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第4話

 遠矢は、たった一人で生きてきたオメガである。細心の注意を払いながら生活してきたつもりではあるが、それでも一人で出来ることには限度がある。  物理的な、あるいは立場的な強者になにかを強要された時、遠矢がそれに抗うすべはほぼなかった。  ようするに、過去にアルファに行為を求められたとき、遠矢はだいたいそれを拒めなかったのである。  相手が行きずりの関係で、それほど腕力もないような場合には逃げることも出来たが、アルファとして平均程度の身体能力を持っていて、遠矢と仕事や生活上の付き合いがあるような場合には、どうしても言いなりになるしかなかった。  遠矢は性的に奔放なたちではない。そうではないらしいということに、彼は行為を強要されて初めて気がついた。  愛しているわけでもない相手に抱かれることは、本当に身の毛もよだつような堪え難いことだった。気に入らない匂いのアルファなら、その苦痛はさらに大きくなる。  けれどいつしか、遠矢は割り切れるようになった。番にさえされなければそれでいい、と思うようになったのだ。  どうせ誰のものにもならない予定の身体なのだから、いっときの暮らしやすさの代償としてみじめに消耗しても、特に困ることなどなにもないーーそう思って生きることにした。  真田のくっきりした二重の目が見開かれる。ひどく驚いているような、動揺しているような様子だった。  アルファである真田に睨めつけられた時点で遠矢はすっかり逃げ場を失ったような気分でいたが、もしかしたら真田は遠矢にそこまでを求めていたわけではないのかもしれない、と思う。  真田は常から紳士的な男だし、本当にただ対等な取引として番関係を結ぶことを提案しただけのつもりだったのかもしれない。  けれど理性でそう思っていても、おそらく彼はどうしようもなく苛立っているに違いなかった。オメガである遠矢が、彼の思い通りにならないことに。単純にアルファとして、真田は遠矢を強く求めている。  真田のことはこれまでいい同僚だと思ってきたし、彼と工場長は縁戚だという。無理に拒絶して、関係を損ないたくはないと遠矢は思った。  これまで各地を転々として暮らしてきた遠矢だが、長峰町はそのうちでもとくに生活がしやすい。人間関係を拗らせて、また引っ越すことは避けたかった。 「まだ少し時間あるだろ。首、噛まないなら、なにしてもいいけど」  唇をなめて言うと、真田が静かに席を立った。手を繋いだままだったため、腕を引っ張られて足を縺れさせながら遠矢も立ち上がると、真田が腕を引いて胸に抱き込んでくる。そしてそのまま、数歩先のソファまで引きずるように連れて行かれ、仰向けに押し倒された。  朝、シャワー浴びといてよかった、と思う。真田ならそれほど手荒なことはされないように思うので、いつものように適当に誘って適当に出させて、さっさと終わりにしよう――面倒な仕事にとりかかる前のような気持ちで、ただ淡々と考える。  肩をつかむ真田の手のひらの熱さとは正反対に、遠矢の思考はひどく冷めていた。遠矢を見下ろす真田の視線も、依然ひどく熱っぽい。怒っているようにも見える無表情は、あるいはひどく緊張しているがゆえのものなのかもしれなかった。  遠矢は、彼の両手がかすかに震えていることに気付いた。  ふと、おのれが真田にひどく不誠実なことをしているような気になってくる。  真田が普段どのように性処理をしているかなど遠矢の知ったことではないが、彼は見るからにこういった行為に慣れた様子ではなかった。適当なオメガをみつくろって遊ぶと言うことも、あるいは現在交際している相手というのもいないのかもしれない。  真田は、アルファとしては相当に初心で一途な人間なのかもしれなかった。それを今、遠矢は踏みにじろうとしているのかもしれない。 「……お前のここ、噛んじゃ駄目?遠矢」 「それは……駄目だって。止めろ、真田」  鼻を擦り付けるように、真田が首もとに顔を埋めてくる。両手は行き場を探すように遠矢の体の輪郭をなぞったあと、肩のあたりに回されてぎゅうと強く抱きしめられた。 「ああ……甘いな、」 「おい、無駄だぞ。首輪してるんだから」 「噛まないよ。遠矢の許しを得ずに噛んだりしない……お前さ、誰にでもこんなことさせるの?」 「あっ……おい、真田!」  突如、百合の花のように華やかな香りが漂い始めた。おのれの意思とは関係なく、頭蓋の奥にある本能が引きづられて、身体が勝手に熱くなる匂い。  真田がフェロモンを発しているのに違いなかった。  遠矢とこれまで行為に及んだアルファも、ほとんどがこうしてフェロモンを香らせた。首を噛むことで所有を示すことが出来ないフラストレーションを、マーキングによって紛らわせようとしているのではないかと遠矢は思っている。  抑制剤のために本格的なヒートを引き起こすことはないものの、それによって多少は発情させられるのには違いがない。  この場の主導権を譲り渡してしまうのが、遠矢は怖かった。思わず両手をつっぱって真田の体を押し退けようとするが、逆に手を掴まれ押さえつけられてしまう。 「大丈夫。噛まないし、なにもしない。護身用に、匂いつけるだけだから」 「……は?」 「お前さ、こうでもしなきゃ身を守ることが出来なかったのかもしれないけど……お前こそ、自分をもっと大切にした方がいいと思うぞ」  ごく近い距離で真田に見つめられる。切実で、相変わらず苛立ちに近いものが透けて見えるが、なんだか悲しそうな目をしていた。 「いつかたった一人に出会うときを待てっていうけど……俺、運命なんか信じてないんだよ。最初から誰にでも用意された運命が存在して、それに黙って従ってりゃ自動的に幸せになれるなんて都合がいいこと、あるわけ無いと思わないか」  どこかで聞いたことのあるような台詞だと思った。同時に、つまり真田はこれまで運命に出会ったことがないということなのだろう、とも思う。  フェロモンを発している時、アルファが身体的にどのような状況になるのか遠矢は詳しいことをよく知らないが、きゅうと眉の寄せられた真田の表情をみる限り、何かを必死に堪えているような様子に見えた。  肩に回された手に込められた力も、徐々に強くなっていく。鼻先に肉をぶら下げられたまま待てを強いられた獣みたいに、真田は本能に抗っているのかもしれなかった。必死に自らを制しながら、彼はただ遠矢を守るためだけにフェロモンを匂わせているのだ。 「相手を想い続けられるかも、幸福な関係性を築けるかどうかも、結局は当人の努力次第だろ。運命っていうのはさ、覚悟を持って作り上げるものだと俺は思うんだよ。『運命』を見つけるんじゃなくて、『運命にする』んだ。……だからさ、現実に目の前にいる俺のこと、とりあえず番の候補として考えてみてくれないか?お前、今まで俺をそういう対象として見たことなかっただろ」  苦しげな顔をしながら、それでも真田は笑みを浮かべてみせる。肩から何とか引き剥がすように彼の片手が外され、大げさに震えるそれで優しく頬を撫ぜられた。  真田のフェロモンは、やはりけして嫌な匂いはしなかった。それどころか、順調に発情が煽られているところをみると、もしかしたらかなり相性がいい方なのかもしれない、と思う。  真田の言っていることは、遠矢にとってはあまりにも真っ当で健全だった。遠矢のように卑屈に自分を切り売りしてきたオメガに、愚直なくらいまっすぐに誠意を示そうとする姿勢も含め、眩しすぎて真田を直視できない気がするくらいである。  そしてそうして誠実であるためだけに、真田はオメガである遠矢の前で被食者のウサギみたいにぶるぶる震えているのだ。なんだかひどく滑稽に見え、けれど同時にとてもいじらしいと思った。  あどけない子猫を愛おしむみたいな感情が、胸の奥から湧き上がってくる。それは性欲とは遠いところにある感情のように思えるのに、どうしてか遠矢の発情をさらに煽った。どんな方向性であろうと、真田に対して抱いた好意的な感覚はすべて欲情に繋がってしまうような状況に陥っているらしい。  両手では数え切れないくらいの数のアルファと関係を持ったことのある遠矢ではあるが、このように相手にはっきりとした好意を抱いたまま体を重ねたことはこれまでただの一度もなかった。今まではもっと、ただの義務のようなものでしかなく、常に苦痛が優っていたのだ。  まずい、と思った。これはとてもまずい。  全ては真田の『いい奴』さを甘く見ていたおのれの落ち度だと遠矢は思った。 「あ、あの……俺さ、真田」 「返事は今すぐじゃなくていい。今日のところは、俺のことを少しは意識してくれればそれでいいから」 「いや、……真田の言う通りだとは思うんだ、運命であるということと、幸せになれるかどうかは、全く同義じゃない。でも、」  続きの内容を何となく察したのだろう。言葉を継ごうとした遠矢の口を塞ぐように、真田が唇を重ねてくる。  『なにもしない』と言ったくせに、今少しでも色めいた触れ合いをすれば、真田も自分も歯止めが効かなくなるだろう予感を遠矢は感じていた。最後の力を振り絞ってなんとか真田の身体の下から抜け出そうとするが、するりと口内にもぐり込んできた柔い舌に上顎をくすぐられて、あっという間に力が抜けてしまう。  キスは駄目だった。単なる行為としての口付けならいくらでもしてやるが、相手を確かに好ましいと思いながらするそれは絶対に駄目だ。しかし本能というのは厄介なもので、発情に素直に焚きつけられたキスは、心情とは無関係に単純にとても気持ちがいい。  思わずくぐもった喘ぎを漏らすと、それに煽られたように真田が服の隙間から腹に手を差し込み、両手で撫で上げるように脇腹に触れてきた。  このまま『なにもしない』で済むとはとても思えない状況である。真田の手のひらは、依然たまらなく熱い。  遠矢は相変わらず胸騒ぎを感じていた。喉をぎゅうと絞められるような、酸素を少しずつ奪われるような苦痛を伴う胸騒ぎ。それはやはりこの男がもたらしたものなのだろうかと、真田の顔をもう一度見つめる。この男を不用意に誘ったばかりに、うっかりこんな気持ちでアルファと身体を重ねるはめになってしまったから、だから朝から悪い予感が―― 『遠矢!』  その時である。遠くで、誰かが名前を呼ぶのを遠矢は聞いた。  同時にインターフォンが鳴った。それも普通の鳴らし方ではなく、一度目が鳴り終わる前に次が鳴り、さらにそれが終わる前に次が鳴り響く。マシンガンの引き金を引くみたいに、呼び鈴を連続して押し続けている誰かが外にいる。  真田はぴた、と動きを止めた。熱に浮かされたようだった表情に徐々に冷静さが戻り、訝しげに遠矢を見つめてくる。一体誰だ、と視線で尋ねてくる真田に、しかし遠矢は一言も返すことができなかった。  震えていた。カタカタと奥歯が鳴り、強く噛みしめるが、それでも収まらない。体の奥深くに羽虫か何かを埋め込まれて、それが勝手に暴れまわっているかのようだった。  ――違う。胸騒ぎの原因は真田ではないことに、遠矢はやっと気がついた。先ほどからそれが酷くなっていたのも、真田に触れられたためではなく、単純にためだったのだ。  初めに胸騒ぎを感じた朝のうちにでも、すぐさまこの町を出ているべきだったのだと遠矢は深く後悔していた。  こんなに近くまで来られては、もうけして逃げられないではないか。 「おい、どうした?お前、震えてるぞ」 「……真田、悪い。今すぐ出て行ってくれ。玄関は無理だから……そ、そこのベランダから」 「は?いや、この部屋三階だぞ。外にいる男は誰なんだよ?もしやお前……彼氏、いたとか?」  その『外にいる男』は、呼び鈴を押すのをやめて今度はむやみやたらにドアを叩き始めている。遠矢、そこにいるんだろ。男が叫ぶように言う声が聞こえた。  かつて知っていた頃とは大分違う、けれど聞き馴染みのある声だった。それが間違いなく今遠矢の名を呼んでいると言うことに、涙腺が勝手に緩んでくる。 「彼氏なんかいない。外にいるのは、……外にいるのは……」 「ちょっ…なんで泣いてるんだよ。もしかしてお前、誰かから逃げて長峰に来たのか?そいつにみつかって、家まで押しかけてきたってことか?」  肯定すべきか否定すべきか迷ってまごついていると、真田が『俺が話をつけてやる』と言って立ち上がった。必死に止めようとしたが、遠矢の抵抗を外の男を恐れてのものだと思い込んでいるらしい真田は、お前は心配しなくていい、などと口走りながら玄関に向かって行ってしまう。  遠矢はもう手遅れであることを察し、自分一人でもなんとか逃げなければならないとベランダに駆け寄った。しかし、真田の言う通りこの部屋は三階にある。ベランダに災害時の避難用の折りたたみハシゴは備え付けられているが、そんなものを取り出している時間的余裕はまるでないので、どう考えても飛び下りるしか方法はなかった。  けれどこの高さから落ちれば軽く済んで捻挫、最悪なら骨折する。打ち所が悪ければ、もっと酷いことになる可能性だってある。例え階下に降りることに成功しても、そんな怪我を負ってはそれ以上逃走することは不可能である。  けれどそれでも、今は少しでも遠くに離れなければ――、 「遠矢!」  ベランダの柵に片足をかけていた遠矢の腕を誰かが力強く掴んだ。真田ではない。声も、触れる指の感触も、この世の誰とも違っているから、遠矢にはすぐにわかる。 「一体、どういうことなんだよ」  背後で困惑したような真田の声が聞こえた。彼は玄関を開けたのち、あっさり男の侵入を許したらしい。  遠矢は、恐る恐る振り返った。 「なんでこいつが、ここにいるんだ」  真田が疑問に思うのも致し方ない。遠矢自身も、今まさに彼がこうして目の前にいることをまるで信じられない気持ちでいるから。  そこには、画面の中ではおよそ見たことがないような、憤怒の表情をした暮火光秀が立っていた。

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