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第2話
「なにそれ、こっわ」
花の香りが漂う店内に、ぞんざいな言葉が響く。皿を洗っていた声の主は、それからくくっと肩を震わせ、しまいには腕で口元を押さえて後ろをむいてしまった。いくら客がいないとはいえ、笑いすぎだろう。
カフェ「ネモ」は、自家焙煎のコーヒーと手作りケーキが人気のカフェだ。店の半分はフラワーショップにもなっていて、店内はいたるところに花が溢れている。
オーナーのレナと蓮とはもう十年来の付き合いになる。属性はベータ。母親を除けば、腹を割って話せる唯一の存在と言って良かった。
「笑いごっちゃねー! こっちは恥を忍んで病院にいった挙げ句不審者に遭遇したんだぞ!」
あのあと蓮は音速で診察台を飛び降り、病院を逃げ出した。
内部に響く痛みはあったが、そのときは構っていられなかった。そんな状況でも脱いであった上着を忘れずに引っ掴んできた自分を褒めたい。
なんだあれ。なんなんだあれ―
たしかに、痔について調べている間に〈わざわざ肛門科医になる奴って変態なの?〉という書き込みも目にした。そのときはそんなわけねーだろと思って詳細を見もしなかったのだが、やっぱり多少はやべーやつが混ざってんのか。いやいや―
こっちは心底びびって金曜の夜からせっかくの土曜までを震えて眠ったというのに、発端が「痔」となるとどうしても妙なおかしみが拭いきれないらしく、レナはまだ目じりの涙を拭っていた。気易い仲だから、というのはわかっているが。
「……オメガだからって、そういう扱いされて平気ってわけじゃねえよ、俺は」
レナの手が止まる。
「ごめん、そういうつもりじゃ」
「別に、もういいけど」
そういうつもりじゃないのはよくわかっているが、レナの前では子供のように口元が尖ってしまう。
蓮の年代では、属性チェックは中学二年生で一斉に行われることになっていた。その後の進学などに大きく関わるからという理由で。
もちろん他の生徒に開示などされないことになってはいたが、アルファはやはり生まれつき知能も運動能力も高いものがほとんどで、それに沿った学校選びが好ましいと思われている節はあった。
目に見えない同調圧力のようなもので、自然に階層は形成されていく。アルファばかりの学校、オメガばかりの学校もある。無用のトラブルを避けるためにはそういう学校を選ぶのも策ではあっただろう。
だが蓮は、属性には特化していない進学校を選んだ。奨学金が使えたし、将来的に狙っている大学に多くの合格者を出していたからだ。
受験のときはもちろん、進学してからもがむしゃらに勉強した。こればかりは父親に感謝しなければいけないのか、蓮の華のある容姿は、アルファだらけの中に入っても見劣りすることはなかった。
どうしても華奢な体を少しでも鍛えようとサッカー部にも所属して、練習に励んだ。対外的にはけして強豪ではなかったが、学校内では人気の部活でレギュラーになると、いつの間にか「文武両道」ともてはやされるようになった。
休み時間には決まって教室の真ん中にカースト上位の生徒が集まる。蓮の席がそこだから。周りに寄ってくる連中は、アルファのぼんぼんばかりだ。そういう奴らは代々アルファであることを隠しもしないから、本人の口から聞かずともすぐにわかってしまう。
生まれながらに多くのものを持つ彼らに負けまいと思うと、勉強もスポーツも一層身が入った。
それでも時折ふと、底知れぬ不安のような物を感じることがあった。
自分がオメガであることに。
午後の授業を欠席して行われた試合のあと、半端に時間が空いてみんなでファーストフードに行ったことがある。
二階の窓際に陣取ってシェイクを飲んでいると、そのうちのひとりが不意に顎をしゃくった。それに促されて、全員が窓から表の通りを見下ろす。
――あー、オメガ高、この辺りにあんだっけ。
――そういやそうだったか。あんまこっちまで来ないもんな。
オメガばかりを集めた女子校がある、とは蓮も聞いたことがあった。
表だって宣伝しているわけではないが、属性に特化した教育、身の守り方などを教えてくれるらしい。本人たちにとっては最良の選択なのだろうが、世間的にはその学校はなんとなくランク下に見られる存在だった。
ちょうど下校時刻らしく、生徒が固まって歩いている。おそらくはそれも学校の教えで、ひとりではなく複数人で行動するようにしているのだろう。
品のいいボレロの制服の彼女らを見ていたとりまきのひとりが、ストローを噛みながら下卑た笑みを浮かべた。
――なあなあ、オメガ高って頼んだらすぐやらせてくれるってほんとかなあ?
蓮は、耳元で自分の血がごうと流れる音を聞いた。
不快さはそのまま血流に乗って、全身に至る。
時代を経て、現代ではオメガ差別はなくなった。
と、言われている。
オメガには発情期がある。アルファはそのオメガに妊娠させやすい。というだけで、他は基本他の属性と変わらない。どうしても生まれながらに知力体力の優れた者の多いアルファと競えば敵うことの方が少ないが、人間そのものとして劣っているわけではない。現に自分はアルファの中に混ざっても見劣りせず、こうしてうまくやっている。
それでも、未だにこんなふうに「オメガ=愚かで淫乱」というイメージを持つ者は少なくなかった。
祖父母や親世代ならともかく、自分と同じ年代までこうなのだ。
一般に十七歳~二十歳くらいの間にやってくる初発情を、蓮はまだ経験していない。
受験に重なったらどうしよう、という恐怖は、いつもは勉強や部活に打ち込むことで追いやっていた。その心配があるにしても、今目の前にあるやるべきことはなんら変わらないはずだからだ。まだ訪れてもいない未来のことを気に病んで、目の前のことをおろそかにしていい理由などなにもなかった。
でも、こうして日常に未だに根付いている差別に触れると、ざらっと胃の中に砂利でも流し込まれたような気持ちになる。
どうして今、この時間によりによってここを通るんだよ―
彼女たちへの理不尽な怒りさえ湧いて、蓮はひたすらシェイクをすすった。
どうやら、オメガとそれ目当ての客が集まる夜の街には、政府から支給されるものより強力な発情抑制剤を違法に扱う店があるらしい。そう耳にしたのは、それからしばらくしてからのことだ。
いつものように部室で着替えている間に、誰かが口にしただけのうわさ話。それでも、二年生も後半になると、受験の心配も本格的にしなくてはいけなくなる。
準備に準備を重ねても、万が一当日に発情したら? と思うと不安でたまらなかった。強い抑制剤がほんとうにあるというのなら、お守り代わりに入手しておきたい。そう思った。
流石に夜に訪れる勇気はない。だからその街に向かったのは部活も完全休養日の休日だ。
たったひとりで。
とりまきは沢山いたが、どいつもこいつもアルファだ。何もかも話せる相手などいない。幸い勉強と部活に打ち込んでいれば無駄に遊ぶ時間はなく、学校の中ではいつも一緒でも、一歩外に出れば一切関わりを持たない。そんなつきあいが可能だった。とりまきはオメガの自分を隠してくれる隠れ蓑であり、それ以上だと思ったことはない。
昼下がり、太陽の明かりの下に晒される街は、どこか薄汚れている以外は近所の商店街となんら変わらないように思えた。
思い詰めてここまで来てしまったはいいが、目的の抑制剤はどこで買えるのか、皆目見当もつかない。
知らない街は怖い。でも、どうしても受験は成功させたかった。いい大学を出られるのとそうでないのとでは、母に楽な暮らしをさせる計画の難易度が大幅に違ってきてしまう。
とにかくうろついてみよう。
キャップを目深に被りなおし、斜めがけにしたバッグの肩紐をぎゅっと握った。中にはなにかあったときのためにと貯めていた、なけなしの小遣いが全額入っている。
いつも自分がオメガだと悟られないよう、細心の注意を払ってきた。だから冷静さや、周りを見る能力には自信があった。つもりだった。
『――頼んだらすぐやらせてくれるって本当かな』
とりまきのひとりがなんの躊躇いもなく口にした言葉。あのときの不快感の残滓が、まだ体の中に残っているような気がする。
自分に向けられた言葉ではなかった。隣で聞いていただけなのに、こんなに血液の中に漉しても漉しても取れない穢れのような感覚が消えないのだ。もしもあれが直接自分に向けられることになったら……考えるだけでまた耳の奥がざわりとざわめく気がした。
歓楽街の昼だ。ほとんどの店は閉まっているが、所々シャッターが半開きだったりなどして、狂乱の残り香のようなものが漂っている。
そんなひとつの店先で、気怠げにたむろっている一団がいた。何人かは歩道に直に腰をおろしている。どこでも自分の家のように振る舞うことを当然としている、たぶんこいつらはアルファだ。朝までやっているクラブだろう。昼中に目にすると違和感のある派手な色合いと露出度の服。
――いたあい。
そっと避けたつもりだったのに、群れの中からそう声を上げられた。ぶつかっただろうか。仮にそうだったとして、悪いのは歩道にだらしなく座り込んでいるほうだろう。もちろん酔っ払い相手にそんな正論をかざすほど蓮はばかではない。すみません、とおとなしくやりすごそうとしたとき、後ろから強い力でバッグの肩紐を引っ張られた。
――……ッ。
喉元が締め上げられ、息が詰まる。状況がわからずにいるうちに、今度はふっと体が軽くなった。鞄を肩から抜き取られ、突き飛ばされたのだ。
振り返ると、群れの中の男が酔いの気配の残るへらへらとした笑みを向けていた。
――つれないなあ。一緒に遊ぼうぜ。
――ねえこの子可愛い顔してる。高校生? いけないんだ、ひとりでこんなとこうろついちゃって。
この手合いは相手にしないのが一番だとわかっている。鞄を人質に取られていなければ。中の財布には蓮の全財産が入っている。学用品分以外はいらないと何度言っても母が寄越す小遣いを、こつこつと大事に貯めた。
――噛みついてでも取り返す!
サッカーで鍛えた脚だってある。いける。蓮は男たちめがけて頭から突っ込んだ。ひょろりとした風貌とはいえ、体格で勝る男たちはわずかに体を引いて避けたかと思うと、そのまま蓮の腹を蹴り上げた。
――ぐ、……っ。
無様に転がる。痛い、というよりは熱かった。腹も頭も、怒りで激しく燃えているようだった。でも、起き上がることはできない。
かすむ視界の向こうで、男たちが笑っている気配がする。
――子供の来るとこじゃねえんだよ。これは授業料だとでも思っときな。
心底金が欲しいわけではないだろう。自分より弱い者、小さい者を傷つけるのになんの抵抗も覚えない、それがアルファだ。
――ま、て……ッ!
血を吐くように叫んで、あとを追おうとしたときだった。
ぐらっと、突然世界が歪んだ。
痛みのせいかと初めは思った。あるいは、恐怖。
――ちがう。
もっと深いところ、蹴られたところよりももっともっと深い、心臓のもっと奥から突き上げるような動悸に、蓮は思わず膝を折った。
内臓がぐちゃぐちゃにかき混ぜられているような不快感。
出血しているわけもないのに、鼻の奥で鉄さびのようなにおいがする。
体に力が入らない。聴覚も幕一枚隔てたように鈍い音しか拾えないのに、自分の鼓動だけは大きく耳をついた。今にも肉を破って心臓が飛び出しそうだ。薄い胸が動悸に合わせてびくっびくっと痙攣する。
血管の中を粒状の何かが逆流してくるような、堪え難いむずがゆさ。
――ねえ、この子なんか様子が……
――あ? んな強く蹴ってもねえけど。
――なあ、このにおい
男たちが足をとめるのを待っていたように、全身が総毛立つのを感じた。
彼らの顔色が変わる。驚いたように目を見開いていたのは一瞬で、すぐに獲物を狩るのを楽しむ獣のようなそれに変わっていったのを蓮は見た。いや、視界もぼんやりとしていたのに「感じた」のだ、それを。
自分が標的になるのを。
――こいつ、オメガだろ。発情してやがる。
これが、発情?
ぼんやりとしか働かない頭で、かろうじて考える。朦朧としているのに、体の中に、焼いた鉄でも飲まされたような、発熱する核がある。自由は効かないのに、そこだけは激しく主張して、誰かを呼んでいるようでもあった。
激しく犯して、貫いてくれる相手を。
蓮は恋愛をしたことがない。
高校に受かるまでは勉強に必死だったし、受かってからは、アルファの中でカースト一位を保てるように、オメガであることがバレないよういつでも気を張っている。そんな生活の中で、自分以外の誰かに心を寄せることなんてとてもじゃないけど考えられない。
恋さえまだ知らない肉体を襲った発情期の衝動は、暴力的ですらあった。
男たちの視線に激しい嫌悪感があるのに、身動きひとつできない。
自分はうまくやってきた。誰よりも努力してきた。勉強もスポーツも、生まれながらのアドバンテージにあぐらをかいてなんにも努力してこなかったアルファより、優れている自信だってあった。
でも、自分はオメガだと、他ならぬ自分の躯が訴えてくる。
――苦しそう。
――そんだけやりたくてたまらないんだろ。こいつよく見たらほんとに可愛い顔してる。
下卑た欲望のにじむ声が不快に耳を撫でる。意を決して起き上がると、すかさず足を払われた。
――逃がすかよ……
男の語尾には明らかに下卑た欲望が乗っていた。
――おい、おまえら抑えてろ。
ずるずると通路を引きずられる。全身を取り巻く熱で呼吸が乱れ、大声も出ない。代わりにまなじりから涙がこぼれ落ちそうになったとき。
――おまわりさん、ここ、ここです!
突然、そんな声が狭い路地に密集する店の壁にこだました。
見れば、通りの入り口で誰かがこちらを指して大声を上げている。
それがレナだった。
アルファの若者たちは、ちっと舌打ちして通りの反対側に逃げていく。
おまわりさん、と叫んだのはその場の機転だったらしく、実際に倒れた体を助け起こしてくれたのはレナひとりだった。肩を貸されるとき、さらりと長い髪が揺れたから、てっきり女性かと思ったが、どうも様子が違った。レナは蓮に肩を貸すと、力強い足取りで蓮をシャッターの降りたとある店の前まで連れて行く。一旦ここに寄りかかっててね、と降ろされ、シャッターを上げると、中には背の高いガラスケースが置かれていた。朦朧とした意識でもそれになんとなく見覚えがある。こういうものが置いてあるのは。
花屋。こんな街に?
そんな蓮の視線に気がついたのだろう。「夜の街専門の花屋よ」と簡単に説明すると、レナは再び蓮に肩を貸した。店の奥へと運ばれる。花束を作る作業台の簡易な椅子に座らされた。
――もう大丈夫だからね。これ、飲んで。
助けてもらったとはいえ、見知らぬ人間からもらったものを飲んだりなんて。躊躇する間を敏感に感じ取ったのか、レナはそっと囁く。
―発情抑制剤。取り敢えず落ち着かないと話もできないでしょ。
まさしく探し求めていたものだ。考えるよりも肉体が限界だった。奪うように受け取って、錠剤を水で流し込む。
――……げほっ、げほ……
ひとしきりむせている間に、体は嘘のように楽になった。意思に関係なく体内に居座っていた別の生き物が、すっと霧散して消えたように。
――落ち着いた? 怖かったわね。もしかして発情も初めて?
――あの、
――ん?
――薬、売ってください、俺に!
落ちつくなりそう叫んでしまった蓮だったが、レナから聞いた額は、とても高校生に払えるものではなかった。
―国内じゃ無認可の強い薬だからね。どうしても高額になるの。一度始めちゃうと金額が嵩むから、どうしてもっていう覚悟のある人にしか売ってない。
――じゃあ、そもそもなんで扱ってるんですか。
あっさりと譲ってもらえないいら立ちが、声に乗ってしまったと思う。そういう反応にも慣れているのか、レナは困ったように微笑むだけで受け流した。
――ここ、元々はあたしの母親がやっていた店なの。夜に開店する花屋。お店から直接注文が来たり、遊びに来た人が店に行く前に買ったり。忙しかったから、子どもの頃からレジを手伝ったりして……オメガに生まれたせいで身を持ち崩してここまで流れてくる人を沢山見た。
そういうお姉さんやお兄さんはだいたい痩せていて、近くで見ると目の下にクマがあって、だけど仕事が終わったあとには必ず、レナの作った小さなブーケを自分用に買っていってくれたという。
――そしてそういう人の多くは、いつの間にかお店に来なくなった。
だから大人になって引退した母に変わって店を切り盛りするようになったとき、ひっそりと抑制剤を取り扱うようになったのだという。夜の街で人気の薔薇の多くは海外のハブ空港を経由して輸入されてくる。その際に他のものも一緒に積荷に乗せるルートがあるのだという。初発情で憔悴しきった様子の蓮を哀れんでなのか、レナはそんなことまで話してくれた。
――だけど二十年三十年と続けたらどんな副作用があるかはまだ分かってないのよ。運命の番に合ったとき、発情しなくなるかもしれないし。
そんな言葉に蓮は、拳を振り下ろしていた。作業台がどん、と鳴る。
――そんな先の心配してる余裕なんかねえよ!
それから蓮はひと息にまくし立てた。
母が受けた仕打ちを。差別はないと言いながら、実際には誰も罪悪感を覚えないほど日常にしみ込んでいるそれを。見下すことになんの罪悪感もない連中の中で、自分がどんなに張り詰めて生活しているのかを。
語り尽くす頃には息が上がっていた。レナは元々憂いの乗った顔をさらに苦渋に歪めながら、呆れたように「わかったわ」とため息をついた。
――支払いは出世払いでね。そのために変なバイトに手を出したりしたら、本末転倒だから。
最初にすべてをさらけ出したからだろうか。友だちもろくにいない蓮が、レナにだけは赤裸々にいろんなことを話すことができた。薬を買いに行ったついでに他愛もないことを話す。こんなことがあった。こんな奴がいてむかついた。アルファは怠惰で傲慢で馬鹿ばっかりだ―学校では常に仮面を被っている蓮にとって、それは貴重なストレス発散の場所だった。
夜の街生まれ夜の街育ちのレナはさすが人の話をさらりと聞くことに長けていて、蓮の毒舌を諫めながらも非難はしないでいてくれた。
仮に母が元気に生きていたとして、今回の病気のことを蓮は話さなかっただろう。母には余計な心配をかけたくない。だが適度に裏社会を知り、自分のかっこわるい姿も知られているレナには、遠慮しないで済む。
数年前、レナが歓楽街を離れてこのフラワーショップ兼カフェを開いてからは、薬の調達がてらちょくちょく顔を出していて、今日もひとりでは処理しきれない肛門科でのできごとを報告していたところだった。
蓮が母のために買ったタワマンからもほど近く、母もときどき顔を見せていたはずだ。もちろん知り合った経緯は話していなかった。ただケーキが美味しい店があるってよ、と連れてきただけだ。ふんわりとしたシフォンケーキに、季節の花のかたちに絞った生クリームが添えられたプレートは母もお気に入りだった。店の一画でときどき開催されるフラワーアレンンジメントやハーバリウムの教室に参加もしていて「不格好だけど……」と言いながら持ち帰ってきたそれを、蓮はリビングの一番よく見える場所にいつも飾った。母がそういう美しい物に触れていることが嬉しく、救いでもあった。
なんとなく気まずくなってしまった空気を持て余していると、客が入ってきた。レナがすかさず接客モードに入り「いらっしゃいませ」と明るく声を上げる。
日曜だが昼下がりの中途半端な時間、たまたま客は蓮しかいなかった。「お好きな席をどうぞ」と言い終わるのを待たずに、客の男はつかつかとカウンターのレナに詰め寄る。レナの顔が一瞬で険しくなり、すっと蓮の前を離れ、カウンターのより端の方へ男を誘導したのがわかった。
男は椅子に腰を下ろすこともなく不躾に言い放つ。
「薬扱ってるって聞いたんだけど」
「なんのお話ですか?」
「とぼけんなよ。あるんだろ。―発情誘発剤」
はつじょうゆうはつざい?
それは抑制剤の逆の効果ということだろうか。荒唐無稽な言葉に蓮が思わず耳をそばだてる一方で、レナは流石の動じない物腰で男をあしらう。
「そのようなものはございません」
「しらっばっくれんなよ。ここで扱ってるって―」
「お客様、季節の桜のシフォンケーキはいかがですか? はなびらの塩漬けのほんのりした塩気とホワイトチョコのコーティング、それにさくらんぼリキュールの風味をつけた生クリームがおすすめです。あと数日で終わりなので、今が最後のチャンスですよ」
レナがにっこりとした笑顔を顔に張り付かせたままよどみなく告げると、男は「は?」と気色ばんだ。
怒気を孕んだそれを受け、張り付いていたレナの笑みにすっと刃物が入ったように、半目のアルカイックスマイルが浮かび上がる。
「――あまりふざけたこと言うと営業妨害で警察呼びますよ」
女性的なレナの外見から低く冷たい声で告げられると、なんともいえない凄みがあった。
「なんだよ、つかえねえ――」
迫力に押されて怯んだのは蓮の目にも明らかだったのに、男はあくまで虚勢を張って言い捨てると、店を出て行った。
前髪をかき上げてため息をつくレナに、蓮は訊ねる。
「なに、誘発剤って」
「抑制剤があるなら誘発剤もあるだろって、言ってくる奴がたまにいるのよ。今月はもう二人目。やんなっちゃう。そんなのあったとしても扱わないっての」
仮にあったとして、どう使うのか察しもつくというものだ。それをしゃあしゃあと求めてくるのが凄い。
レナ同様げんなりしつつ、蓮は懐から封筒を取り出した。
「これ、今月の分。俺はもちろん、抑制剤のほうだけど」
レナは封筒を受け取ると、一見コーヒー豆の袋にしか見えない包みをカウンターに置いた。受け取ろうとしたところで、心配そうに訊ねる。
「何度も言うけど、体調悪いときに服用するのは勧めてないからね」
「体調たって、ただの軽い痔だよ」
たぶん。診察の途中で抜け出して来てしまったから、本当は少し気がかりだったりもするが、一連の屈辱的な出来事を思い出せばセカンドオピニオンを取る気にもなれない。
レナは再びため息をついた。
「ねえ、そろそろちゃんとしたパートナーを作りなさいよ、蓮。そしたら、不規則に突然発情することもなくなるんだから」
「……今はまだ考えられないよ」
アルファ然として生きていく暮らしは大変で、そんな心の余裕はない、とは高校生の頃すでに話してあったし、今は母を失ったばかりだ。控えめなトーンで応じると、察しのいいレナは顔を曇らせる。
その隙に蓮はカウンターの包みを奪ってコートのポケットにしまい込んだ。
「あ、もう!」
「説教は今度ゆっくり聞くって」
さっき気まずくさせてしまった分を取り戻そうと、ことさら軽やかに告げる。
「じゃ、そろそろ行かなくちゃだから」
「あら、どこか行くの? そういえばいつもよりちょっとめかしてると思った」
「同窓会。高校の」
卒業してからそんなものには一度も参加したことがなかった。
どこからどう情報が出回るかわからないし、それこそ恋人の有無を訊かれるのも煩わしかった。うっかりボロが出てしまうのも困る。
だから今回も早々に欠席の返事をしてあったのだが、今朝になって急遽幹事に連絡を入れてみたのは、ここのところの不運の連鎖が少しは緩和されるかと思い立ったからだった。
初発情の苦い記憶を除けば、蓮の高校時代は輝いていたといっていい。
オメガでありながら成績はトップクラスを常にキープし、スクールカーストの頂点に立った。同級生からも後輩からも、時には先輩からも羨望の眼差しを惜しみなく受けた。
一ノ瀬はなにやらせても凄かったよな。え、今あの会社にいんの? ――素朴で素直な賞賛を全身に浴びて、ここ数日で消耗した分を取り戻したい。
幸い幹事からは「ホテルで立食だからひとりぐらいどうとでもなるよ」と返信が届いていた。あらぬところの病気の方も、今のところ市販の痛み止めで大人しくしてくれている。
「最近ろくなことがなかったから、ちょっとちやほやされに行ってくる」
「あんたも大概ね。さっきまでへこんでたかと思ったら」
「自分でアンガーマネジメントできるの偉いって言って欲しい」
席を立ち、お茶の代金を支払おうとすると「今日はいいわよ」とレナは言う。母親を亡くした上に恥ずかしい病を患ったことへの気遣いだろうか。
「払うって」
固辞しようと思ったが、ドアの外に客の気配があるのに気がついた。いつまでも問答を続けるのも邪魔だろう。
「じゃ、ありがと」
蓮はお茶の代金をレジ横の保護猫の募金箱に突っ込む。なにか言いかけたレナもそれで妥協してくれたのか、困ったような笑みで見送ってくれた。
「え、ちょっと待って、一ノ瀬くん?」
「えっ、一ノ瀬? マジで?」
「うっそ、初参加じゃない? やだ、元気にしてた?」
「嬉しい~! 正直今日はどうしようかと思ってたんだけど、来て良かったー」
同窓会の会場に足を踏み入れるなり、元クラスメイトたちがシャンパングラスを手に入れ替わり立ち替わり寄ってくる。うわずった声の一言一言がきらきら光を放つようで、疲弊しきった身には沁みた。
これこれ。これだよ。俺がいるべき世界。
「どこで仕事してんだっけ?」
問われて会社名を告げれば「え、最近よく聞くあそこ? マジで?」とまた座が湧いた。
「一ノ瀬優秀だったもんなー。納得って感じ。俺なんかまだ修業先で本社に戻してもらえないし……」
としおらしく言ってみせるのは、よくつるんでいた連中のひとりだ。確か、そこそこの企業の御曹司。一旦外に出されたのなら殊勝なことでと思う。どうせ将来は安定してるくせに、つまんねー愚痴言ってんじゃねえよばーか―という言葉は、フルートグラスに注がれたシャンパンと共に飲み干した。
そんなことにはまったく気づかない様子で、お調子者のとりまきはさらに訊ねてくる。
「今どこに住んでんの」
「ああ、――沿線」
「どの辺?」
「駅の上。直結だから」
「買ったの? すげ――」
予想通りの賞賛を引き出せて満足する。そうだろ、俺は凄いんだ。あらぬ病を患ってしょぼくれてるほうが非日常なんだ。今はたまたまちょっと調子が悪いだけなんだ。
「遊びに行かせろよ」
「今度な」
嘘だけど。
約束が具体的になっても困るから、この辺でこの輪からは撤退するかと思ったとき「一ノ瀬?」と背後からさらに声をかけられた。
「なんか一箇所だけやけにきらめいてんなーと思ったら、おまえか」
愉快そうに笑みを含んだ言葉に振り返る。
長身の男が立っていた。引き締まった体に流行のスーツがよく似合って、自分こそ人生で一度も卑屈になったことなどありません、という顔できらめいている。自分がそうだからこそ人にも軽口をたたけるのかもしれない。
その名を思い出した。
「九条くじょう」
九条もまた、華やかなりし高校時代に教室でいつもつるんでいた相手だ。
「九条くん?」
「ツートップがそろうなんて凄ーい。今日はほんと特別だね」
元女子生徒が、ぴょんぴょんと跳ねる。盛り上がりに気がついて、散らばっていた視線が一層集中する。当時の取り巻きのひとりが言った。
「九条も久しぶりじゃね?」
「ああ、しばらく仕事で海外行っててさ。ほぼ行きっぱなし」
「凄いな」
「そんないいこともないって。うち若い奴から出されんだよ。体力と適応力あるだろって、先入観だけで無茶振りされんの。会長が死んで家の事情が変わったら今度は戻って来いって振り回されるしさ。……一ノ瀬、久し振り」
賞賛を軽くかわして、九条はすっと手を差し出した。昔からこういう気障な仕草が絵になる男だった。
「元気そうだな。大学行ってからも全然会ってなかったから……何年ぶりだっけ」
ぎこちなく手を握り返しながら詫びる。
「学校忙しくて」
「おまえ高校のときから真面目だったもんな」
九条はふっと笑う。口元から軽く漏れる吐息が、厭味ではなく爽やかに響く。
高校は勉強が忙しかったし、授業、部活と拘束される時間が長い。その合間を縫ってかつ気づかれずバイトを入れるというのは無理な話だった。大学生になり、友だちと言ってもすべての授業が一緒ではないという距離感になると、蓮は勉強以外のすべての時間にバイトを詰め込んだ。もちろん薬の支払いと生活費の足しにだ。高校時代に同じクラスだったほとんどの奴らとは大学が別になったから、それを知られているはずもないが、なんとなく緊張してしまう。
ツートップ、とクラスメイトたちが言うように、九条と蓮は勉強でもサッカーでも常に一位を争うような間柄だった。実際初等科から同じ学校に通っていた九条は、高等科で蓮に出会うまではずっとカーストの頂点だったらしい。
そういう男とクラスメイトになってしまったと知ったとき、少し面倒だなと思った。変に対抗心を燃やされて、身辺をかぎ回れても面倒だ。
だが実際には九条は嫌がらせをしてくるようなこともなく、ごく自然に同じグループになると、ナンバーツーの座にすんなり収まった。
金持ち喧嘩せずってやつか? などと、古い言葉を思い出したりしつつ、なんとなく卒業まで校内でずっとつるんでいた男。アルファの輪の中心にいる自分を、オメガだと気づかれないためのちょうどいい隠れ蓑。九条はその中でもとりわけゴージャスな蓑だった。さらりと「会長が死んで」などと言えるのも、それが自分の祖父だからだ。誰でも名前を知る大企業会長の内孫。
「どこで働いてるんだ?」
「――だって! 最近よく名前聞くよね。凄いなーって今みんなで話してたとこ」
頼んでもいないのに、同級生が勝手に答えてくれる。
「へえ」
九条が軽く目を見開く。
「家もタワマン買ったらしいぜ。今度押しかけるって話してたとこ」
「もう自分の稼ぎで家? 凄いな一ノ瀬は」
自分だって相当稼いでいる様子なのに、九条は手放しで褒め讃える。それを懐かしくも心地良くも感じながら、いやいや、とかたちだけ謙遜しようとしたとき、
「そういえばさ、この子結婚したんだって」
着飾った女が話の流れを無遠慮にぶった切った。とはいえ、遊びに来る来ないが具体的になるのも面倒だったので、半ば感謝しつつ「うそ」と目を見張ってやる。
「そうなのー。まだ早いかなとも思ったんだけど」
頬を染めつつフルートグラスを両手で支えるその指に、きらりとシンプルな指輪が光る。
「おめでとー」とその場にいた全員が声を重ねて、家の話をしていた奴の気もうまいこと逸れたようだった。
「さっさと結婚しゃちゃった組も結構いるよなー。あいつと、それから……」
男は指折り数え上げていく。幹事を重ねていると自ずと詳しくなるんだろう。
こえー。来年から参加するのやっぱやめとこ……
そんなことを考えていると、突然訊ねられた。
「おまえはどうなの」
「そうだよ、もう家はあるんだから、あとは身を固めるだけじゃん」
時代遅れの職場のおっさんみたいな口調だ。こういう場面で口にする言葉なんて案外進化しないものなのかもしれない。うまいこと逸らしたつもりの話がもっと厄介なかたちになって戻ってきて、蓮は内心舌打ちした。レナといいこいつらといい、どうも今日は焼かれたくない世話を焼かれまくる日らしい。
「一ノ瀬は今パートナーいないの?」
フルートグラスに唇を寄せながら、九条が訊ねる。口調はまるでエレベーターの中で居合わせた同僚に「今日雨になるんだっけ?」と訊ねるような、ごく軽い物だった。
今どころかずっといないなんて、常にトップを争って来たこいつには想像も出来ないことなんだろう。
動揺を悟られないよう、渋い顔を作って見せた。
「うーん……今はまだ仕事が楽しいからなあ……」
こういうとき、一番無難だと思われる答え。案の定女たちが「やだ一ノ瀬くんかっこい~」と勝手に盛り上がってくれる。百点満点だろ、と思いつつ、ふと冷めた気持ちになった。
こじゃれたバンケットルームいっぱいの、華やかに着飾った元クラスメイトたち。その立ち居振る舞い、身につけている物から、どいつもこいつもそこそこの生活を送っていることは想像がつく。その中で中心にいる自分。
――だけどこの中の誰ひとり、本当の俺を知らない。
だけど同時に「いや、本当の俺って?」という声も自分の中から聞こえてくるのだ。
ここが、このきらきらした世界の真ん中がおまえの立ちたかった場所だろう。
だったらここがおまえの望んだ世界のはずなのに、いったいなにが不満なんだ? と。
黙り込む蓮に誰も気づかぬ様子で、話の中心は再び結婚した彼女に戻っていた。
「幸せそうじゃん」
「うーん、まあ、そうかな~。今のところはね」
謙遜しながらも応じる彼女の表情を内側から輝かせているもの。それが仮に愛とかいうものなら、自分がそれを手にすることはあるんだろうか。
パートナーを作りなさいよ、とレナは言う。ずっと発情を押さえつけてきた体のためにも、それが一番いいのはわかっている。
だけど――
オメガの恋愛は難しい。「表向き」差別がなくなったばかりに、相手が本当に偏見のない人間なのか見極めるのが難しくなっているのは、皮肉な話だった。
飲み過ぎただろうか。なんだか足元が心許ない。手入れの行き届いた絨毯が敷き詰められているはずの床に突然ぽっかり大きな穴が開いたような、奇妙な浮遊感。
なんだろこれ。なんか吐きそう。
ジェットコースターの一番高いところから落ちる瞬間みたいだ。高いところに連れて行かれて突然足場を失ったとき、ぐっと胃の底を絞られるようなあの感じ。
薬のせいだろうか。なんだか目もよく見えない気がして喧噪の中から抜け出そうとしたときだった。
「――一ノ瀬」
華やいだホールにはひどく不似合いな低い声が、名を呼ぶ。
どこか聞き覚えのある、不穏なのに不思議と好ましい声―と思ったときにはもう、フルートグラスを持つ手首を鷲掴まれていた。
「なにやってんだおまえは……っ!」
走ってきたのか、癖毛をいっそう振り乱し、なじるような口調で詰め寄ってくるのは―昨日診察途中で逃げ出してきた、あの肛門科医だった。
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