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第2話

暮火(くれこ)って変わった名字だよな」 「ああ、まあな。病院なんかでも、大体間違って呼ばれる」 「はは、だろうな。でもさ、最近良く見るアイドルに同じ名字のやつがいるだろ。あいつと字も読みも同じだから、俺は一発で読めた」  暮火光秀はアイドルではなく、若手俳優である。もちろん、俳優業もこなすアイドルとか、歌も歌う俳優というものも存在するので、その境界はいささか曖昧であると言えなくもない。けれど、基本的に舞台を中心として俳優としてしか芸能活動をしていない光秀は、間違いなく俳優でしかない。  と思ったけれど、ヤバい奴だとは思われたくなかったから、遠矢は『うん、暮火光秀と同じ暮火』としか返さなかった。  それが、同僚の真田とのはじめての会話だった。  遠矢は現在、とあるのどかな田舎町の製麺工場で働いている。長峰町というその町は、蕎麦の実の一大産地であり、それを加工する製粉や製麺を行う業者も多く存在している。  長峰町は、古くからオメガの隠れ里とされてきた土地である。  この町は、周囲をぐるりと山に囲まれている。碧士山と呼ばれるその山に国道が通る以前、長峰町はまさしく陸の孤島といった有様だったという。長峰の者の案内がなければ峠を越えることは出来ないと言われるほど碧士山の山道は険しく、そのため招かれざる者はけして立ち入ることのできない土地だったのだ。  そしてそういった地理的条件を生かしてか、いつしかこの地域はオメガにとっての縁切り寺のような役割を果たすようになっていったらしい。無理矢理に番にされたり、アルファに半ば虐待のような扱いを受けているオメガたちは、長峰の者を頼って命からがら峠を越えた。そしてそこで、つましく共同生活を送ったという。  だから現在でも、長峰町にはオメガが特別に多い。そのうちには過去に長峰に逃げたオメガたちの子孫もいるし、最近移り住んだ訳ありのオメガもいた。  そして遠矢が一体どういったわけでこの町に暮らしているのかと言えば、後者に近かった。  遠矢は経済力もなく、頼れる家族もない、さらには番もいないオメガである。  おのれを守るための武器をほぼなにひとつ持っていない遠矢にとって、オメガに対して理解のない場所で暮らすということはかなり勇気のいることだった。  もちろん、オメガだって法に守られてはいるし、不当に暴力を振るわれたり財産を奪われれば加害者側は罪に問われることになる。けれど、オメガに対する偏見や不理解が未だ世にあふれているのは事実であり、法に触れない程度の『いやなこと』に直面するのはオメガたちにとって日常茶飯事だった。  それになりより、いくら法で守られていようが、オメガはアルファに首筋を噛まれてしまえばそれでおしまいなのである。生理的な問題として、番の存在を示す噛み痕はただの怪我のように癒えて無くなることはけしてないし、番の契約をオメガから破棄することは不可能である。そして、一度誰かの番になってしまえば、オメガはもう二度とほかの誰とも番になることは出来なくなってしまうのだ。遠矢は何よりも、望まぬ相手の番にされることを一番に恐れていた。  もう記憶もまばらなほど幼い頃、遠矢はほんの短い間長峰で暮らしたことがあった。まだ母が生きていた頃の話である。どんな土地であったかは正直よく覚えていなかったが、いざという時には長峰に逃げればいいという認識だけはずっと遠矢の中にあった。  その『いざ』はまさに今なのではないかと思うような出来事が起きたため、遠矢は長峰町に越してきたのだ。  一方、真田は長峰町で生まれ育ったという。彼の両親はどちらともオメガらしかったが、真田自身はアルファだという話だった。  アルファを出産する可能性がもっとも高いのはオメガであるため、オメガが多い長峰町には必然的にアルファの数も平均より多い。  けれど彼らのほとんどは、長峰町の歴史的な背景をよく理解しているせいもあるのか、大抵が遠矢が知っている一般的なアルファよりも偉ぶらず、紳士的な人間ばかりだった。  そしてそれは真田も例外ではなかった。真田はある意味アルファらしい男で、身体的にも頭脳的にも優れているらしいのが仕事上の付き合いのみでも解るし、目鼻立ちのはっきりした顔立ちは美丈夫とか美青年とかいう言葉がしっくりくる。  なのに同時に非常に気さくで、他人の第二性が何であるかなど無頓着にも思えるくらいに全く気にしていないようにみえる。遠矢は真田を単純に人間としても、同僚としても『いい奴』だと思っていた。 「お前、たまたま同じ苗字だったのがきっかけで暮火光秀のファンになったんだっけ?まあ確かに、そういうのって親近感湧くよな」 「ああ、まあ、うん。そうだな」  製麺工場の製造ラインに勤務する遠矢と、事務所で事務兼営業として働いている真田は本来それほど接点もないはずなのだが、真田は遠矢が職に就いてすぐの頃からやたらと話しかけてきた。  いわく、工場ではここ数年新入社員を雇用しておらず、入ってくるのは製造ライン勤務のパートタイムばかりだが、それも基本的に子持ちの主婦や中年の女性ばかりであるため、同性で年の近い遠矢は貴重な存在であるということだった。もちろん、ここでいう同性とは第一性のことである。  さらに真田は、一週間も経たないうちに遠矢が光秀のファンであるということをいつのまにか察知していた。  遠矢は暮火光秀のファンではあることをあまりひけらかそうとは思っていない。べつに同じ趣味を持っている知り合いが欲しいわけでもなかったし、二七になる男が成人になったかならないかという歳の男性俳優に熱を上げていると知られれば、気色悪がられる可能性も十分にあると知っていたためである。光秀を愛するモチベーションを傷つけられるような事態は、遠矢にとって最も避けなければならないものだった。なのでむしろ、出来る限り隠そうと努力してすらいた。  しかしどういうわけか、真田には気づかれてしまった。まあ休憩時間ともなれば、人目を忍んでテレビ番組に出演する光秀の静止画を見つめたり、光秀の近況について情報を集めたり、光秀の出演舞台の動画を眺めたりしているので、意外とバレバレだということなのかもしれないけれど。しかし勤務する部署が違うくせに、よくも遠矢の動向をいちいち把握しているなあと思ってはいる。  真田が事あるごとに光秀の話を振ってくるのは、おそらく単純に話題作りのためなのだろうと遠矢は察していた。  同じ男で、年が近いからと言って、誰とでも自動的に親しくなれるわけではけしてないし、それどころか遠矢はどちらかといえば他人に対して壁を作るタイプの人間である。まして相手がアルファともなれば、出来る限り関わらないでいたいとすら思っている。  そんな遠矢の張りめぐらせた高い壁に、一歩踏み込むための道具として真田は暮火光秀を使っているらしい。今日このワイドショーに出演するらしい、とか、週刊誌に出演舞台の批評記事が載っていた、とか、ネットの情報によれば現在アロマテラピーにハマっているらしい、とか。わざわざ集めでもしなければまず知ることも出来ないような情報を、真田は遠矢に伝えてくるのである。  遠矢にとって、光秀を愛するというのはごく個人的な――一種の『祈り』のような行為だった。もはや宗教儀式と言ってもいいようなもので、遠矢にとってそれは行うことにこそ意味があるものであり、そこに他者が立ち入る余地など全くない。誰にも干渉できないし、されたくもない唯一の聖域なのである。なので、気安く暮火光秀をダシに使う真田を正直快く思っていない面もあった。  けれど、真田は根本的には、ただ純粋に遠矢と親しくなりたいだけのように見える。わざわざオメガに近づいてくるようなアルファには、その腹に潜ませた下心や欲を無遠慮なくらい明け透けに見せつけてくるような者が多かったが、真田はそういったものも全く感じさせない男だった。それもアルファとしての優秀さの一部なのか、おそらく真田には人を懐柔する技術というか、たらしこむ才能があるのだろうと思う。  だから反感を覚え続けてはいるものの、遠矢も近頃では真田にかなり心を開きつつあった。一人で過ごすことに慣れきってしまっている遠矢にとって、隣にいることが不快にならない真田は、ある意味で非常に特異で奇妙な存在だった。 「あ、それ今日のきらきらお天気ニュース?お前、また連射モードで撮影したのかよ。そんなに撮りまくってたらスマホのストレージすぐに無くなるだろ」 「端末には写りのいい写真だけ選別して保存してるから大丈夫だ。残りも削除はしないで、全部クラウドに上げてる」 「……お前、そんなに大量に暮火光秀の写真持ってて一体何に使うの?あー、もしかしてあれか、持ってるだけで幸せ、みたいな?」 「持っていることにも意味があるが、心配しなくても毎日順番に一枚一枚眺めてるから無駄にはなってない」 「そ、そうか……ほんとすごいよな、お前のその暮火光秀に対する情熱」  昼の休憩時間、真田はいつものように工場の裏手で昼食をとる遠矢を訪ねてきた。火曜の昼は特に、『きらきらお天気ニュース』の撮影データを整理することで忙しく、正直真田の相手をしてやる余裕は全くない。しかし真田はそっけない対応の遠矢を特に気にする様子もなく、コンビニの梅おかかおにぎりにかぶりついている。 「なあ、お前来週頭から休み取ってるんだっけ?もしかしてあれだろ、暮火光秀の舞台」  こいつはなぜ他人の休暇まで詳しく把握しているのだろう、と思いながら遠矢は言葉なくうなづいた。三日後に近隣都市の宗崎市で暮火光秀の出演する舞台が公演されることも、真田は当然のように知っていたらしい。 「結構長く休むみたいだけど、宗崎に泊まるのか?」 「ああ、まあ、そのつもり」  正確には、長峰町に対して宗崎市とは逆側の碧士山を越えた先にある街のホテルに一週間ほど滞在する予定である。出来ればもっと遠くまで行きたい気持ちもあったのだが、体力的にも時間的にも金銭的にも厳しかったため妥協した。  けれど別に、そこまで詳しく真田に話してやらなければいけない義理もないため、適当に肯定だけしておく。 「ふーん……でもさ、お前もうすぐ」 「……もうすぐ?」 「……いや、何でもない。そういえばさ、SNSで見かけたんだけど、暮火光秀ってめちゃくちゃ腰低そうに見えるけど、プライベートでは結構乱暴な性格してるらしいぜ」  真田がこうもはっきりと光秀の批判めいたことを言うのは珍しかったので、遠矢はおや、と思った。  真田は遠矢との話題作りのためだけに、SNSの暮火光秀ファン向けコミュニティもこまめにチェックしているらしい。コミュニティのメンバーの多くは中高生や二〇代の女性であり、筋金入りのファンである遠矢ですらノリや空気感の独特さに気圧されることもあるような空間である。本来は光秀に少しも興味がないであろう真田が、よくそんなものを見続けていられるなと遠矢は半ば感心していた。  事務所によるイメージ戦略か、光秀は仕事上では常にまさしく“王子様”然とした服装と態度と発言を心掛けているらしいが、その実彼はかなりワガママで、いわゆる『オレサマ』な人物である。それは、遠矢もまたSNSやら週刊誌やらで得た情報としてよく知っていた。  そもそも真偽の明らかでない情報ではあるが、知った当時はそれなりにショックだった。しかしよくよく考えてみれば、幼く純粋だった頃の優しい性格のまま大人になれる人間などごく少数である。それに光秀の人格が仕事上のものとはかけ離れていたとして、そんな人間が四六時中『王子様』を装うことには大変な忍耐と努力が必要であるはずだ。  本性からして王子様ならばそれはそれで光秀にふさわしいし、仮にその真逆であったとして、あんなにも上手く王子様を(よそお)えている光秀をむしろ讃えるべきである。最終的に遠矢はそのような結論に達し、光秀がいかに性悪であろうと、傲慢であろうと、暴力男であろうと、別にいいと思うようになっていた。 「ああ、そうらしいな。なのに全くそう感じさせないように振舞えているのは、すごいと思う」 「……お前って、もしかして顔さえ良ければ中身はどうでもいいタイプ?」 「さあ、考えたことがない」 「というか、心底惚れてるってことなのかもな。……なあ、お前って、暮火光秀が現実に目の前に現れて、付き合ってほしいとか結婚したいとか言ってくれたらいいのにとか、考えたりすることあんの?」  質問の意図がよくわからず、遠矢はすこし悩んだ。『光秀が』『現実に』『結婚したい』。あまりにも唐突、かつ光秀に対して不敬すぎるようにも思える単語の羅列に、率直に不快感を覚える。  しばらくして、暮火光秀を『俳優』という一つの偶像として愛でているのか、それとも現実に存在する一個人として恋しているのか、どちらなのかという意味の問いなのだろうと理解した。  飽きれるほど愚かな疑問だと思った。光秀に対して侮辱的ですらある。  遠矢のような何も持たないオメガが、現実に生きる光秀の人生や心のほんの一部ですら手に入れたい、関わりたいと望むことは、遠矢にとっては眩暈がするほど許しがたい行為だったからだ。 「思うわけないだろう。光秀は常に遠くにいて、美しくて……そもそも俺と同じ世界に生きてる人間だとは思ってない。そんなことを考えていい相手じゃない」 「ふうん、そっか」  真田は安堵したように、妙にうれしそうに笑った。立て続けに光秀を貶めるような発言をされて正直気が立っていたが、屈託無く白い歯をみせる真田を見ていると、どうしてか肩の力がすうと抜けてしまう。  アルファというものはその生理として高い矜持を持って生まれるものなのか、遠矢の知っている彼らはオメガなどの明らかな下位の立場にあるものに出会った時、必要以上に自身の強さや価値を示してみせたがる者が多かった。  けれど、真田にはそういうところが少しもない。もう少し威張ってみせてもいいのではないかと、他人事ながら遠矢が勿体無く感じるほどである。  随分と変わったアルファだなと、遠矢はもう何度も感じていることを再び思った。  けれどそんな変わった男と親しくなれたことを、遠矢は多分それなりに喜ばしくも思っていた。

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