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01a イェーク・プロシード

 視界は良好。眼下に迫る滑走路まで障害物もなし。イェーク・プロシードは操縦席に差し込む朱色の夕陽に目を細めながら、操縦桿をゆっくりと倒した。 「管制塔、こちらは一七〇便」  ヘッドセットのマイクに向かって呼びかけると、すぐさま応答がある。 『一七〇便、滑走路への進入を続けて下さい。第一滑走路への着陸を許可します』  スラストレバーを引いてエンジンの出力を下げながら、指定された滑走路が正面に来るように進路を微調整する。 『なあイェーク、いけそうか?』 「ん、何が?」  管制官はイェークと同じ十九才、謂わば同期のような存在だった。それで、規定の文言が終わった途端に砕けた口調で話しかけてきたのだ。 『風が結構あるだろ。さっき一機降りられなくて、引き返したんだよ』 「今日はそんなにか?」  今機内で確認出来る計器でも、確かに風速も風向も安定しないようだった。それらと足元のペダルから伝わる感触とを比べてから、イェークは決心した。 「いや、大丈夫だ。降りられると思う」 『へへ、さすがはイェーク! ってな』 「なんだそりゃ」  熱のこもった言い草に、思わず笑ってしまった。 『お前がそう言うなら、問題なく降りるんだろうと思って』  滑走路は順調に迫ってきていた。これからは高度計とにらめっこしながらの、機種の角度の繊細な操作になる。 「じゃあ、降りるぜ」 『ほいほい』  一度ブツリと通信が切れる音がして、イェークは改めて操縦桿を握り直した。  眼前の窓から見える滑走路との距離がどんどん詰まっていき、横風をいなしながら中央の白線の真上に乗るように機体をコントロールした。丁度ここだ、と思った時にゆっくり降下すると、後方に僅かに衝撃が伝わった。後輪が滑走路に接したのだ。遅れて前輪も接地する。右側のスラストレバーを引いてから逆噴射レバーを倒し、左足でブレーキペダルを踏み込む。慣性のため重力が全身にぐっとかかった。速度計を確かめると案の定、速度は予想よりも少し上回っていた。これも風向きのせいなのだ、今日はなにかと風速計から目が離せない。滑走路の停止基準線や、終端の赤い光、その向こうの濃紺の海も迫ってきているが、これ以上機体が揺れては乗客からのクレームに繋がる。許容範囲のギリギリ向こうで停止するしかなさそうだった。  身体にかかる重力と、滑走路の終わりをそれぞれ勘案しながら、イェークはブレーキを調整した。やがて速度計は左の方へ落ち着いていき、通常の地上の重力が戻ってきた。メインエンジンを地上モードに切り替えたところで、イェークはようやく小さく息をつく。そして右手で操縦桿を掴んだまま、左手を伸ばしてマイクを取り、客席放送のボタンを押す。 『お疲れ様でした。こちらは機長、中型一級操縦士、イェーク・プロシードです。当機は定刻通り、サディオ空港に着陸いたしました。機体が完全に停止するまで、シートベルトはそのままでお待ち下さい。本日は、ご搭乗いただきまして誠にありがとうございました。またのご利用を心よりお待ちしております』  マイクを元の位置に戻し、操縦席の左手のスティックハンドルをゆっくり右へ倒す。機体は空港の建物が左に見えるように旋回する。乗降用のはしご車がこちらに向かってくるのが見えていた。正面に視線を戻すと、誘導員の振る誘導灯が進めの合図を送っていた。それに従って徐行していると、やがて止まれの合図が送られ、機体を完全に停止させる。速度計は最も左端を示しており、予備の計器のデジタル表示も同じ数値だった。  イェークはシートベルトを外して立ち上がった。操縦席は人が一人立ったり座ったりするのがやっとという狭さで、天井も低い。決して長身ではないイェークですら、少し首を竦めていないと頭を打ってしまいそうだ。そんな中でも出入口には鏡が取り付けられていて、イェークはそこを通るついでにその中を覗き込む。後ろだけ長い銀髪と空色の目が夕陽で全体的に赤く染まっている。ヨレヨレのグレーのスーツの制服の襟を手早く整えた。  このオンボロ機の操縦士用搭乗口は、未だに丸いハンドルを掴んで回すタイプだ。イェークはよっこらしょ、と小声で言いながら引っ張るようにしてハンドルを回し、何とか自分が降りる隙間を作った。春先とはいえまだ冷たい海風が夕陽と一緒に吹き込んで来て、目を守るために反射的に瞼を閉じる。  ――次に目を開いた時、地上にいた金髪の青年将校と目が合った。彼はサングラスをかけていたので、絶対に目が合ったと断言することは出来ない。だが、終業時刻が迫るこの地方空港の滑走路で表に出ている人物は、イェークだけだった。  彼は紺色の軍服の上に黒い外套を纏っており、遠目から見て分かるほどの生地の上質さから、そこそこの地位であることが見て取れる。イェークがタラップを伝って地面に降り、さらに近くで見ると、彼は二十代の半ばくらいで、かなり背が高いことが分かった。後ろには部下らしき人物が数名と、その向こうには軍用と思しき輸送機も止まっている。緊急着陸でもしたのだろうか。そうでもなければ、こんな辺境の空港には不釣り合いな一行だ。 「お前がイェーク・プロシードだな」  体躯に見合ったバリトンで名を呼ばれて、心臓がどきりと跳ねる。 「えっ? はい、そうですが……」 「……」  その男はしばらくイェークを黙って見下ろしていたが、頭のてっぺんから足の先までを眺め終わったのか、踵を返す。 「さっさとその仕事を終わらせることだ」  男は部下を引き連れて、輸送機の方へと向かっていった。おそらく、戻っていったという表現で合っているだろう。  一体何だったのかと思いながら、その後姿を呆然と見つめる。イェークの左胸には確かに名札がついているが、この小さな字が読めたのだろうか?  ともあれ、イェークにはまだ山ほど仕事が残っていた。気を取り直して、その辺に転がっていた車輪止めを引きずってきて車輪に噛ませる。はしご車はとっくに搭乗口に設置されており、その運転手に手を上げて合図すると、扉が開けられ乗客の移動が始まる。イェークははしご車の下に立ち、人数を数えながら一人一人に挨拶をしていく。 「足元にご注意ください。ご利用ありがとうございました」  十四人目のお客様は、小さな女の子だった。背はまだイェークの腰あたりまでしかなく、父親らしき男性に連れられている。フリルが何段もついたスカートワンピースの格好から、上流階級であることが見て取れた。 「お兄さんが運転手さんだったの?」 「そうだよ」  その子の目線の高さに合わせて屈む。女の子はぱっと目を輝かせた。 「すごーい! こんなにおっきな飛行機動かしちゃうのね!」  正確に言うと、旅客機の中でもこの機体は小型な方に分類されるのだが、彼女にとってはそんなことはないのだろう。しかしそこで、彼女の父親が痺れを切らしたようにその小さな手を引っ張る。 「ただの準市民だろ、いちいち構うな!」 「じゅんしみんって何ー?」 「準市民は準市民だ! ほっとけ!」 「ねえじゅんしみんって何ー?」  父親には質問の矢が連射され、それがますます父親の怒りを買ったようだ。女の子はそのまま引っ張られていき、空港の到着ロビーへ入っていった。すると待ち構えていた女性がぱっと顔を輝かせ、女の子に駆け寄る。さきほどの父親も途端に笑顔になり、三人はお互いを抱き締め合った。  イェークは満足した。

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