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第1話

「バカンス?」  振り向いた俺にミハイルが口許をにんまり歪めて言った。 「プーケットも悪くはないが、嫌だろう?ニースにでも行くか?」  元々はアジアの亜熱帯の生まれだが、まだ父さんの死んだ時の事や崔の一件があって、あまりそちらの方に行きたい気はしない。だが、いわゆるヨーロッパのリゾート地にも食指が動かない。ミハイルは黒海沿岸のソチ....俺が最初に監禁されていたあたりや、ニースにもプライベートビーチを持っているが、ノコノコそんな所に行った日には、人目が無いのをいいことにミハイルに好き放題される羽目になる。昨年だけで、十分懲りた。 「別に避暑に行くほど暑かないだろ?セレブリティとかいう金と暇をもて余したイケ好かない連中の機嫌取りするくらいなら、ピラミッドによじ登っていた方が合ってるぜ」 「悪くは無いが、一度登れば十分だ。他に行きたい所は無いのか?」 「登ったのか?!」  俺は半ば呆れながら頭を巡らせた。そして、ふと思い至った。 「温泉行きたい、温泉!」 「温泉?スパか?」 「スパじゃない。お、ん、せ、ん!」 「温泉....日本か.....」  俺はこっくりと頷いた。子どもの頃、いわゆる夏休みの期間に、一度だけオヤジが連れていってくれた。本当に田舎の鄙びた所で蛍がいっぱい群れ飛んでいて、すごく綺麗だった。三日間ほどの滞在だった。宿の主はオヤジの旧知の友人で、俺はそこの同じ年頃の子どもと虫取りや魚釣りをして遊んだ。  そして夜は花火をしたり、蛍を見に行ったり....そこの子どもとはまた会う約束をして....それきりだったけど、今も元気にしているだろうか......。 「日本には、湯治というものもあるらしいし...邑妹(ユイメイ)も一緒に、さ」  邑妹(ユイメイ)は、先の崔の一件で怪我を負い、傷は治ったものの、リハビリ中だ。それに子どもの頃に崔を慕っていたこともあり、塞ぎ気味だった。少しでも気晴らしができたら...と俺は思った。 「そうだな、考えておこう」 「本当に?」  ミハイルは、ふむ.....と頷き、俺に軽く口付けた。 「可愛い奥さんのご要望とあれば...」  その一声と腰を引き寄せる手は余計だ、ミーシャ!  そして、俺達は数週間後、日本のとある温泉にやってきた。蕭洒な造りの日本家屋の宿は、いわゆる著名人が隠れ家的に訪れる高級旅館で、一般には知られていない。部屋数も少ない。出てきた女将さんは結構なベテランだが、品の良いもてなしの心得に長けた人だ。 『ようおいで下さいました』 とロシア語で挨拶されたのには驚いたが、何でもレヴァント-ホールディングスの観光部門の経営だそうだ。どこまでも手の広い奴だ。 「内密の商談には、こういうところのほうがいい」  綺麗に刈り込まれた木や池の風情も上品な離れーとは言っても三部屋はあるがーに通され、目をしばたたく俺に、重厚な椅子にゆったりと座って、ミハイルが得意げに言った。 「江戸時代の建物を移築させて改装したんだ。いい造りだろう」 「凄いな.....」  黒光りする太い柱や幅広の床は確かに一朝一夕では出来ない。この威厳ある佇まいの中に最新の先端技術を駆使したセキュリティシステムを埋め込んであるらしい。レヴァントの技術、いやニコライの技術に改めて舌を巻いた。 「さて、まずはひと風呂浴びるか...」  オッサン臭いセリフとともにネクタイを緩めて、つぃ....と立ち上がったミハイルの笑みに一瞬、嫌な予感はしたが、まぁ目を瞑ることにした。

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