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 松岡は青年革命連合の幹部で、東京周辺の同志たちの活動の指導をしていた。勉強会は青年革命連合の息がかかった「勧誘の場」だったのである。もちろん当時の白根はそんなことはまったく知らず、突然現れた二十代半ばほどの青年に勉強会のメンバーが論文の感想を求めたり思想書の解説を頼んだりするのが不思議でならなかったが、その疑問は彼が口を開くとたちまち氷解した。明解な言葉で革命を説く彼に白根は心惹かれて、自主的に青年革命連合の集会に出席するようになった。松岡もよく質問をする白根の顔を覚えていて、すぐ親密になった。    ある時、松岡に誘われふたりだけで入った喫茶店で、白根は自らの悩みを打ち明けた。行きつ戻りつのたどたどしい身の上話を何十分も傾聴した松岡は「君のなかの矛盾であり葛藤であるから、活動を通じて克服していくのが良い」と助言した。その言葉はよく理解できなかったものの、松岡が批判を一切せずただ聴いてくれたことに白根は胸が熱くなった。松岡は白根が作ったガリ版の冊子の出来を評価し、青年革命連合本部の広報部に来ないかと勧めた。勉強会のメンバーとそりが合わないように感じていたこともあり、思想的な共感よりもただこのひとについて行きたいという思いだけで白根は承諾した。  松岡は雄弁であるだけでなく論文も得意であった。機関誌に載せる原稿用紙二十枚程度のものならば一晩で書き上げ、ピースが切れなければいくらでも書けると豪語するほどだった。しかし勢いに任せて書くためにひどい悪筆のうえに誤字や欄外の加筆が多く、辛抱強く「解読」する必要があった。彼は「有能な編集者」を探していた。勉強会のメンバーが書いた論文をひとりでまとめて冊子を作っていた白根は、その経験と忍耐力を買われたのである。  編集人として特権的な立場にあったわけではなく、白根はあくまで組織の一員だったから、自動車の運転から幹部が集まったときの食事作りなど何でもこなした。板前仕込みの料理は好評で、くず野菜があれば食えるものを作ってくれる、三百円あれば御馳走ができると周囲に褒められ、白根は誇らしかった。  活動にのめり込み過ぎて単位を幾つも落としてしまい、四年で卒業できないことが確実になると、白根は大学を退学した。敬子から葉書が届いたが直視できずに旅行鞄の奥に封印して、アパートを引き払い松岡の家に転がり込んだ。  そこは借家ではあったが戸建てで広さもあったから、一夜の宿として同志が泊まることも多かった。ひどいときは六畳間に四、五人が雑魚寝する羽目になった。その奥に四畳半の部屋があって、宵っ張りの松岡はピース片手に夜通し書き物をしているのだった。  眠れないときに白根はそっと奥の部屋に行き、隅に座って松岡の背中を眺めていた。松岡は筆が止まると気怠そうに机に寄りかかり、白根を相手にとりとめのない話をした。革命のことだけでなく、旅行先の風景や古本屋で買った小説の感想など、思いつくまま呟く風で、しばらくすると頭の中で文章がまとまるのか、くるりと背を向けてまた原稿に取り組むのだった。白根に気を遣う様子はなかったが、その空間に存在するだけで満足だった。  泊まるのは男がほとんどだったが、ときどき若い女が混じっていることがあった。そのときに限って白根は眠れない夜を過ごした。六畳間の連中が寝静まると、女はそっと部屋を抜けて戻ってこない。しばらくすると奥の部屋から押し殺した喘ぎ声が聞こえてきて、白根は息苦しいほどに心臓が高鳴るのを感じた。

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