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第7話

 遠矢がそうしてよくわからない感覚に振り回され続けているうちも、光秀はすくすくと成長し続けた。幼児らしく丸みを帯びていた頬はいつのまにか脂肪が落ちてすっきりとし、子どもの愛らしさが削がれたぶん、彼がおそろしく均衡のとれた顔つきをしていることがますます良くわかるようになった。  その頃から、遠矢は光秀をただ見ているだけで、どうしてか時たまどうしようもなくするようになってしまった。  光秀に名前を呼ばれて微笑まれるだけで、心臓が故障したように倍速で鼓動をはじめるのである。そうなると遠矢はもうとても光秀を直視することはできないような精神状態になり、振る舞いのすべてがひどく不自然になる。  やはりなにか後ろめたいような心地がして、けれどどうしてかたまらなく幸福であるような気もする。逃げ出したいような、けれどそのくせずっと光秀の側にいたいような、ひどく矛盾した不可解な気持ち。  なぜこんな正気を失くしたような有り様になるのだろうと悩んで、遠矢は思った。きっと光秀があまりに美しすぎるためではないだろうか、と。かなり真剣にそう思っていた。  光秀の前に立つとき、人間はだれしも彼の現実離れした美しさに感服し、心を震わせ、冷静さを失うに違いないのである。  というか、そうであるべきだと遠矢は思っている。光秀の価値の前に、人はすべからく常に心を動かし、敬意を払うべきなのだと。  しかし難儀なのは、そのように他者に敬意を払われること――つまり挙動不審に振舞われることが光秀自身にとって喜ばしいことであるかといえば、けしてそうではないような気がすることだった。  光秀が他人に拒絶されることを敏感に厭う性質(たち)であることを考えれば、彼の前であまりおかしなふるまいをするのは良くないと思う。もしかしたら、単純に光秀を恐れたり、嫌ったりしているように見える可能性もあるからだ。  だから遠矢は極力、光秀の前では内心の動揺を隠し通して過ごしていた。というか正確には、『隠し通さなければいけない』と常に自身に言い聞かせていただけであって、実際隠せていたかどうかはかなり怪しい気がしているのだけれど、とにかくそのように心がけていた。 「遠矢、どうして赤くなってるの」  身長が伸び、いつの間にか遠矢とずいぶん目線の近づいた光秀に、微笑まれながらそのように聞かれたことは何度もある。相変わらず光秀は幼児のころと変わらない距離感で、いつでも簡単に遠矢に触れたり抱きついたりしてきた。  そのたびにびくりと身体を震わせそうになるのを必死でこらえようとして、結局こらえられたりこらえられなかったりしている遠矢を見て、光秀はなぜかいつも楽しそうにしていた。どうしたの、遠矢、恥ずかしいの。幼児をあやす様な声色でそう言って、からかうみたいによりいっそう遠矢に顔を近づけてきたりするのである。 「……ち、違う。気のせいだ、そんなことないよ」 「本当に? 耳まで真っ赤になってるのに。……遠矢、かわいい」  ずいぶん成長したとはいえ、年齢的にはまだほんの子どもだというのに、そんなことを耳元で囁いてくる光秀はなんだかひどく大人びて見えた。生来の美しさにさらに絵筆で別の色を乗せたように、得体のしれない魅力がぱっと弾けるように遠矢には感じられた。  『かわいい』のは、光秀のはずだった。正確にはかわいいというよりはきれいだと思っているが、何にしろ対象の魅力を讃えるような形容詞は、そのすべてが光秀に与えられるべきものだと遠矢は思っている。だからよりにもよって光秀がおのれにそんなことを言うのは、あまりにおかしい。なにかのひどい間違いであるとしか思えない。  しかしそんな反論を口にする余裕などまるで持てないくらい、謎の魅力をはじけさせる光秀を前にして遠矢はいつでも簡単に正気を見失ってしまうのだった。  胸がたまらなく苦しくなり、何だか猛烈に恥ずかしい。そして同時に、光秀がいつも以上にきらきらと美しく見えて仕方がなくなる。視界の端に姿を捉えることすら、難しいと思えるくらいだった。  そんなある日、一つの小さな事件が起こった。遠矢は唐突に、光秀にあることを聞かれたのである。 「遠矢は、『運命』って信じる?」  珍しく日が落ちたばかりの時間に遠矢の部屋を訪れた光秀は、雨戸の開け放たれた縁側にぴょんと腰かけるとそう訊ねてきた。  けれど彼が何を言っているのか、遠矢にはほとんど聞こえていなかった。なぜかといえば、全く別のことに意識を囚われていたためである。  光秀が、怪我をしていたのだ。彼の右頬に、紫がかった痛ましい痣が出来ていた。それにすっかり視線も思考も奪われていたのだ。  遠矢にとっては、見慣れた色かたちをした痣だった。遠矢は顔や身体に傷がつくことがないよう注意を払われて育ったが、頬を叩く程度ならば永久的な痕が残ることはないため、そのような体罰を受けたことはこれまでに何度もあった。なにか不始末をしでかした時などに、気性の荒い使用人などにぶたれることがままあるのだ。そのようにされると、こんな痣が残ることを遠矢はよく知っていた。  けれど当然、光秀は遠矢とは全く違う。彼を()つことが出来る人間など、暮火にいるはずがなかった。 「誰にやられた?」  震える声で尋ねると、光秀はなぜかくすぐったそうに微笑んだ。なぜ笑うのか、と聞くと、遠矢が心配してくれるから、と答える。よく意味がわからなかった。 「父さまに言われて行ったサマーキャンプで、他の子どもにぶたれた。でも、心配しないで。先に手を出したのは僕のほうだから」 「……どうして?」  光秀が同じ年頃の子どもばかりを集めたサマーキャンプに参加するという話は、少し前に彼自身から聞いていた。高級官僚や政治家、大企業の経営者など、いわゆる上流階級に属する人間の子息ばかりが参加するキャンプだという話で、父はまだ幼い光秀にそういった場で人脈づくりをさせたいらしかった。  出掛ける前から、光秀はそのキャンプに参加することを嫌がっていた。理由は詳しくは話さなかったが、彼は度々父によってそういった集まりに参加させられていたので、以前なにか嫌な目にあったのかもしれないと遠矢は心配していた。  そして実際、なにか良くない事態が起こってしまったらしい。しかし、ただ単に危害を加えられたわけではないのだと、光秀は強調したいらしかった。一方的に虐められ、尻尾を巻いて逃げ帰ってきたなどとだけは思われたくないらしい。  けれどなによりも、遠矢にとっては光秀が誰かを傷つけたらしいという事実のほうがショックだった。  光秀は時折聞き分けが悪くなることはあるものの、基本的にいつでも穏やかで、ひどく優しい子である。そんな彼が他人に暴力を振るうなど、遠矢には天地がひっくり返っても起こり得ないことのように思えた。 「……参加していた子どもの一人が、僕のことを『運命』だって言ったんだ」  さらに続けて光秀は、運命って知ってる?、と遠矢に問うてくる。 遠矢には、正直その意味がすぐにはわからなかった。  そういった概念があることそのものを知らなかったわけではない。『運命』――正式には『運命の(つがい)』と呼ばれる存在は、ある種の都市伝説のようなものとして世間に広く知られており、遠矢も耳にしたことはあった。  いわく、それは文字通り『運命』によって定められた、たった一人の存在であるという。  フェロモンや本能に呼び覚まされた強烈な欲情などとは無縁に、至極まっとうで人間らしい恋愛をするベータたちの間にも、そういった言い回しはあるらしい。ほかに変わりはいないと思えるほど大切な誰かに出会ったとき、その気持ちを相手に伝えるため「あなたは私の運命の人だ」といった言葉を贈ることがあるという。  けれどこの『運命』とはあくまで発言者の主観であり、それを客観的に証明することは出来ない。いわば、運命であると当事者同士が信じあっていることが重要なのであって、神も仏も実在しない世界においては、どれが『運命』に定められた出会いであるかなど人間には知りようがない。  けれどおかしなことに、『運命の番』――つまりアルファとオメガという第二性をもつ者同士が結ぶ契約における『運命』については、間違いなく証明の出来るものであるということになっている。  何が証明するのかといえば、それは本能である。  アルファやオメガは『運命の番』に出会ったとき、その体臭やフェロモンに本能的に他とは違う絶対的な価値を感じとる。場合によっては顔を合わせた瞬間に強い発情状態に陥るオメガもいるというし、『運命』を奪われまいと理性を失って狂暴化するアルファもいるという。  彼らはお互いに首筋を噛みたい、噛まれたいという確かな強い欲求を抱く。理性が介入する余地など微塵もないくらい、あまりに苛烈で抗いがたい衝動に支配されるのだ。そして求めるままに契約を結び、番になる。そののちは、けしてお互いに他のアルファやオメガに惹かれることは無くなるという。生涯でたった一人の相手と、永遠に寄り添いあい、愛し合って生きるのだ。  遠矢は以前読んだ本からその知識を得た。いわゆるラブストーリーと呼ばれるジャンルの小説で、アルファとオメガの美しい純愛を描いた物語だった。  その物語に遠矢は多少心を動かされるような気はしたが、けれど『運命』というものの実在については、初めから少しも信じてはいなかった。  暮火において、オメガはただ本能に振り回されるだけの下等な生き物と見做されている。アルファに所有され、管理されなければまもとに生きていくことも出来ない、無力で無能な性であると。  そのようなオメガたちと対等な愛を育みたいなどと考えるアルファが存在するなど、遠矢にはありえないことのように思えた。まるで絵空事のようで、浮ついて、現実離れしている。  けれどだからこそ、暗い井戸の底から頭上の明かりを見つめるように、どうしようもなく惹かれてしまう何かは感じる。  オメガと違い、複数の番を得られるアルファにとって、たった一人を愛するという制約に縛られる『運命』の存在はそれほどメリットがないように思える。けれど常にアルファに捨てられることを恐れて生きているオメガたちにとっては、それはまたとない夢のような話であるに違いなかった。おのれだけを求めてくれる誰か、いつまでも愛し続けてくれるたった一人が、この世のどこかに存在するという甘い夢。  どこの誰が始めた噂なのかはわからない。あるいはそれは本当に実在して、その当事者たちが広めた話なのかもしれない。  けれど残念ながら、『運命』が科学的に実証されたことはない。フェロモンの成分に個人差があり、それに相性があるというのは事実らしかったが、明らかになっているのはそこまででしかなかった。  遠矢は『運命の番』とはきっと、オメガたちを慰めるためのやさしい嘘なのではないかと思っている。けして疑いようのないもの、確かに約束されているものなど何一つ存在しないこの世界において、か弱いオメガたちがせめて希望を抱けるように、誰かが作ったハッピーエンド。  しかし光秀の話を聞く限り、彼を『運命』であると言った人間――ある代議士の息子だという――は、『運命の番』というものを確かに実在するものだと考えているらしかった。  光秀の言う『運命』の意味を理解したとき、遠矢の心臓はいやな感じに跳ねた。喉が急に渇いて、そのくせ両手には汗をかく。ただ何か不快な心地がする。  めまいがして、遠矢はふらりと光秀の隣に膝をついた。光秀がどんな表情でその話をしているのか、それを知るのがなぜかたまらなく恐ろしくなり、目線が自然とよく磨かれた床板のほうを向く。  そんな遠矢の様子に気付いているのかいないのか、光秀は淡々と話をつづけた。

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