にキスした瞬間を捉えた写真だった。 (外で、スーツ姿でキスしたことなんて、殆どないはずなのに……。)  その珍しい場面を、わざわざ切り取っているのは、二人の関係が、仕事と関係があると強調する意図を感じた。 「他にも、総務人事部と、うちの事業部長宛てに、こんな投書があった。他にも、もっとたくさん写真があったんだ」  課長は、言いづらそうにしながら、一通の封筒をテーブルの上に置いた。  『見て良い』という意味と理解した賢太郎は、封筒を手に取り、中身を出した。分厚い封筒には、二人の仲睦まじい様子がわかりやすく表現された写真が、多数入っていた。  ジム帰りに輝の車の中で二人がキスしている場面、  賢太郎のマンションの前で二人が抱き合っている場面、  輝が賢太郎の肩を抱き耳元に何か囁きかけているのがキスしているようにも見える場面、  笑顔の賢太郎が指で何か摘まんで輝の口元に運び食べさせている場面、などが写されていた。  この写真を見れば、誰もが、輝と賢太郎が深い仲にあると確信するだろう。  賢太郎は、これだけの写真を集めるために、執拗に二人を追跡していた人間がいたことに、ゾッとした。  課長が、物言いたげに、しかし、言いづらそうに黙ったまま、賢太郎を見ていたのに気付き、彼は言った。 「この写真に写っているのは、僕だと思います。一緒に写っているのは、課長もお気づきだと思いますが、三國工務店の三國部長です。彼と僕は、ここ数か月、恋人として真面目なお付き合いをしています。  ただ、お互い純粋に恋愛感情で交際しています。仕事上の情報を漏らしたりとか、利益を絡めたことはありません。なので、『枕営業』というのは、事実無根です」  課長は、慌てたように言った。 「いや、藤宮が真面目な社員だってことはよく知ってるし、公私のけじめが付かないような奴だとは思ってないよ。  ……このビラは、今朝、営業課にたまたま朝早く出勤した社員が、掲示板にびっしり貼られていたのを見つけて、俺にすぐに電話をくれたんだ。俺も慌てて出勤して、回収した。俺から総務人事部に、こういう誹謗中傷ビラがあったという報告をあげて、他の部署にビラがないかは、総務人事部が回って確認してくれた。  ……そして、事業部長と、総務人事部長に、数日前に、この封書が届いていたことが分かった。  お二人は、穏便に事を運ぼうと、藤宮のことも、個別に呼んで話を聞こうとしていたみたいなんだ。だけど、投書した犯人は、数日、動きがないって思って、焦ったのか、苛々したのか、いずれにせよ、過激な手段に出てきたんだと思う」  賢太郎は、無言のまま、ビラと写真を見つめ続けていた。 「こういう状況で、聞くのも、心苦しいんだが……。藤宮、誰がこんなことをしたか、犯人に心当たりはないか?」  課長は、遠慮がちに聞いてきた。  賢太郎は、弾かれたように顔を上げ、驚いた表情になった。 「……こんなことをされるほど、自分が恨まれてるなんて、全く思ってませんでした。この写真……、平日もあれば週末もありますし、会社や、僕の自宅付近だけではないんです。時間帯もバラバラですし。相当の時間をかけて、僕を尾行でもしないと、撮れないと思うんですけど……。そこまで、僕を恨んでる人がいたっていうことが、ショックでした」  喋りながら、賢太郎は、自分の声や指先が震えているのを感じた。ショックを受けている賢太郎の姿を見て、課長は、同情するような眼差しを向けていた。  営業課に戻ると、やはり、みんな、遠巻きに賢太郎を見ている。誰も話し掛けて来ない。大半の人が、気まずそうに同情してくれているようだったが、一部の目線には、好奇や軽蔑も含まれていることも感じた。  賢太郎は、勢いよく立ち上がり、お手洗いで、顔を洗った。  「よしっ!」と、気合を入れ、自席に戻った。 (僕は、何も、悪いことはしていない。恥ずかしいことも、していない。これで、僕が凹んだりなんかしたら、犯人の思う壺じゃないか! ……それに、あの写真、確かに、深い仲だってことは分かるけど、別にイヤらしさはなかったよな? 普通にラブラブで微笑ましいカップルの写真だったじゃないか)  背筋を伸ばし、いつも以上に集中して、賢太郎は仕事に励んだ。周りの冷たい目線にも耐えた。そして、彼自身は、決して後ろめたいことだと思ってはいなかったが、この事件のことは、輝には言わずにおこうと思っていた。  しかし、事件の翌日、輝から連絡があった。 『ちょっと話がしたいから、今日会えないか?』  賢太郎は、明日〆切の提案を抱えていると難色を示したが、『残業の終わり時間が見えたら教えて。夕飯でも食おう。その後は、家まで送るよ。今日は、上がり込んだり泊まったりしないで、そのまま帰る』と、なおも食い下がられた。  ここまでグイグイ来るのは、輝にしては珍しいと思ったが、中傷ビラと仕事のピークで、頭がいっぱいだった賢太郎は、輝の状況を思いやる余裕を失っていた。  写真のこともあり、会社に車で迎えに来てもらうのは気が引けた賢太郎は、二人が何度か行ったことのある気軽な中華料理屋と、時間を指定して、現地で待ち合わせたいと連絡した。  中華料理屋で待ってくれていた輝は、いつも通りの優しい表情だった。しかし、一緒に中華料理を数品摘まんで、賢太郎がビールを一杯飲み終えた頃、おもむろに懐に手を入れて、「これ」と、一枚の紙を取り出した。  賢太郎は、息を呑んだ。 「……輝さん、なんで、それを、」  輝が手にしていたのは、昨日、Aハウスの掲示板に張り出されていた中傷ビラだった。 「Aハウスで賢太郎と仲の良い同期の女の子。ほら、懇親会の受付やってくれてた。彼女、最近、うちの江川係長と仕事してるんだ。賢太郎のことを心配して、江川にくれたらしい。江川は、俺たちのことを心配して、すぐに俺のところに報告に来てくれた」  賢太郎は、わざと、この話を冗談にしようとした。 「このビラ、すごい間違ってるよね? 僕らが付き合い始めたのって、一番大きい案件が完成した後だから、枕営業じゃないし。ていうか、そもそも、僕、ホモじゃないし。男の恋人は輝さんが初めてなのにさ。他の男の人には、全然ときめかないから、バイセクシャルって訳でもないと思うんだよねー」  輝は、無理に明るく振舞っている賢太郎の本心を見抜いたようで、苦笑いをして、軽く首を振った。まるで、(もう良いよ、無理しなくて)と言わんばかりだった。  彼は、周りに気を遣いつつ、緊張できつく握りしめていた賢太郎の手に、そっと自分の手を重ねた。 「……辛かったよな? ごめんな、すぐに気付けなくて。この写真撮られた時も、俺が、引き止めてキスしたから」  賢太郎は、顔を左右に振った。しかし、輝の優しさが沁みて、涙が浮かぶのは止められなかった。

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