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02a 巡航艦の操舵手候補

 そこは貨客機と同じく、横に倒した筒のような空間だった。だがどうやら半分で区切られているらしく、機体の中央にはまた別の空間があるらしい。彼の部下の姿はここにはないので、おそらく操縦席に乗り込んだのだろう。シグルズは湾曲した壁に沿って並べられた座席の一つに腰掛けると、シートベルトを締めた。  頭上のランプが点灯し、搭乗している全員がシートベルトを締めなくてはならない状況、つまり離陸の時が来たことを悟る。  逃げるとしたら今しかない、もうチャンスはない。そんな考えがふと頭を過ぎるのだが、そこで思考停止してしまう。逃げるってどこへ? 例え今この輸送機を降りても、それからどこへ行けというのだろうか。寮に戻ってもみんなに迷惑をかけるだけだ。最悪、滑走路に降りた時点で撃たれて終わりかも知れない。準市民が軍の将校に抗ったりしたら、そうなっても何ら不思議ではない。それに、またあの瞳で見られたりしたら……きっと立ち竦んで動けなくなるだけだ。 「……」  イェークは逡巡を止め、シグルズとは一つ空けて着席し、シートベルトを締めた。持ってきたフライトバッグは足元に置く。それがイェークに出来ることの全てだった。  まもなく機体は前進を始め、幾分か方向転換を行って、いよいよスピードを上げ始めた。 (ああ、離陸する……)  ほとんどイェークの心の声と同時に、ふわりと機体が浮き上がる。イェークにとっては「いつもの」重力が感じられ、そのまま機体は上昇していく。  脳裏には、操縦席と、その窓から臨む地上の様子が鮮明に再生されていた。航行高度と比例してどんどん陸地や海が遠くなり、やがて正面には何もなくなる。無限の空と雲と、風が吹き付けるのみだ。手には操縦桿の感触が、足の裏にはペダルの感触があり、高度計がもういいと言うまで、その無限へと進んでいく……。  けれど、あの景色を見ることはもう二度とないのだろうか。今のイェークの眼前には、膝の上でぎゅっと握られた拳しかなかった。  やがて規定の高度に達したのだろう、機首の角度が落ち着いて、シートベルトサインが消えた。だが、それを見てもとてもその場を動くどころか、身じろぎする気力も沸かなかった。  シグルズは立ち上がり、中央の区画に通じる扉に手をかけた。 「来い」  短い命令を受けて、思考停止の続くイェークはのろのろと立ち上がる。そこで足元にフライトバッグがあるのを思い出し、それを抱えてシグルズの後を追った。  その中は、まるで寝室だった。  アイボリーの壁紙に落ち着いた照明、花が飾られた小さなテーブル、そして清潔そうなオフホワイトのシーツがセッティングされたベッド。等間隔に開いた小さな丸い窓を除けば、どこかのホテルの部屋だと言われても信じてしまいそうだ。  シグルズは、外套と上着を椅子の上に放りながら告げた。 「そこに寝ろ」 「え……」  言われた意味が理解出来ず、イェークは立ち尽くす。 「床がいいと言うのなら止めはせんが」 「……?」  確かに今から夜は更けていくので、多くの人は就寝するだろう。だがあまりに唐突すぎた。バッグを置いてベッドの側まで歩み寄ったものの、再びシグルズの顔色を伺うことになる。 「お前は明日付けで巡航戦艦の操縦士候補として徴兵される。その適性が認められたということだ」 「巡航戦艦って……戦闘機? まさか! だって、ガキの頃に受けた適正試験じゃ……」  無言で近付いてきたシグルズのサングラスに、慌てている自分の顔が映った。その瞬間、足を払われてベッドの上に横倒しになる。 「っ……」 「察しの悪い奴だ……。お前は大型戦闘機の操縦士、中でも高官を乗せて飛ぶ特別な操縦士、操舵手〈ラダー〉となる。自分の付き従う機長に奉仕するのは当然だろう」 「ほ、……奉仕……操舵手〈ラダー〉?」  一瞬のうちに色々な記憶が掘り起こされ、イェークは困惑した。  基本的に、大型軍用機の操縦士は女性のはずだ。繊細さと大胆さを両方備えた舵捌きをする傾向があるので、生還率が高く、軍高官を乗せるのに相応しいためだ。だが理由は他にもある。軍高官は圧倒的に男性が多数を占めているので、女性であれば彼らとより親密な関係を結べる……などとそれらしい言い方はされるものの、要するに美人で優秀な女性操縦士を『囲っている』ことが、軍高官のステータスとされるからだ。事実、各種式典では派手に着飾った女性の操縦士が華々しくメディアに取り上げられることがある。彼女たちは操舵手〈ラダー〉と呼ばれ、まだイェークが航空学校の学生だった頃には、そういった立場に憧れて自ら志願する女子もいたくらいだ。だが男であるイェークには関係のない話だった。そう、そもそも男子の適正試験の項目に、大型軍用機の欄などなかったはずだ。 「だって、俺……俺は、女じゃないから」 「操縦技術の適正があれば、性別は問わん」  それまでの常識が目の前で音を立てて崩れていき、シグルズが目の前に覆い被さって来ても動けず、呆然とそれを見上げる。彼はサングラスを外してシャツの胸ポケットに入れ、酷薄そうに笑った。

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