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第5話

 光秀に、なにかをしてやりたい。  十七の頃まで、遠矢はいつでもそればかりを考えて過ごしていた。  初めて会ったとき、光秀はまだたった四歳だった。  くるくると弧を描くやわらかそうな巻き毛と、宝石のように煌めく大きな碧の瞳。蝶の羽ばたきのように上下するガラス細工のようなまつ毛に、紅を刷いたように健康的な色をした丸い頬。光秀を初めて見たとき、遠矢は果たしてこれは本当に同じ世界に生きている生き物なのだろうかと訝った。  それほどに美しくて、愛らしい子どもだったのだ。  光秀を見るなり――初めて対面したその瞬間から、遠矢は漠然と彼になにかをしてやりたい、と思うようになっていた。  具体的に、なにをしてやるべきなのかはさっぱりわからない。けれどなにか、遠矢だけが光秀にしてやれることがきっとあるに違いないと、初めからそれだけは強く確信していた。  遠矢の生まれた暮火(くれこ)家は、維新後すぐから銀行業を営む所謂歴史ある名家である。  元を辿れば華族の家系であるためか、血統や第二性には並々ならぬこだわりがあり、家業を継ぐことが出来るのはアルファの子のみと決められていた。  遠矢の父も当然ながらアルファであり、母もまたアルファである。けれど、その間に生まれた遠矢はオメガだった。  暮火において、オメガ性の子が出生するということは全くの恥と見做される。アルファを出産する確率が最も高いのはオメガであり、またアルファもベータに比べればオメガを出産する確率が非常に高いことを考えれば、アルファばかりの家系にオメガが生まれることも、また嫡子の出生にオメガが関わることもありふれてあることである。なのにも関わらず、暮火は徹底的にオメガを忌避する一族だった。  つまり、遠矢は暮火にとって生まれつきの欠陥品だったのである。オメガにもオメガなりの利用価値があるため、追い出されることまでは無かったが、遠矢は表舞台に出ることを一切許されない存在だった。  そしてその出来損ない遠矢の『代わり』として用意されたのが、光秀だった。愛人に生ませたアルファの子だと言って、ある日父が暮火の邸宅に連れてきたのだ。  父にはまるで似ていなかったが、実子であることは間違いがないらしい。光秀の母がどこの誰であるのかは一切語られることは無かったが、父が気まぐれに番にでもしたオメガなのだろうと暗黙のうちにみなが了解していた。  暮火に来た頃、光秀はいつでも笑っている子どもだった。産みの母から引き離されたばかりだというのに、けして不安そうな顔をみせることはない。赤ん坊がする生理的微笑に似た、この世の全てを祝福してみせるような穏やかな笑みを浮かべ、周囲の大人すべてに人懐こく甘えてみせていた。  そしてそれは、遠矢に対しても同じだった。初めて引き合わされた時、光秀はもとから顔見知りだったかのように遠矢に駆け寄り、両手を広げて足元に抱きついてきた。 「とーや、すき」  舌ったらずに言って、満面の笑みで遠矢を見上げてくる。衝撃的な可愛らしさに、しばらく遠矢は呼吸も忘れた。  呆然と光秀を見下ろす遠矢を、光秀もじいと見返してくる。その溢れそうに大きな瞳を見つめるうち、遠矢はふと、光秀がとても不安なのだということに気がついた。  その振る舞いとは裏腹に、大海原にひとりきり放り出されたような心細さを抱え、おのれを庇護してくれる誰かを必死に求めている。かつそれを悟られないよう振る舞わなければいけないことをよく理解しているくらい、賢い子なのだということにも。  その頃、遠矢を産んだ責任を押しつけられ、遠矢の母はすでに離婚させられて暮火の家を出ていた。父の方はといえばまるで遠矢に関心などなく、顔かたちも忘れてしまうほどほとんど会うことすらもない。父や光秀は暮火の邸宅の本邸に暮らしていたが、遠矢は暮火のアルファが囲うオメガの妾のために用意された離れに一人で生活していた。周囲に数人の使用人はいたものの、遠矢はいつもひとりぼっちで過ごす子どもだった。  けれど、遠矢は寂しいとかつらいとか、感じたことが一度もない。誰かに必要とされているという実感を持つこともなく、その場に存在していても良いのだという確信さえ持つことができなかったが、遠矢はけして不満も弱音も口にすることはなかった。  べつに、我慢強かったわけでは全くない。あまりに幼い頃からずっとそんな有様だったので、それがおかしなことであるとか、悲しいことであると感じ取るための器官すらまともに育っていなかったのだろうと遠矢は思っている。  しかしその日、遠矢はおそらく光秀の中に自己をみた。  孤独に不安を感じ、庇護を求める心が自分の中にもあるということに、遠矢は光秀に出会って初めて気がついた。そういった形をした痛みがこの世に存在することを、遠矢は光秀によって教えられたのだ。  そしてそう気づくと同時に、それをたまらなく痛ましく感じた。自分自身の苦しみなどどうでもいいことのように思えたが、幼く愛らしい光秀が同じものを抱えているということは耐え難く悲惨なことのように思えた。なぜこんなひどい目に遭わせるのかと、暮火や、父や――あるいは『世界』といった漠然とした大きなものに対してまで、強い憤りを覚えたくらいに。  この子になにかをしてやりたいと、遠矢はそのとき強く思った。  光秀はできるかぎり、常に幸せで満たされているべき子どもなのに違いないのである。だからそのために、遠矢はどんなことでもしてやらなければいけないと思った。  それから、遠矢は光秀と許される限りの時間をともに過ごし、できるかぎりの全てのことをしてやった。  とは言っても、遠矢は光秀と世間一般の家族のように近しい存在になることを許されていたわけではない。暮火の汚点でしかない遠矢に対し、光秀は正式な後継である。遠矢が光秀の『兄弟』らしく振る舞うなど、けして許されはしないような雰囲気があった。  けれど、遠矢には光秀の遊び相手としての役割のみは期待されていた。光秀に引き合わせてもらえたのも、単純にその当時の暮火には光秀の遊び相手になるような子どもが他にいなかったためだろうと遠矢は思っている。  そしてそれだけ許されているのなら、遠矢にとっては十分だった。そばにいることさえ出来るのならば、光秀のためにしてやれることはいくらでもあったからである。  遠矢は光秀に絵本を読んであげたし、公園に遊びに連れて行ったし、嫌いなにんじんを代わりに食べてやった。夜中に手洗いに行く時はついて行ってやったし、時には一緒に寝てやった。光秀が孤独を、不安を感じていることを察すれば、その作り物のように小さな手のひらをいつまでも握っていてあげた。 「とーや、ぼくとずっと一緒にいてくれる?」 「うん、俺は光秀と一緒にいるよ」 「……どうして?どうして一緒にいてくれるの?」  遠矢の感じとった通り、光秀は内心に不安を隠していたらしかった。彼は相変わらずいつも笑っている子だったけれど、親しくなるうち時折普段は見せない顔を見せるようになった。  遠矢のように存在そのものを疎まれるのとは状況は違うだろうが、それでも純粋な愛情だけをもって光秀と接しようとする大人は彼の周囲にはたぶん誰もいなかった。何不自由なく望む物を全て与えられても、ちやほやと褒めそやされても、誰も本当には自分に興味はないのだというような実感が光秀にはあったのかもしれない。  不安をあらわにする時、遠矢が子供騙しのように優しい言葉をかけても、光秀は簡単には納得することができないようだった。いくら愛情らしいものを示されても、その存在をすぐには信じることが出来ないのだ。  普段は見えないところに隠されている光秀の不安は、存外深く、暗いもののように思えた。 「……それは、光秀がいい子だから。俺は、光秀が大好きなんだよ」   言いながら、幼児特有の細くやわい髪の毛を撫ぜてやる。光秀が安心できるように、できるだけ優しく。  すると光秀は、やわらかそうな頬を赤らめて嬉しそうに言った。 「ぼくも、とーやがすき」  不思議なことに、光秀が嬉しそうだと遠矢も嬉しくなる。もしかしたら当たり前のことなのかもしれなかったが、遠矢にとっては初めての感覚だった。愛する誰かが幸福ならば同じように幸福になり、不幸ならば同じように不幸になること。  遠矢は本来感情でも感覚でもおそらく人並み外れて鈍感で、常に感覚器官の全てに薄膜か何かを一枚か二枚張ったかのようにぼんやりとしている。暮火にオメガとして生まれた時点で、この世に生を受けたことからして過ちのように扱われる生い立ちだったので、その鈍感さは自分にとってはむしろ幸運だったのだろうと遠矢は思っている。  けれど光秀とともにいるだけで、遠矢の感性は全てがひどく鋭敏になるのだった。光秀に触れると遠矢の指先は幸せのために痺れたし、光秀の抱いている感情はなにか回路でも通じているみたいに遠矢の心にも響いた。抱き寄せればすっぽりと腕の中におさまってしまう小さな体からは、この世の良いものを全て寄せ集めたような甘い匂いがした。  遠矢にとってこの世界の価値とは、光秀そのものの価値と同じ意味だった。  つまり結局のところ、光秀のそばにいること――彼に『なにかをしてやる』ということは、本当は光秀のためというよりは、全て遠矢の幸せのためなのではあるまいか。実際、光秀とともにいるだけで、遠矢はいつでも最大級の幸福に満たされているし。  ――では本当に、心底光秀のためだけに出来ること、彼のためにしてやれることとは何だろう。  遠矢はいつでも、そればかりを考えていた。光秀に幸福を与えてもらうばかりで、彼に何かをしてやれていると言う実感がもてない。自分のしていることが光秀にしてやるべき最善のことだとは、遠矢にはどうしても思えずにいた。  けれど相変わらず、遠矢は光秀に何かしてやれることがあるはずだと強く信じてもいた。自分たった一人だけにできる何かが、きっとあるはずだと。光秀が切実に必要とするような何かを、きっとおのれはいつかこの子に贈れるはずなのだと。  けれどそれがなんなのかは、ずっとわからないままだった。

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