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01b イェーク・プロシード

 色々な報告や事務仕事を終えて空港そばの寮に戻って来る頃には、すっかり日は落ちていた。イェークの暮らす寮は、平屋建ての小さなアパートといった趣だ。ちらほら明かりが付いているが、消えている部屋の方が多い。まだ同僚たちが残業をしていたので、そのせいだ。 「ただいま」  寮の一階の端の部屋が寮監宿直室になっており、住居用だった窓を改造した受付に顔を見せる。 「イェーク!」  寮監は、イェークたちのような準市民従業員の取りまとめを兼ねている。そのおじさんが、驚愕に脂汗を浮かべて小窓に貼り付く。 「なんだよ。俺なんかした?」 「なんかしたっていうか、お、お、お前……あっ」  おじさんがイェークの背後に目をやり、息を呑む。振り向くと……そこには夕方の、サングラスの青年将校が立っていた。 「え、なんでここに」  将校はずかずかとイェークに歩み寄った。思わず後ずさるも、すぐに壁と将校の間に挟まれてしまう。彼はサングラスを外してイェークを見た。一対の青い瞳がそこにあった。 (この人、特級市民だ……!)  イェークにとっては、このような至近距離でこの色の瞳を覗き込むのは初めてだった。金の髪に真っ青な瞳は、貴族の中でも最も権威のある、〈特級市民〉の証しだ。 「っ……」  その青い目を見ていると、自分の中の血が騒ぎ出すのを感じた。その場に壁伝いにへたり込みそうになってしまう。全身が竦み上がってしまって、呼吸も満足に出来なくなる。  それもそのはずだ。準市民、遺伝子操作で能力の一部を強化された人種は、その能力と引き換えに、人権の一部の制限と特級市民への絶対服従が課せられている。この違和感は本能的なものだ。遺伝子レベルで刷り込まれているので、意思で抗うことは出来ない。そう知識を得ていても、今日この日、この青い目に囚われるまでは実感することはなかったのだが、間違いないというくらいに体感してしまった。イェークはこの人に逆らうことは出来ない。  軍人にしては美しい、長い指が首元に伸ばされ、イェークはますます息を詰める。ネクタイが緩められシャツのボタンが外され、左の鎖骨の下を改められる。そこには各種運転を生業とする準市民の証、車輪の刺青が入っているはずだ。それを確かめたら、青年将校は再びボタンを留めてネクタイも戻した。ほっとする間もなく、有無を言わさぬバリトンで囁かれる。 「さっさと荷物をまとめろ」 「に、荷物……?」  男は後ろに控えていた部下に目配せをする。部下も同じ紺色の軍服を着ているが、階級章は簡素に見えるので下士官であるらしい。その下士官は、持っていた銀色の大きなトランクケースを受付の筆記台に乗せて、中身を見せた。ぎっしりと札束が詰まっている。  絶句する寮監とイェークをよそに、青年将校はサングラスをかけ直して告げた。 「俺は任務でこのイェークという準市民を買いに来た。対価はこれだ。足りんと言うのなら後で請求書を送れ」  イェークに向き直った青年は腕を組んで命じる。 「さっさとしろと言っている。お前の部屋はどこだ」  おずおずと寮の中へ入るイェークの後ろを青年将校が付いて来る。イェークの部屋、と言ってもほとんど独房のような設えなので、あまり見られたくなかったのだが、もはや外で待っていろとも言いにくい。  廊下の電球は半年前に切れてそのままだ。それが不便だったのか、青年将校は携帯端末のバックライトで足元を照らしていた。何せ金目の物などないので、個室の木製の扉には鍵もついていない。その軋みまくる扉を開けると、青年将校はちらりと中を見やって、後は近くの壁に凭れてイェークを待つようだった。 「荷物……って、何がいるんでしょうか」 「お前が持って行く必要があると判断する物だ」 「……」  この人は、本当に自分を買ったのだろうか。ドッキリか何かではないのだろうか……そう思うのだが、先ほど見せつけられた札束が網膜に焼き付いている。冗談や道楽で、あんな大金を、たとえ見た目だけの偽物であっても用意するだろうか。しかも、この人が本物の特級市民であることは絶対に間違いないのだ。  あまり待たせるとまたあの口調で急かされるのだろうが、本当に何を持って出たらいいのか見当も付かない。部屋の入口で立ち尽くしていると、彼の声が降ってくる。 「身の回りの物は軍で支給される。服もだ」 「軍、ですか」 「俺が軍人以外に見えるか」 「そ、そうじゃないんですけど」  古くて錆びたパイプのベッドを一つ置いたらそれで終わりの部屋を見渡すが、寝具も衣類も要らないとなると、正直なところ何もなかった。枕元に文庫本が何冊かと、袋入りの飴玉の食べかけがあったので、それを仕事用のフライトバッグに入れた。それだけで、鞄の留め金を留める。 「他には無いのか。もうこの部屋には戻らんぞ」 「そう言われても、本当に無いんですが……。俺はその、準市民だから家族もいないし、私物みたいなのも特に無くて」  青年将校は納得したのか、元来た廊下を戻っていく。  この部屋には戻らない……本当に? 疑問符だらけになりながら、イェークは世話になっていた元・自室を一瞥して、別れを告げた。    寮の外に出ると、大騒ぎになっていた。同僚やその他のやじ馬が集まってきて、寮監のおじさんが規制線を引いて何とか抑えている。  それを見ても何ともなさ気に、青年将校は部下と合流して空港の方へ向かう。先ほどから聞こえるエンジン音は、あの輸送機のものだろうか。付いて来い、というサングラスの奥の目配せに従う他ないイェークは、その後を追いかける。  一度だけ振り返ると、寮監のおじさんや同僚、空港の職員たちが、手やハンカチやスカーフを振っていた。  辿り着いたのは、ついさっきまで作業をしていた滑走路だった。たださっきと異なっているのは、収益の問題で夜間飛行が取り止めになってから使われていなかった照明塔が、何年かぶりにフル稼働しているところだ。発進準備をしていたのは、やはり夕方に見た輸送機だった。全体的に黒っぽい塗装で、シルエットは丸くて翼が短く見える。この大きさなら輸送能力はかなりのものだろう。  並んだ部下たちから敬礼を受けながら、青年将校は輸送機の後部の搭乗口へ向かう。 「あの……」  大事なことを聞いていなかったので尋ねる。 「貴方の、お名前は?」  このままでは名前も呼べない。彼はこちらへ振り返って答えた。 「シグルズだ。シグルズ・ドレッドノート、階級は二等空尉だ」  逆光になっていて表情はよく見えなかった。その名前を頭の中で反芻するよりも早く、彼は前へ向き直って歩き始めてしまった。その淀みのない口調と歩調に、言いようのない頼もしさと、そして恐ろしさを感じた。  彼は輸送機へ乗り込んでいく。イェークもまた、自分が乗り込むのが操縦席でないことに違和感を覚えながら、後に続く。

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