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第1話

子どもの頃、周りの大人は口を開けば可愛い可愛いと蓮れんを褒めそやした。  さすがアルファの子よね、と。  おまけに賢かった。小学校、中学校、そして高校大学と優秀な成績を収め、スクールカーストでは常に上位。就職も一部上場企業に就職して、ひとり親で苦労してきた母のために駅直結のタワマンを購入したばかりだ。  順風満帆、思い通りにならないことなどない人生だった。  ――はずなのに。 「……は?」  蓮は尋ね返した。何を言われているのか理解できない。 「俺と、つき合え」  お れ と つ き あ え 。  正直、そんな言葉何度も言われてきた。そして何度断ってきたかもわからない。なのに今回はどうしたらいいかまったくわからなかった。なんでも思い通りにしてきたこの俺が。この俺が!  いや、でも、こんなときうまく対応できる奴がいるなら教えて欲しい。  肛門科の診察台の上で砕石位――仰向けになって自分で足を押さえ、股をおっぴろげる格好だ――を取っている、こんなときに。  春は出会いと別れの季節であると言うけれど、今年、一ノ瀬蓮いちのせ れんの身の上には後者のほうがより多く巡ってきた。  まず、母が死んだ。  進行の早い癌だった。打ち明けられたときすでに余命はわずかで、いったいどうしたら、と途方にくれている間にみるみると衰えて、あっけなく。  母の人生は、あまり幸福でなかったと思う。  アルファの父とオメガの母が出会って恋に落ちた。母が子どもだった時代にはまだオメガ差別が残っていて、属性を超えた結婚はあまりなかったと聞いている。  そんな今よりも差別の厳しい時代だったが、幸いにも父の両親、つまり蓮の祖父母に当たる人たちは、ふたりの結婚に反対しなかった。五歳までしか一緒に暮らさなかったが、陽当たりのいい広い芝生の庭でよく遊んでもらったのをなんとなく覚えている。蓮が走り回って祖父母たちを振り回すのを、両親が微笑んで見守る。父の顔はもうよく思い出せないが、蓮の姿を目で追いながら、ときどき隣りにいる母と視線を交わし合う睦まじい雰囲気が、今でも柔らかな日差しの感触と共に記憶にあった。  問題は、父の姉だ。  自身もアルファである彼女はアルファの男性と結婚したのだが長く続かず、生家に戻ると、そこでまるで本当の娘であるかのように愛されていたオメガの母に嫉妬した、らしい。  幼い蓮にはわからない陰湿ないじめ。積み重なったそれは徐々に母の顔から穏やかな笑顔を奪っていった。  大人たちの間で幾度も話し合いが持たれ、結局母は家を出た。  それから生活は一変する。広い庭どころか塀の向こうはすぐ隣のアパートという環境で、母のパートの収入だけに頼る暮らし。それでも、おそらくは父に似た、飛び抜けた容姿の蓮を近所のひとたちはみんな可愛がってくれた。  色素の薄い髪と瞳、華奢な輪郭。それでいてぷっくり丸みを持った頬。笑うときゅっとえくぼが出来るのがまた可愛らしいと。  だから、可愛がってくれるおばさまには笑顔を出し惜しみしないよう努めた。間違ってもおばさん、なんて呼ばない。ちゃんと名前にさん付けだ。ときには「しゃん」なんて噛んでみたりしながら。  高校からは近所ではなく都心の進学校に通った。大学の授業料は奨学金とバイトでまかなった。仕事はエネルギー関連商社の営業で、恵まれた容姿と、子どもの頃から生きるために身につけた処世術とで成績は順調だ。  若い層向けに売りに出されていた再開発エリアの駅直結タワマンを購入したのは、母のためだった。広い庭こそないけれど、そのほうが昔を思い出さなくてむしろいいかとも思った。  晴れた日には眩しい空がどこまでも見渡せ、夜には夜景が足元に煌めく。 「駅直結だから、どこでも出やすいだろ」  そう言う蓮に母はいつも、 「せっかくこんな綺麗なおうちがあるんだから、おうちの中にいるわ」  と痩せた体で笑った。  その綺麗なおうちにだって、ほんの数ヶ月しかいられなかったじゃないか――  蓮は社の入ったビルのゲートに社員証をタッチする。久し振りの出勤だ。他に身寄りはないから、葬儀やもろもろの手続きをひとりでやり、一週間の有給はあっという間に過ぎ去っていった。  とにかく、まずは挨拶回りをしなければ。人ひとりの肉体から命が消えるのは、対峙してみればあっけないほどの出来事だったというのに、あとに残された手続きは多すぎる。しばらくは半休を取ったり、総務の手を煩わすこともあるだろう。根回しは大事だ。  たったひとりの母親がこの世にもういないという実感は薄いくせに、頭は淡々とそんなことを考え、デパ地下の菓子折まで用意させた。脳味噌と体と心、それぞれがてんでばらばらに動いてまだうまくかみ合っていない。  ふわふわした気分のまま一週間ぶりに出社した廊下で、ちょうど尋ねていく予定だった上司に呼び止められた。 「ああ、一ノ瀬。……お疲れさん」 「いいえ。あの、母の希望だったので、お花とか、香典とか、お断りしてしまってすみません」 「あー、いい、いい。そんなの気にすんな。ちょっといいか?」 「はい」  元々こちらから出向く予定だったのだから、否があるはずもない。着いていくと、上司はまっすぐ営業部には向かわず、会議室の空きを確認して中に入った。あとに続いた蓮に「ドア閉めて」と告げる。 「ほんとに大変だったな。あらためてお悔やみ申し上げます」  気鋭のデザイナーが手がけた最新デザインのオフィスの壁は、大部分が強化硝子張りだ。地紋や社のロゴが入って視線が遮られるようにはなっているが、こういう話だから気を遣って場所を変えてくれたのだろう。目下の者に対して戸惑いがちに丁寧な言葉を使う。そんなところひとつとっても、人の死って、ほんとうにいろいろイレギュラーなんだな、などと、人ごとのように考える。 「大丈夫か?」 「はい。もう、すっかり。……あれ? こういう返答でいいんでしたっけ」  よくわからない。上司も苦笑している。その苦笑にも「わかってるよ」という気遣いがにじんでいるような気がした。  春の異動があって、営業から広報に転属になったのは、それから数日後のことだ。 「くそ、こんなの、バイトの仕事だろ……」  有価証券報告書、決算短信、株主総会の運営といった投資家向け業務、いわゆるIRを蓮の会社は広報部の中に置いてた。  営業畑で成績を出した蓮も投資となれば素人同然だ。右も左もわからない中与えられたのは「IR業務の補佐」だった。  ネットはもちろん、新聞、あるいは業界紙から、自社や投資先に関係する記事を切り抜いて貼って整理して、関係会社から情報が欲しいと言われたらすぐ対応できるようPDF化して―という。  こんなもの最初から全部データでよこせ、とも思うが、エネルギー産業自体は古い業界だ。まだペーパーレスが完全には進んでいない。勢いのある会社だけに、関連資料は山のような量になり、午前中はそれだけで終わってしまうこともある。  あとは他部署とちょくちょく行われる会議のために会議室を押さえるなどのスケジューリング。新しい動きがあればサイトの情報更新、投資家向けメルマガの発信。サイトの更新もメルマガも可能なが限りリアルタイム対応しているから、想外のタイミングで入ってくれば他の仕事を一旦置いて最優先しなければならない。  営業は商談先の都合はもちろんあるものの、ある程度自分の裁量がきく仕事だった。けれど今やらされているのは完全に待ちの仕事。それも、集中し始めたところで別の急ぎの仕事を突っ込まれるのだから、いら立ちもする。  とはいえ、こんな裏方の仕事で音を上げるなんてかっこ悪い真似をするわけにはいかない。この俺が。  ついさっきも、海外の支店から来た原稿を得意の語学力で瞬時に訳し、サイトにアップ済みだった。さすが俺。 「一ノ瀬くん」  ファイルをひとつ整理したところで、女の声が名を呼んだ。広報の部長、加賀美かがみは四十手前の、女性の中では出世頭だった。属性はおそらく―アルファ。  時代と共に属性の扱いが変わって、コンプライアンスの行き届いた会社では、年齢、恋人の有無、そして属性も無神経に訊ねてはいけない、とされている。  ここのような一部上場企業ならなおさらだった。入社試験の際にも記入欄はなかったと記憶している。  オメガに発情期が起きてしまったときの救急キットも、法人なら初めから設置が義務づけられているから、社員に新しく増えたところで、あらためてすることはない。  ただし、何事にも不測の事態はあるから、正式に雇用される際総務には書類を提出することになっていた。それはマイナンバー同様厳重に管理され、普段は誰も見ることが出来ない。もちろん人事に影響もしたりしない。  と、されてはいるけどね。  真相はどうだかわからない、というのが蓮の正直な感想だった。  セクハラパワハラ、サービス早出やサービス残業も、何十年もの取り組みの割に根絶されたとは言い難い。実際早出残業は蓮もやっていた。有給取得が推奨されているとはいえ、実際には現場の「雰囲気」というものがある。あいつばっかり休んでる、と思われることによる長期的なリスクを考えたら、ほいほい政府の指導通り取る奴はいない。  未だに紙媒体の業界紙があるように、長年人の心に染みついた属性差別が完全になくなることはないんじゃないか、と蓮は思っている。有給取得率が百パーセントになることはないように、属性差別だって完全には消えない。みんな心の中でいまだに優劣をつけているはずだ。意識するしないに関わらず。  加賀美は言った。 「さっきのリリース、誤字がある」  「え?」  蓮は慌てて自社のサイトを確認する。顧客からの要望で、リアルタイムに反映されるそれ。完璧に、秒で片づけてやったぜと鼻高々だったのに―見ると、確かに一箇所漢字の間違いがあった。 「企業名や人名じゃなかっただけましだけど、早く修正して」 「はい」  企業や人名じゃなかったんだから、気づく者も少ないだろう。だいたい、こんなところの情報をリアルタイムで見てる投資家なんてほんとにいるのか? 高額を動かすトレーダーならなおさら、この時間はチャートとにらめっこじゃないのか。  ちらっと考えてしまったのを見透かされたかのように、加賀美が言い捨てた。 「バイトにもできる仕事なんでしょ。早くして」 「あのおんな……ッ!」  昼休み、トイレの洗面台を叩きつけて、蓮は呻いた。もちろん先客がいないことを確認してからだが。 「なんっだあの厭味な態度! 俺だって広報なんて来たくて来たわけじゃねえっつうの!」  むしろ、それをわかっているからの言葉なんだろう。バイトの仕事発言を聞かれていたのは自分が迂闊だったとして、あの、意地の悪い口調。歪めた口元のしわがそのまま張り付いて、一生消えなきゃいい、と思わず呪いをかける。  あらためて、どうして異動なんて……という思いに襲われる。もちろんそういうシーズンではあった。だけど突然すぎる。特別ミスだってなかったはずだ。そうなるともう、思い当たる節はひとつしかない。  もしかして……部長にオメガだってことがばれた?  近年属性チェックは中学二年生で行われることになっていて、もちろん蓮も受けた。父親がアルファだったし、子どもの頃からさすがアルファの子どもは可愛いわね、とおばさま方に言われまくって育ったのだ。成績も優秀で、スポーツも出来た。  オメガなのだと診断が出たあとも、それは変わらなかったし、努力もした。幸い蓮の成長に合わせるように属性差別反対の流れは強くなり、属性を訊ねるのは失礼、ということになったから、その風潮に乗って今までうまく隠し通しているつもりだった。  人事に属性は影響しない、と一流企業は口を揃える。だが部長クラスの思惑が実際どこまで及ぶのか、ヒラの蓮にはどんなものかわからないのもまた事実だった。極秘のはずの社員の情報を見られるのかもしれないし、実は差別主義者だったとしても表向きはわからない。  部長には気に入られていると思っていた。母が死んだあとも、気にかけてくれているように見えたのに。  しょせんオメガはオメガ、なのか。それこそサビ残やセクハラ同様、差別は永遠になくならないものなのかもしれない。 「……てて」  午後からまた加賀美のいる部屋に戻らねばならないと考えたからか、腹がちりちりと痛んだ。  催して、個室に入る。思えば個室のほうに入るのも久し振りな気がする。葬儀、異動と立て続けに生活に変化があって、内臓も仕事をセーブしていたのかもしれない。  なんだか違和感を感じると思いながら用を足し、流すために立ち上がったときだ。 「ぎゃ――――ー!!」  真っ赤に染まった便器に思わず声を上げたのは。 『下血』『原因』  生きていて、まさか自分がこんなワードを検索窓に打ち込むことになろうとは思ってもみなかった。この俺が。この俺が!  母の最期あたりから、腹の調子がいまいちだな、という感覚はあった。だが、なにしろたったひとりの肉親の死だ。多少は体調に異変が出るのも仕方ない。葬儀や役所への手続き関係で食事は適当にしがちだったし、水分補給も怠っていたかもしれない。胃、もしくはあらぬところがちくちくと痛むのをときおり感じてはいたが、深く気に留めないまま今日まで放置してしまったのだ。  去年の春、会社の補助金を利用して病院で健康診断を受けた。徹底的に診てもらったそのとき、なんの異常もなかったし、今まで病気というほどの病気にかかったことはない。  そういったことを照らし合わせながらネット上の情報を次々チェックしていくと、不本意ながらひとつの結論にたどり着かざるを得なかった。  これはもしやあれか。  やまいだれに寺と書く、あの。  子どもの頃からずっと可愛い、イケメン、と言われ続けてきた俺が、まさかの―痔。  屈辱に震える手で下血に続いて病名を打ち込むと(スペルはJではなくてDだった)症例や体験談が続々と出てくる。  やっぱあてはまること多いか……?  自分がそんな恥ずかしい響きの病を患ってしまったことを認めたくない気持ちのほうがまだ強く、思わず薄目になっても、書いてあることに心当たりがありすぎる。  曰く、偏った食生活、環境の変化、一日中座り仕事。  まんまと異動も影響してんじゃねえか……  あらためて苦々しい気持ちになる。  まあ、なってしまったものは仕方ない。市販薬も通販できるみたいだし、さっさと治すか。  情報サイトから通販サイトに移動しようとして、ひときわ強調された見出しに目が留まった。 『痔だと思って病院に行ったら大変なことになった俺がおまえらの質問に答えるスレ』 「……」  引き寄せられるようにクリックしてしまう。  大腸癌。  クローン病、あるいはベーチェット病。そこまで行かずとも、切るほどの手術になると大がかり。切った後もしばらくは出血する。 「……その場合はナプ……などで下着が汚れないよう……?」  別の意味で腹が痛い。 『おまいら、軽く考えて放置せず病院行けよ!』というトピ主の切実な叫びで締めくくられる頃には、病院に行く決心をしていた。今日は金曜日、せっかくの週末を病気に怯えながら過ごすくらいなら、会社帰りにさっと行ってしまったほうがいい。  検索窓に『痔』『名医』『おすすめ』と入力する。デリケートな部分なだけに、いいかげんな医者にかかりたくなかったし、知り合いに知られたくもない。もちろんこの検索履歴はあとで消す。念入りに消す。  検索している間にも、どんどん腹が張ってくるし、あらぬところは痛くなってくるような気がした。こんな私用で会社のパソコンを使っていることが後ろめたくもあり、ディスプレイの上にかがみ込むようにして高速でスクロールさせる。ひとつの記事に目が留まった。 『都心で通いやすいが一本裏手にあって、ひっそりしている』 『専門医だけあって腕は確か』 『呼び出しも予約番号のみで名前は呼ばないなどの配慮あり。やっぱり総合病院より専門医が安心です』 『やさしい年配の先生です』 『腕はもちろん、先生の穏やかな口調が癒やし。男の俺でも行くまではちょっと泣きそうだったから、怒られるんじゃなくて「今までよく我慢したね」って言われて泣きそうだった。つか泣いた』  そうなのか。ふむふむと読み込んでいくと、会社からはひとつ隣の駅、なんなら歩いてでも行ける距離だった。万が一にも知り合いに会わぬよう遠いところがいいかとも思ったが、いろいろと調べているうちに尻の痛みは増している。ひっそりしている、という書き込みを信じ、ここへ行くことにした。  ――よし、定時だ。  電話のデイスプレイに表示されている時計が退社時刻を指したのを確認し、立ち上がった。気持ち的には颯爽と立ち上がったつもりだったが、じっさいにはそろりそろりといったところだ。どうかすると、よせばいいのに思わず見てしまった患部写真が脳裏にちらつく。  自分の内部もあんなふうに傷ついているんだろうか。躓きでもしようものならそこに響いてしまうような気がして足元に慎重になると、自ずと姿勢は俯きがちになった。 「つ、次から気をつけてくれればいいから」  去り際、加賀美がそんなことを言っていたような気もするが、頭文字D(心の中ですら痔と何度も口にする屈辱に堪えられず、こう呼ぶことにした)の様子ばかりが気になってよく聞こえなかった。  大事を取って一駅地下鉄に乗り、地上まではエレベーターを使う。さりげなく辺りを見回してから、事前にみっちり調べてあった路地へと足を踏み入れた。  へえ、  蓮は思わず瞬きする。  この辺りなんてもう、全部ビルになったと思ってたけど。  大通りから一本入った区画に、最新のビルとは打って変わって、まだ個人の家がいくつか残っていた。きっと再開発が始まるずっと以前、何百年とこの地に住んでいるのだろう。  ってことはこいつらみんなアルファか。  当然のことながら、優れた能力を持つ人間が多いアルファは、代々家を栄えさせていることが多い。ベータやオメガの富豪がいないわけではないが、みな後進だ。オメガであることを公表している実業家もいて、出版された立志伝はヒットを飛ばしてもいるが、それ自体、滅多にないということの証左だろう。  どこからともなくせり上がるいらだちに目をすがめながら足を進める。建ち並ぶ屋敷の中ではややこぢんまりとした、青い釉薬のかかった洋瓦の屋根を持つ建物の前に看板が出ていた。 『小児科・肛門科 真島ましま医院』  ここだ。  医院の看板が出ていなければ、古民家をリノベしたカフェといっても通用しそうななんとなく可愛い作りなのは、小児科も併設しているからだろうか。出産をきっかけに痔を患うことも多いと「あーちゃんママ(二十八)」の書き込みで初めて知った。〈乳幼児検診のふりして通えるのでとても助かります〉とのことだったので、双方にとって合理的なのかもしれない。  とはいえ自分は子連れではない。どちらかというと童顔のほうではあるが、さすがに小児患者と思ってもらうには無理がある。そもそもスーツだ。  もう一度きょろきょろと辺りを見回してから、磨りガラスに真鍮のドアを押し、忍者のように素早く体を滑り込ませた。  幸いなことに、待合室に他の患者の姿はない。受付カウンターの手前に「初診の方はこちらの問診票にご記入の上、受付まで提出してください」と大きく書かれたかごがあり、用紙が入れられていた。なるほど、極力あいつのことを―頭文字Dのことを、口にもしないで済むようになってるわけか。さすがのホスピタリティだ。  ネットの書き込みが正しかったことに感謝しつつ用紙を記入し、ベテランふうの女性看護師がいるカウンターで受付を済ませると、すぐに診察室に呼ばれた。  全体的にレトロな雰囲気の医院だが、通された診察室の医者のデスクにはちゃんとパソコンのディスプレイが乗って、さっき記入した簡単な問診票の内容ももうそこに表示されているようだった。 「どうぞ」  耳に心地良い低めの声に促され、腰を下ろす。回転椅子が揺れ、その衝撃でDが少し痛んだ。意識し始めたのが今日の昼からだが、それまで母の死で落ち込む自分の中でこんなになるまで勝手に育っていたのかと思うと実に腹立たしい。  ディスプレイを覗き込んでいた医師がこちらを振り返る。  もっさりしている、というのがその医師の印象だった。  癖のある、長過ぎの前髪は完全に目を覆ってしまっているし、白衣の下に着ているのは見間違いでなければスウェットで―ことによるとどうも診察室につながっているらしき母屋でさっきまで寝ていました、といった風体。立ち上がったら、中肉中背の自分よりきっと十センチは上背があり、肩周りの筋肉なども鍛えているように見えるが、瞳の生気が確認できないせいだろうか、逞しい、という第一印象にはならなかった。  覇気のない熊、ってところか。  ふと見るとデスクに置かれた左の手の甲に、ひきつれたような跡があった。甲の左上から右下まで、斜めに走る傷跡だ。いったいどういうわけでそんなところにそんな傷がつくのか。見た感じ古い物のようだから、医者になる前の実習ででもついたのだとしたら、その後の技術の向上が順調だったのか気になるところではある。  それになにより。 「あの」 「なにか」 「えっと―、年配の先生だって、ネットで」  万が一にも女医などにあたらぬよう、そこのところはよくよく調べたのだ。 「たぶん、父ですね。数年前に亡くなって、今は私が」 「そうですか……」  更新しとけよ! と心の中で罵るが、そもそも善意の有志による情報サイトだ。漏れがあるのは仕方ない。  表情こそ見えないものの、体つきの感じからして医師はまだ若いようだった。ことによると自分と同世代だろう。おそらくは仕事柄、そういう口調を心がけているのだろうが、この男、ぱっとしない見栄えの割に落ちついた声がいい。  もっとはっきり言うと、好きな声だ。今のやりとりで、第一声から自分の耳がそう感じていたのだと気づかされた。  そんな医者にデリケートな病をどうこうされるのかと思うと、思わず腰が浮きかけた。が、医師は淡々と問診を開始してしまう。 「痛みを最初に感じたのはいつ頃ですか」  やむなく、そ……っと腰かけ直す。回転椅子が不用意にくるっとでもしようものなら、確実に響く。今やそう予想できるほど、ずきずきとした痛みは確実な物になっていた。 「えっと、ここ二、三日……? でも違和感はずっとあったのかもしれないです」  キーボードに添えられていた甲の傷がぴくりと動いて、もっさり癖毛がこっちを向く。 「しれない?」 「ちょっと……身内の不幸があってばたばたしていたので……あと仕事内容が変わったりで……自分の体調になんてかまってられなかったといいますか」 「……」  医師は、無言のままカルテを打ち込んでいく。都心にありながら中庭もある医院の中は静かで、カタカタと響くその音は、どこかいらだっているようにも思えた。体調になんてかまってられなかった、の部分が職業柄気に障っただろうか?  医者ってみんなそうだよな。あと美容師。もっと早く来なきゃだめですよって。だったら二十四時間年中無休にしろってーの。こっちは毎日神経すり減らして働いて、休みの日は死に体だ。寝倒して寝倒してなんとか体力回復して、月曜日に「週休三日じゃなきゃ足りなくね……?」って思いながら出社して、それのくり返し。細かな体のケアなんて、後回しになるのがむしろ普通だろ―声には出さずに毒づく。  蓮の場合は特にそうだった。学生の頃から。  一般的に、オメガやベータよりアルファは知力体力共に優れている。  表向き、属性で差別してはいけない、むやみに言及してはいけないとされていたところで、それはもうはっきりとした事実としてあった。高校生にもなれば、成績上位者や部活で活躍する奴の上位何割かがアルファで占められているのは、周知の事実だ。  だから自分は、死ぬほど勉強した。  高校も大学も。一部上場企業に就職してからはなおさら、周りがアルファばかりに見えた。その中でオメガとバレないためには―しょせんオメガと思われないためには、誰よりも結果を出さなければならない。  海外と取引のある商社なら英語が堪能なのは当たり前だから、蓮は中国語もマスターした。もちろん、世界の取引は主に英語だ。先方も流暢に英語を操るから不自由はなかったが、蓮がひとことふたこと声調の難しい単語を正確に発音してみせるだけで、営業の掴みは格段に違った。  ネイティブしか使わない最新のスラングを交えて冗談のひとつも言えれば、表情がわかりにくいと言われるアジア人の顔だって、ぱっと輝く。そうなればもう、他社には勝ったも同然だ。  蓮のプライベートの携帯には、取引先本人の他に、彼らの妻と子供の誕生日も余すことなく登録されている。もちろんそれも地道なリサーチでかき集めたものだ。GNPがアジアナンバーワンでなくなった今でも、日本製のおもちゃや化粧品は子供や女性に人気がある。折に触れ「奥様がお好きとうかがったので……」と差し入れすることを忘れたことはなかった。  それを「やりすぎ」と陰口を叩く同僚がいたのは知っている。  快感だった。  同期のほとんどは学生時代の成績も優秀、容姿も端麗。属性を詮索するまでもなくわかる。どうせアルファだ。そのアルファの連中に嫉まれるなんて、蓮にとっては望むところでしかない。  ざまーみろ。おまえらが持って生まれた物にあぐらかいてる間に出し抜いてやったぜ。  そんなふうだし、あまり深い付き合いになってオメガであることがバレても面倒なので、蓮には今まで本当に親しい友人というものはいたことがない。  もちろん恋人もだ。  そんなことよりも、とにかくアルファに負けずに稼いで稼いで、母親に楽をさせてやりたかった。駅直結のタワマンを若くして購入できたのも、そうやって築いてきた実績のおかげだった。中国の取引先である会社の社長が投資用にいくつか所持しているものを回してもらえたのだ。  とにかく、アルファが幅をきかせる一部上場企業の中でがむしゃらに仕事をしてきたことは、蓮にとって誇りだった。少しぐらいの体調不良なんて、かまっていられない。  こんな都心に昔からのおうちがある人とは違うんですよ、先生。  少し意地悪な気持ちでもっさりした医者を見据える。  それにつけてももっさりした医者だ。体格もいいみたいなのにもったいねえ。  どこかもっさりとして華のないこの感じは、アルファでなくベータなのかもしれない。ベータは人口のほとんどを占める属性で、ありていに言うと「普通」だが、普通の中にも優れた者はたまにいる。だいたい、医者の中でも花形の外科医などは、やっぱりアルファが多いものだろう。  肛門科について調べている最中に、こんな書き込みを見た。 『肛門科医になる奴ってなんでそれ選んだんかな?』 『泌尿器科医になれんかった奴がなるんやで』  泌尿器科と肛門科の優劣が蓮にはよくわからなかったが、とにかく医者の中ではランクが下、という扱いらしい。優秀な中でも特に優秀なアルファが外科医になり、あとは余ったものを請け負うというのが現実なのかもしれない。  とはいえ親の代から医者なんて、やっぱり恵まれている。  もっさりとした前髪に隠れて、表情はよくわからない。医者は次に「からいものはお好きですか?」とやはり淡々と訊ねてきた。 「そうですね、キムチとか」 「どのくらいの頻度で召し上がりますか」 「あー……ほぼ毎日?」 「毎日?」  またなにかひっかかったようだ。蓮が好ましいと思った声に、胡乱げな響きが乗る。 「牛丼、あるじゃないですか。ほんとばたばたしてたんで最近はあればっかりで……ふつうの牛丼だと続くと甘くて飽きるし、あれ、白菜だから、野菜も普通より摂れるからいいかなって。発酵食品だし?」  もちろん母が生きていた頃に作ってくれていた食事に比べれば、よくないことはわかっている。けれども、飯のことなど考えたくない、でも喰わなきゃもたない、ああめんどくせえ……と思いながら帰宅すると目の前にあるのが牛丼屋というものだ。だいたいにおいて蓮はからい食べ物が好きだった。普通の食事より強く「喰った」という感じがするのがいい。  それから仕事内容、睡眠時間、出血したときの詳しい状況などを訊かれ、カルテ入力は終わった。なんとなく一仕事終えたような気分だ。 「じゃあ、ちょっとみましょうか」 「え?」  思わず声が出てしまった。見る? ―ああ、診るか。それにしたって。 「えっと、今は薬だけとか、注射だけでって……」  ネットで見たんですけど、という声は小さくなった。恐ろしくて詳細に調べて来たということを知られるのは恥ずかしいような気がした。  医者は、こんどはあからさまにため息をつく。  ホスピタリティはどこだよ。 「痔核(いぼ痔)か裂肛(切れ痔)か痔ろう(穴があく痔)かもわからなければ治療方針の決めようもないだろう」  それはそうか―― 「てか、いま、だろうって」  言った気がする。いつの間にかタメ語じゃねーかこの野郎。 「患者に向かってそういう―」  ただでさえナイーブな部分の病でここへ来るまで葛藤だったり羞恥だったりで疲弊している心に、ぞんざいな言葉遣いが思いのほか刺さる。詰め寄ろうとした瞬間、受付にいた女性看護師が入ってきて部屋の片隅のカーテンをしゃっと音も高らかにひいた。 「はい、こちらにどうぞ~」  白いシーツのかかった診察台が現れる。さっきまで普通に会話していた部屋の片隅にそんなものが現れると、なんだか圧倒されてたじろいでしまった。 「ここで?」 「なんにも怖いことないですからね~」  子供にするように語りかけられる。小児科併設だからだろうか。自分が目に見えて子供のようにびびっているのだとは、思いたくなかった。  くそ。  覚悟を決めて診察台に上がる。 「はいベルトゆるめて壁の方向いて~。タオルおかけしますね。失礼しま~す」 「ぎゃ、」  思わず叫んでしまいそうになったのを、奇跡的にこらえた。失礼しますの「ま~す」のあたりでおもむろにスラックスをずらされたからだ。  そんなあっさり? いや、もったいつけられてもお互い微妙な空気になるから、これは正しい配慮なのか? それにしたって。  気持ちがついていかない。  シムス体位、と呼ばれるこれを、もちろん事前にネットで見てはいた。患部以外は見えないようにしてくれるのでそんなに恥ずかしくないです、とは書かれていたが、診察とはいえスーツで半ケツを出しているという状況がもう非日常すぎる。なにこれ。  なにこれなにこれと戸惑っている間に、尻の稜線に直接触れていたタオルがそっと避けられる気配がした。 「患部を診ていきます」  降ってきたのは女性看護師でなく、もっさり医者の声だった。なんだかむかつく態度だったのに、声をかけられるとほっとする。いきなり暴いたりはしないんだな……とほっとできたのはつかの間だった。 「ひ……っ!?」  なにか冷たい、と思った次の瞬間、ぬるりとした感触があらぬところを襲ったからだ。 「ま、ちょ、え、なに……?」 「外痔ではないので中を見る。麻酔入りのジェルだ」  またタメ語だ。 「声……かけろよ……っ」  思わず叫んでしまったが「これからジェルを塗ります」なんて言われたら、逃げ出していたかもしれない。  だって、これ、あんまりにも、なあ?  そういうものじゃない。医療用だ。これはただの診察だ。そう言い聞かせるのに、ぬるりとした感触が潜り込んでくると、ぞくぞくとした。麻酔入りとはいうが、もの凄い違和感だ。 「中を見ないとなんともいえないから、肛門鏡をいれる」 「こ……っ!?」  こうもんきょう。  こんなに「なんだかわからないのになにをするかはわかってしまう言葉」に人生で初めて出会った気がする。  きつく閉じていた目をおそるおそる開くと、ベッドサイドに備え付けられたモニターに、桃色に濡れた肉が映し出されていた。 「この辺りはちゃんと綺麗な色だな……」  病状を吟味しているのだろうが、なにか思案するような声で呟かれると、別の意味に聞こえてしまう。もっさりしているが、声はいいのだ、この医者。むかつくことに。  その、いい声が囁く。 「奥まで見たい」 「――」  お、奥!? 「ちょっと起き上がって」  心の声はかろうじて押しとどめ、促されるまま体を起こした。びびっていると思われたくなかった。 「下は脱いで、足を広げる。そのまま支えて」 「え、」 「あ?」  訊ね返されると、かあっと顔が熱くなった。  だってこの体位―じゃなかった体勢、あんまりにもあんまり、じゃないか?  診察、これはただの診察だ。ばくばくしてやまない心臓にそう言い聞かせながら足を広げた。配慮なのか女性看護師はいつの間にかいなくなっていて、前のほうには医師がガーゼをかけてくれるが、無駄な足掻き感が凄い。なんだかもうすべてが屈辱的だった。  なんだこれ。なんの拷問なんだこれ。なんでこんな目に遭ってんだ。この俺が。この俺が!?  麻酔はちゃんと効いているらしい。なにも感じない間に肛門鏡が入り込んでいて、モニターには再びぬめる内部が映し出されていた。 「奥まで入った」  だから、いちいちそのいい声で――いやこれ、言わないと医療行為的にはまずいのか? 「ここだ。赤くなってるの、わかるか」  声も発せず、ただこくこくと頷いた。拍子、涙が目の縁にぶわっとにじみ出る。自分でも決壊寸前なのがわかっていなかった。  なんで俺、こんなとんでもないかっこで泣いてんの。 「も、もう……」  患部の確認が終わったのだから、はやく開放して欲しい。 「見たところ軽度だが、他の病気の可能性もある。一応検査にも回すぞ」  そんな言葉にも、言われるままこくこくをくり返す。いつの間にやら完全にタメ語になっているのに、憤る余裕ももはやない。  デスクのPCと連動しているらしいタブレットをのぞきこみながら、医師は「今日のところは薬を出しておく。うちは院内処方だから。使い方をよく読んで。あと悪化しないよう、食生活も改めろ。とりあえず、キムチ牛丼はしばらく禁止だ」と続けた。 「え」 「言っとくが粥ばっかりもだめだからな。出すものが足りなくて軟便になる。軟便が患部に触れるとばい菌が入るし、地獄のように痛い。脂っこい肉は避けて野菜中心、特に果物、茸類、海藻類をひとくち三十回よく噛んで喰え」 「し……仕事もあるのに、そんなの無理だ」  地獄のように痛い、という言葉におののきつつ、かろうじて抵抗を試みた。会社は勢いのある一部上場企業だが、駅前一等地のビルをワンフロア借りで使っていて、社食はない。都心だけあって周囲に店はたくさんあるが、ランチメニューなんてほぼ脂っこい物と相場が決まっている。 「まずは晩飯だけでもいい」 「料理はできない。ずっと母親がやってくれてたから」 「くれてた?」 「――死んだんだ。二週間前に」  なぜ初対面の医者相手にこんなことまで話さなければならないのかと思うが、もうやぶれかぶれだ。早く開放されたい。医師はしばらく沈黙したあと、言った。 「……他に作ってくれる人は?」 「恋人とかって意味? いねーよ。仕事ばっかりで、そんな余裕ないんだよこっちは」  なにしろマンションを買ったばかりだ。こんなふうに、代々のおうちが都心にある奴とは違う。せっせと働いてローンを支払わなければならないのだ。  それに、ただでさえオメガで、恋人選びは他の属性より慎重にならざるを得ない身の上だった。表向き差別はないと言われているが、オメガであることを明かした途端連絡が取れなくなったとか、逆に無茶なプレイばかり要求されるようになったとかの類いは、よく聞く話だった。  そんな気遣いのいらないアルファやベータとは違う。 「そ、そんなことより、もう……」  診察を終えてくれないだろうか。さっさと薬とやらをもらって帰りたい。むしゃくしゃするから、だめだと言われたってキムチ牛丼が食いたいと思った。絶対に買って帰ってやる。キムチ増し増しにしてやる。  指示を待たずにこっぱずかしい体勢を元に戻そうとしたときだった。  なにやらむすっと引き結んでいた医者の唇から、その言葉が紡がれたのは。 「……え」 「あ?」 「おまえ、俺とつき合え」  子どもの頃、周りの大人は口を開けば可愛い可愛いと蓮を褒めそやした。  さすがアルファの子よね、と。  おまけに賢かった。小学校、中学校、そして高校大学と優秀な成績を収め、スクールカーストでは常に上位。就職も後進とはいえ一部上場企業に就職して、ひとり親で苦労してきた母のために駅直結のタワマンを購入したばかりだ。  順風満帆、思い通りにならないことなどない人生だった。  ――はずなのに。 「……は?」  覇気のない熊みたいな外見にはまったくときめかないのに、それだけはどうしても気になってしまういい声が、もう一度くり返す。 「俺と、つき合え」  お れ と つ き あ え 。  正直、そんな言葉何度も言われてきた。そして何度断ってきたかもわからない。なのに今回はどうしたらいいかわからなかった。なんでも思い通りにしてきたこの俺が。  いや、こんなときうまく対応できる奴がいるなら教えて欲しい。  肛門科の診察台の上で砕石位――仰向けになって自分で足を押さえ、股をおっぴろげる格好だ――を取っている、こんなときに、だ。

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