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第6話

 光秀が小学校に上がる頃になると、二人の関わり方は少し変化した。  と言うよりも、遠矢があまりに光秀に構い過ぎたがために、変化させざるを得なくなった。  相変わらず遠矢は光秀の側にいられるだけで完璧に幸福だったので、光秀の世話を許される限り焼き続けていたい気持ちでいた。けれどついに、それを暮火家に問題視されるようになってしまったのだ。  遠矢さんは光秀様のおかあさまのようですね、とかつて遠矢は使用人に言われたことがある。  言葉通り、まるで母子のように仲睦まじいので見ていて微笑ましい――と言った意味では全くなく、まるで実の子でもあるかのように溺愛する姿が気色が悪い、オメガの分際で立場を弁えていないのではないか、もしや色目でも使っているつもりなのでは――と言った意味の、ようするに純然たる嫌味である。  遠矢は、二次性徴を迎える年頃になっていた。思春期になるまで第二性はほぼ存在しないようなもので、どの性であってもフェロモンを発することも感じ取ることもできない。二次性徴が発現する時期から成人するまでの間に、アルファやオメガはその特異な身体的機能のすべてを備えていくことになるのである。  つまり遠矢は、すでに暮火にとってオメガとして警戒される存在になってしまっていたのだった。まだ幼い光秀と遠矢が現実的にどうにかなるとまでは思われていなかっただろうが、次第にオメガとしての自覚を芽生させていくであろう遠矢が、アルファの光秀と関わること自体に暮火という家は嫌悪感を覚えているらしかった。  側にいるだけでも悪影響であると父や使用人たちは考えていたらしく、遠矢は光秀と手を繋いだり、ましてや共寝をするようなことは全く許されなくなってしまったし、そもそも顔を合わせるのすら難しくなってしまった。  光秀に、もう会えない。遊んでやることも、触れ合うこともできないのだと思えば、遠矢の胸は刃物か何かで突かれたみたいに痛んだ。けれど同時に、遠矢は潔すぎるくらいにあっさりとその決定を受け入れてしまってもいた。  オメガがいかに忌まわしい性であるかは生まれてこの方散々言い聞かされてきたし、遠矢がその性を持って生まれたために実際母が不幸になるのもその目で見てきた。生理としてのオメガ性というものはまだ理解しきれずにいたが、自身がろくでもない存在であり、そのろくでもなさは他人さえ巻き込むものであるということを遠矢はすでに身に染みてよくわかっていた。  だからおのれの性が理由にされることは彼にはごく正当なことであるように思えたし、美しく愛らしい光秀を父や使用人たちが積極的に守ろうとしているというのなら、それはむしろ喜ぶべきことだとすら思った。  光秀をオメガのろくでもなさに巻き込むリスクより優先させるべきものなどあるはずがないので、遠矢は初めからすべてをただ仕方のないことだと思って諦めていたのである。  しかしどうやら、光秀のほうはそうはいかなかったらしい。いくら天使のような良い子だとはいえ、大人のよくわからない事情で遊び相手を突如取り上げられた理不尽さを、まだ幼い光秀は受け入れることができなかったのだろう。  しばらくが経った頃、彼は遠矢のもとを訪ねてくるようになった。使用人に寝かしつけられた後、こっそりベッドを抜け出して、光秀はたった一人離れの遠矢の部屋までやってくるのである。  初めのうち、遠矢はすぐに帰るよう言い聞かせていた。時には多少きつい言葉を使って、絶対に来るなと言いつけたこともあった。けれどそのたび、遠矢に嫌われたと勘違いしたらしい光秀は取り乱してひどく泣くのである。  泣く光秀を見ていると、遠矢は当然同じようにとても悲しくなったし、光秀を泣かせるおのれが酷く邪悪なものに思えて率直に死にたくなった。結局、光秀の涙より重いものなどこの世には存在しないのではないかという結論に至り、遠矢は光秀が会いに来ることを黙認するようになった。    遠矢の部屋は離れの一階、よく整えられた日本庭園に面した窓際にあった。暮火の邸宅内にはいくつかの庭園があり、本邸の周りを取り囲むのは西洋風の庭園だが、離れや来客用の別邸の周囲には豪奢な日本庭園が設えられていた。  十畳ほどの自室にはささやかながら縁側があり、籐の椅子がひとつ置かれた広縁もある。そして光秀は、毎日灯篭の明かりを頼って庭園を歩き、その縁側から遠矢を訪ねてくるのだった。 「遠矢、遠矢。入れて」  ガラス戸を叩くこつんこつんという音のあとに、光秀が囁く。この戸の鳴るささやかな音が、遠矢は好きだった。光秀がやってくる時間になると、いつでも必要以上に耳を澄ませて、遠矢はこの音を聞き逃さないように気を付けていた。 「よく来たね。光秀、今日もいい子にしてた?」 「うん。給食も残さなかったし、宿題もお風呂の前に全部終らせたよ」 「そうか。偉かったね」  抱き寄せて頭を撫でる。光秀は日々確実に成長しつつあったが、けれど遠矢も同じように成長期だったため、相変わらず彼の身体は腕の中に収まってしまうくらい小さいままだった。  それをぎゅうとすると、温かくて、やはり甘い匂いがする。光秀を抱きしめるたび、遠矢はいつも、生きていてよかった、と思った。  しかし同時に、どうしてか胸がざわつきもした。安らぎと幸福だけをもたらしてくれていたはずの光秀の匂いは、夜に二人きりで会うようになってからというもの、次第によくわからない情動を呼び起こすものに変化しつつあった。  罪悪感や不安感にも似たその感覚を、遠矢は父たちの言いつけに背いて光秀に会っているがためのわだかまりが産むものだと結論付けていた。 「はい、今日はどれがいい?」  光秀を部屋にあげ、籐の椅子に座らせる。そして彼の前にかしずくと、遠矢はいつも膝の上に菓子箱を開いた。パステルカラーのマカロンや、ギモーヴ、様々な柄や形をしたボンボンショコラ、サブレやクッキー。色とりどりのそれらが、ぎっしりと美しく収められた箱である。  どれも一流の職人が作った宝石のような菓子ばかりだった。暮火に出入りしている百貨店の外商に、美味で、ぱっと目を引いて、いかにも子どもがよろこびそうな、一流の菓子が欲しい、と頼んで用意させたものである。  この頃も、やはり遠矢は光秀に何をしてやれるだろう、とばかり考えて過ごしていた。  以前と違い、ほんの数十分だけともに過ごせるだけなので、光秀にしてやれることはほとんどなにもなくなってしまった。せいぜい話し相手になって、日々を品行方正に生きている光秀を褒め称えてやることくらいしかできない。  だからなにか、せめて贈り物をあげられないかと遠矢は考えた。わざわざ遠矢を訪ねてきてくれる彼に、すこしでもお礼をしたかったのである。  『今日一日をよい子で過ごしたご褒美』という名目で。遠矢は毎日一つだけ、光秀に菓子を選ばせた。 「昨日の。昨日のチョコと同じやつは、もうないの?」 「形は違うけど、これが確か同じ味だよ」 「よかった。それね、すっごく美味しかったの。遠矢も食べて」  言って、光秀は拾い上げたボンボンショコラを遠矢の口元に差し出してくる。  チョコレートから匂うものなのか、はたまた菓子箱か、それとも間違いなく差し出された光秀の指先が香るのかはわからないが、彼のほうからはやはり甘い匂いがした。 「俺は、別にいい。この箱に入っているお菓子全部、光秀のものなんだよ」 「……本当?本当にぼく以外には、誰にもあげない?」 「ああ。この部屋には光秀しか訪ねてこないし、これは光秀のためだけに用意したものだから」 「そっか。じゃあ、ぼくが遠矢にあげる。ぼくの今日のご褒美は、遠矢のだよ」  光秀に促されるまま口を開くと、チョコレートがぽんと投げ込まれる。感想を求めるように見つめてくる光秀に本当だおいしいね、と答えると、彼はうれしそうに笑った。  光秀の指先には、子どもの高い体温のために溶けたチョコレートがわずかに付着してしまっている。彼はそれに気付くと、なぜか再び遠矢のほうに指を差し出してきた。  ついちゃった、舐めて、とあどけなく言う光秀に、遠矢は硬直する。  遠矢は光秀の口元についていた米粒を取ってやるついでに口に入れたことがあるし、切り傷のできた指先を舐めたこともある。そういったふれあいはそれこそ母子のそれのように当然に行われてきたもので、今のこれにしても光秀にとっては同じようなことなのだろうと思う。  けれど、遠矢にとってはもう違った。なにがどう違うのかはよくわからないが、もうそれは出来ない、と思う。不潔だからとか、そんな扱いをしていいほどもう光秀は幼くないからとか、そんな理由では多分無い。  ただ、目の前の光秀の細く真っ白い指先がたまらなく甘そうに見えて、それが今おのれにという事実に、押しつぶされそうなほど胸が苦しくなっている。  そして、そう感じる遠矢自身が、なにかとても汚いものであるかのように思えた。 「……駄目だ、ちゃんと拭きなさい」 「やだ。舐めて」  光秀は拒絶されるということに敏感なたちのようで、例えしつけや助言のつもりであっても、言い方を誤ってしまうと頑なに何も聞き入れなくなってしまうことがある。このときも遠矢の声色が硬すぎたせいか、意固地になってしまっているような気配があった。  唇に触れそうなほど指を近づけられ、遠矢は観念してちろりと舌を出した。ささやかに汚れていた箇所をそっと舐めとると、光秀はくすぐったそうに笑い、満足そうに言う。 「いいこ」  汚れていないほうの手で頭を撫ぜられる。上から下に、遠矢が光秀にするのと同じように。  触れられた瞬間、わけのわからない感慨が頭の先から身体を突き抜けていくのを遠矢は感じた。肌をざわめかせ、胸を締め付け、血を湧きたたせるなにか強烈なもの。  知らない感覚だった。一度も味わったことはないし、名称も知らないし、存在すらよくわからない――そう思うのに、同時にそれはずっと遠矢の胸の奥底にしまわれていて、導火線のついた爆弾のように火の(とも)されるのを待っていたのではないだろうかという気もした。  幼い光秀に出会ったとき、足元に人懐こく抱きついてきた彼と目が合った瞬間から、遠矢の中に仕掛けられていたのかもしれない、時限式の『なにか』。  それが何であるのか、遠矢にはわからない。わからないまま、ただ不安だった。  光秀と触れ合うことはすべからく幸福な行為だし、頭を撫でられて感じた知らない感覚もまた、多分遠矢にとっては幸福としか名付けようのないものである。  けれど果たしてそれが『良いもの』であるのか――あるいは『正しいもの』であるのかと聞かれれば、全くそうではないような気がする。胸を揺るがすものはたまらなく甘いのに、同時に何か悪いことをしているような気がずっとするのだ。  後ろめたさが、心臓を掴んで離そうとしない。それは光秀と二人きりで会うようになってから感じるようになった罪悪感と同種のもので、かつ、いくら時間が経っても無くなることはなかった。 それどころか、時が過ぎれば過ぎるほど、増していくように思えた。  

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