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第1話

 目覚めると、まずシャワーを浴びる。いわゆる御祓(みそぎ)の儀式である。  『あの人』のテレビ出演を、起きぬけの弛んだ心と身体で見守るなどあってはならない。だから浴びるのは、いつも極力冷水に近い温度の水である。  その後は、テレビに付属の録画機能と、不慮の事故が起こったときの保険のため購入したブルーレイレコーダーの予約設定を確認。さらには直接テレビ画面を録画するため、三脚に据え付けたタブレット端末も準備をする。  そして自身もスマートフォンを横に持ち、連写モードに設定してテレビの前でスタンバイ。動画のみならず、出演シーンを余さず静止画でも残すためである。  暮火(くれこ)遠矢の火曜日の朝は、現在売り出し中の若手俳優・暮火光秀が出演する『おはようきらきらお天気ニュース』を視聴することから始まる。 「今日の東京は曇り、太陽も見えなくてちょっと憂鬱な空ですね。午後からは、お天気はさらに崩れて関東地方は全域が雨模様、ところによっては突発的な大雨に見舞われる地域もあると予想されています」  眉に憂いを感じさせる曲線を描いて、テレビ画面の向こうの光秀がいう。それでも、口もとには常と変わらぬ完璧な笑みが浮かんでいた。  ああ、今日もやっぱり光秀は美しい。なんなら美しすぎるくらい。国宝級。犯罪レベル。  遠矢はしっかりとスマートフォンを握りしめつつ、テレビの前でほうとため息をついた。もちろん、カメラアプリの連射ボタンをタップすることは忘れていない。  遠矢の人生のうちで、間違いなく光秀を見つめている時がもっとも幸せな時間である。その次はおそらく小銭を数えている時で、その次は食事の時間。  遠矢は暮火光秀のファンをやっている以外には、家計簿をつけることくらいしか特に趣味もなにもないさびしい一人暮らしだった。ちなみに『さびしい』と言う評価は、単に遠矢の現状を知っている同僚やら知り合いやらにたびたび下されるだけのものであって、遠矢は別に自身をさびしいやつなどとは全く思っていない。  それどころか、暮火光秀という俳優の存在を知ってからの遠矢の生活は、それ以前より何倍も価値のあるものになったように感じられていた。  毎日のごはんは美味しいし、光秀が出演する特撮ドラマなどの関連グッズやブルーレイを余さず手に入れるため仕事も頑張らなければならないと思えるし、朝イチの光秀の尊顔を拝むために早起きだってしている。  光秀のファンをしているというだけで、遠矢は間違いなく日々むやみやたらに幸福であり、その生活は充実しきっていた。 「みんな、もう目は覚めましたか?今日は傘を手離せない一日になりそうです。それでは火曜のきらきらお天気ニュース、はじめていきましょう」  『おはようきらきらお天気ニュース』は朝の情報番組『おめざめ日本』内の、毎朝6時55分から放送される(いち)コーナーである。  『きらきら』の名前のとおり、もともとは蝶のように艶やかできらきらした女性アイドルが月曜から金曜までを日替わりで担当するコーナーであった。  しかしさすがはダイバーシティの時代というべきか、今春から火曜日と木曜日は男性が担当することになった。そのうちの火曜担当が、暮火光秀というわけである。  現在二十歳の暮火光秀は、白人の母を持つためその容貌も日本人離れしている。  淡い栗色の髪、白い肌と通った鼻筋、作り物のように長い睫毛と(みどり)の瞳。野性味のない、常人離れした華やかさと高貴さだけを感じさせる彫りの深い顔立ち。  女性アイドルたちとは多少毛色は違うかもしれないが、光秀は間違いなく『きらきら』の看板に恥じない美しさを備えていると遠矢は思っていた。光秀を起用した『おめざめ日本』スタッフに、お前らわかってるなと握手を求めたい気分である。 「さてみなさん、今日はなんの日かご存じですか?今日9月29日は、“くる、ふく”の語呂合わせから“招き猫の日”とされているんです。ということで、私も今日はこれをつけてお天気をお伝えしようと思います」  そう言って光秀が取り出したのは、三毛柄の猫耳がついたカチューシャだった。  ファンサービスとしては媚を売りすぎな感があるし、小道具としても少々安っぽさを感じる。大変に不純な目で見れば、その手のプレイを専門とする夜の店のような雰囲気も感じてしまう。さわやかな朝の番組に相応しいものかどうかといえば、正直あまりそぐわないような気がする。  しかし、猫耳姿の光秀を個人的に見たいか見たくないかといったら、当然見たいに決まっていた。よこしまな心を捨て去り、純粋にただ三毛猫に擬態するためのアイテムなのだとおのれに言い聞かせれば、お子様の視聴者も多いこの時間帯には最適な演出のようにも思えてくるし。  それになにより、光秀の色素の薄い髪に猫耳の三毛柄がなんとも映えている。  普段は王子様然とした笑顔を崩さない光秀が、少しばかり恥ずかしそうにはにかんだ笑みを見せているのもポイントが高すぎた。七億万ポイントである。連射ボタンをタップする指にも力がこもるというものだった。番組ホームページのお問い合わせフォームに感謝のお手紙を送りつけたい気持ちでいっぱいである。 『暮火見てるか? 猫耳って(笑)』 その時、遠矢が凝視しているスマートフォンの画面上方に通知の小窓が表示された。通話アプリの新着メッセージを知らせるもので、差出人は『さなだ』。  さなだは、遠矢の同僚だった。『さなだ』は彼の姓であり、漢字ではごく一般的に『真田』と書く。  真田は遠矢と同じように、火曜日の『おはようきらきらお天気ニュース』を毎週欠かさずに見ているらしい。しかし彼は、おそらく暮火光秀のファンというわけではないのだろうと遠矢は思っている。  真田は光秀の出演番組を随分とこまめにチェックをしているようだし、度々遠矢にその手の話題を振ってくる。けれど彼からは、心底好きなものを追いかけている者が発散する特有の熱量のようなものがすこしも感じられないのだ。  そのうえ、時々このように光秀を笑い者にするような物言いをすることもある。一ファンとして、真田のそういった態度は遠矢には到底認めることの出来ないものだった。  いちいち失礼だぞと憤慨してやりたい気持ちだったが、しかし職場でやり辛くなるのも面倒なので、実際に伝えたことはない。  いや、今サイコーにいいところなんだから邪魔しないでくれ。  画面の中では、光秀が招き猫のご利益について解説するため、まるめた左手を顔の高さまで上げて見せていた。さらに同時にこてん、と頭を左側に傾げてみせ、小声でにゃあ、と囁く。  全国のお茶の間で心臓発作が多発していないか、不安になるくらいのあざとさだった。動画、静止画としてのみならず、生の映像としてもしっかりと網膜に刻んでおかなければならないため、遠矢は真田のメッセージをまるっきり無視した。 「右手を上げた招き猫は、お金を招くと言われています。では、左手を上げた招き猫は何を招いてくれるのか。テレビの前の皆さんはご存知ですか? 今日の視聴者クイズ、こちらを問題にしたいと思います。番組公式メールアドレスまで、答えをお送りください。正解者の中から一〇名の方に、僕暮火光秀も出演する舞台『ノウン・アルカナ』のチケットをプレゼントします!」  光秀のアナウンスと同時に、画面下部に番組公式メールアドレスとそこに記載すべき条項について表示される。毎日恒例の視聴者クイズでは、こうして日毎の出演者の出演公演のチケットやサイン入りのグッズなどがプレゼントされるため、それぞれのファンたちが血眼になってメールを送ることで知られていた。  ちなみに遠矢は、今のところ一度も応募したことはなかった。舞台チケットや、光秀がその手で触れてサインまでしたグッズが欲しくないわけでは決してないのだが、けれどそこまでを望むのは欲深すぎるように遠矢には思えていた。  光秀が出演するという舞台は全国公演であり、遠矢の暮らす町の近隣都市でも公演があるという。今から三日後のことで、遠矢の自室に掛けられたカレンダーのその日にちにはしっかり丸印が書かれている。 「僕も招くなら、右手より左手で招きたいところです。ではみなさん、今日も一日、元気にいってらっしゃい!」  コーナー終了時まで、光秀はあざとい招き猫ポーズを維持していた。ああ、今週もこのうえなく幸福な時間が終わってしまう。来週まで俺はこの映像を何度見返すのだろうと思いながら、遠矢は手を振る画面の中の光秀に手を振り返した。

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