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第3話

 翌日。遠矢は朝から妙な胸騒ぎを感じていた。  休日であったため、明日からの旅行に備えて荷造りをするつもりだったが、この様子だと今日の夜のうちにでも出発した方が良いのかもしれない、と思う。今夜から宿泊することは出来ないかと予約を入れたホテルに問い合わせようかと考えている時、突然に来客があった。  真田である。真田がこれまで遠矢の家を訪れたことは一度もなかったが、偶然近くを通りかかったので気まぐれに寄ってみたということらしい。  昼近かったので、遠矢は自分の分も合わせて二人前の昼食を出してやった。従業員割引で購入した茹でそばで作った、ごくシンプルなかけそばである。 「いきなり悪かったな。昼飯までご馳走になっちゃって」  二人がけのダイニングテーブルに、真田と遠矢は向かい合って座っている。  真田は常に遠矢よりも早食いである。この日もすでに彼は食事を終え、頬杖をついてまだ蕎麦をすすっている遠矢をじいと見つめてきた。  真田のこのような視線が、遠矢は正直すこし苦手だった。普段はただひたすらにへらへらとしてばかりいるくせに、真田はときおり妙に真剣なまなざしで遠矢を見つめていることがあるような気がするのである。 「……なあ、こういうことってあんまり干渉すべきじゃないとは思ってるんだけど……お前さ、そろそろ発情期なんじゃないか?」 「……は?」 「いや、変な意味じゃなくてさ。そういう時に旅行とか、危険なこともあるんじゃないかと思って心配になっただけなんだよ。……なあ、お前って結婚とか、やっぱり考えてないの?番さえいれば、一人旅も安心だと思うぞ」 「……前も言ったけど、俺には結婚願望がない」  遠矢は番であるとか、結婚であるとかをどうでもいいことだと思っていた。してもしなくてもいい、というよりは、出来れば番など作りたくはないし、結婚もしたくはないと思っている。  以前、真田にそんな話をした時、彼はしきりにもったいないなあと繰り返していた。お前、男にも女にもモテるし、アルファの多い長峰じゃハーレム状態なのに、いや、逆ハーレムか。  オメガ男性には女性とほぼ変わりのないような体格や見た目をしているものもいるが、遠矢はどちらかというと男っぽい部類で、体格もベータ男性と名乗っても誤魔化せる程度にしっかりしている。女性ならいざ知らず、そんな自分を真田が男女関係なく『モテる』と思っているらしいことが、遠矢は正直信じられなかった。  しかし実際、遠矢はどういうわけか度々男の不審者に付け回されたり、町中で唐突に男のアルファに交際を申し込まれたりしたことがある。前にそれを真田に話したことがあるため、そんな思い違いをさせてしまっているのかもしれないと思った。 「じゃあさ、護身目的で一応番だけ作るっていうのはどうだ?例えば、俺と」 「……なんだって?」 「俺、暮火となら結婚とか、家庭とか……そういうのなしでも別にいい。番がいた方が色々便利だし、合理的だろ。だから、俺と番にならない?」  テーブルの真ん中に置かれた七味唐辛子の瓶を掴むために伸ばされた遠矢の手をとって、真田は言った。  相変わらずその顔には人の良さそうな笑みが浮かんでいるが、目は全く笑っていない。ひりつくように熱い、至って真剣な、一見怒りにも見える感情の宿った瞳だった。  ぞくり、とした。臓腑の底から沸き上がってくるような、根源的な恐怖だ。  今朝からしている胸騒ぎの原因は、もしや真田だったのだろうか、と思う。 「……真田。そういうのはもっと、大事にするべきなんじゃないか?」 「大事って?」 「番を作りたいという衝動は、本能に深く結びついているものだろ。しかも相手は、誰だっていいわけじゃない。俺たちは本能で、たった一人を選ぶんだ。お前にだって明日にでも、そういうやつが現れるかもしれないんだぞ」 「……ふうん。番なんかどうでもいいとか言うわりに、お前、結構ロマンチストなんだな」  言いながら、ぐいと強引に遠矢の手首をひいて、真田は手首の動脈が見えるあたりに鼻を寄せてきた。すん、と嗅がれたのがわかって、遠矢は思わず強く振り払う。  暴れた手が真田の顔に当たり、鼻っ面をひっぱたくような形になってしまった。 「あ、……悪い」 「はは、大丈夫。俺が急に掴んだのが悪かった。ごめんな。……なあ、今まで言ったことなかったけど、お前、いい匂いするんだよ」 「……」 「甘い匂い。……今もするよ。この町にはオメガが山ほどいるけど、お前ほどいい匂いがするやつに俺は会ったことがない」  真田の言うとおり、そんなことを言われたことは今まで一度もなかった。アルファらしくないアルファである真田が、遠矢を真っ当にオメガとしてーーつまり性的対象として見ているなど、ほとんど考えたこともなかった。 「……オメガのフェロモンほど強い香りじゃないけどさ、アルファだって相性のいいオメガにとってはいい匂いがするらしいぜ。お前、俺には何も感じない?」  言って、真田はずいと片手を遠矢のほうに差し出してくる。冗談めかすような言い方ではあるが、彼が至って真剣であることに遠矢は気づいていた。  何を馬鹿なことを言っているんだ、と受け流していいような雰囲気ではない。遠矢は先程の真田と同じように、手首の付け根あたりを嗅いでみた。 「どうだ?」  真田のいう通り、オメガというものは案外敏感にアルファの香りを嗅ぎ分けることができるものである。  アルファもフェロモンを出すことがあるというが、オメガほどその機会は多くない。こうして常識的な関わり合いのみをしている関係なら、それを嗅ぐことはほぼないはずである。彼らは気に入りのオメガのフェロモンを嗅いだとき、それを独占するためのマーキングとしてのみフェロモンを発するのだ。  それでも、オメガは友人や、同僚や、街ですれ違った見知らぬ誰かやーーあるいは家族にすら、時折心地のいい匂いのするアルファというものを見つけることがある。  オメガのフェロモンを嗅いだとき、理性をまるで失ってしまうというアルファは多い。ただ知性のない獣のように、がむしゃらにオメガを求めるのだ。そしてオメガもまた、アルファのフェロモンによって強制的に発情(ヒート)を引き起こされる。  けれどこうして平常時にオメガが感じるアルファの香りに、そのような効果はない。性的衝動が激しく呼び起こされるということはなく、そこにはただ、絶対的な安堵感だけがある。  帰るべき場所、自らの居場所を見つけられたような、ふっと体のすべての力を抜いてしまいたくなるような、不思議な充足をもたらす香り。  真田の匂いに何かを感じるかどうかは、正直遠矢にはよくわからなかった。あえていうなら、かつおだしの匂いがする。蕎麦の(つゆ)の匂いである。  けれど、間違いなく嫌な香りもしなかった。気に入った香りというものがあれば、どうしても性に合わない香りというものもあるものなのだ。 「……かつおだしの匂いがするな」 「はは、それ、蕎麦の(つゆ)の匂いだろ」 「うん……でも、嫌な匂いもしないよ」  遠矢は真田の方を向いたまま、後ろ手に背後にある食器棚の引き出しを開いた。不測の事態が起こった時のために、そこにはオメガ用の首輪が一つ忍ばせてある。  遠矢にヒートはない。毎日、抑制剤を飲んでいるからだ。けれどそうはいっても、本来ヒートが起こるべき周期に伴ってホルモン分泌が増減し、それと同時にヒート時と同じくとまではいかないほどの少量のフェロモンが漏れることがある。  オメガのフェロモンというものは、難儀なものでヒート症状が伴わなければオメガ自身にはほとんど自覚できないことが多い。ベータやアルファでも、自分の体臭には気づきにくいものだというから、それと同じような話なのではないかと遠矢は思っている。  十七歳の頃に家を出てから、遠矢はこのヒートを伴わずに漏れる微量のフェロモンのために度々トラブルを引き起こしてきた。  理性を丸ごと飛ばされるような強烈な発情でなくとも、わずかでも甘い匂いをさせているオメガというものは、アルファの心を乱す存在であるらしい。遠矢の匂いを嗅いだ彼らは大抵、ひどく()れ、苛立ち、そして勝手に遠矢もアルファである自身を求めているに違いないと決めつけて、行為に誘ってきた。  幾度かの失敗を繰り返したのち、遠矢はだんだんと自分のフェロモンが漏れる周期というものを把握できるようになった。現在では余計なトラブルを避けるため、そういった時期はあまり人と接する必要のない製造ラインに回してほしいと上司に頼むようにしている。  工場で働いているのは女性のベータとオメガのみなので、不慮の事故が起こる可能性は限りなく低い。長峰町にはオメガが多いだけあって、こういった要望に対する理解は深かった。  そして遠矢が長い休暇をとったのも、この周期が訪れるのを察したためでもあった。ずいぶんと前から、遠矢は自らの発情の時期を見越して、それに備えた行動をとってきたのだ。  つまり自身の現在の状況について、遠矢はよくよく理解していたはずなのである。  だから、自分が迂闊だったのだ、と思う。  こんな時に、仮にもアルファである真田を部屋に上げるべきではなかった。遠矢も何もものを知らない子どもではないのだし、こんな時期に密室に二人きりでは何が起きても文句は言えないように思える。  誘ったと思われたのだとしても、たぶん仕方がない。  遠矢は素早く首輪を取り付けると、真田の手を再びとった。  首輪をしていれば無理矢理に番にされる危険はなくなるが、自身がオメガであることを外見的に主張することにもなる。もともとオメガらしい見た目をしていない遠矢は、なにも言わなければそうと気付かれないことも多いから、普段はあえて首輪を着けずに過ごしている。  彼が首輪をするのは、間違いなくうなじを噛まれる恐れがある、今のような時だけだった。  遠矢は指を絡めるように手を握り、真田の目をじっとみる。 「俺は、番はいらない。でも、真田とならしてもいいよ」

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