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第3話

  え、   なんでこいつが、ここに?    問診票に住所は記入したけれど、だからといって今日この場にいることまではわからないだろう。   まさかずっとつけられていた? ストーカー?   え、だったらマジでやばい奴――  さーっと血の気が引いていく。パニックでくずおれそうになる蓮の体をぎりぎりのところで支えたのは、 「あれ、真島?」  という九条の声だった。  呆気に取られていた周囲の連中からも、ふっと緊張の気配が消えていくのがわかる。 「あ、ほんとだ真島だー」 「今日ほんと珍しい人みんな来てんね」 「ってか、高校のころももさっとしてたけど、今もいっそうもさっとしてんなー」 「え? え?」  クラスメイトたちの顔に広がっていく安堵と愉快そうな笑み。完全に取り残されて戸惑う蓮に、九条が笑いかけた。 「真島だよ。クラスにいた」 「ああ! ……ああ……あ?」  いた? クラスに?  記憶の中をたどってもたどっても、まったく思い出せない。変態医師がいい気分のところで突然目の前に現れただけでも驚きなのに、クラスにいたとはどういうことだ。  その様子に、クラスメイトたちが笑う。 「一ノ瀬ひっで」 「仕方ないよ、真島くん地味だったし。一ノ瀬君たちとは接点ないもん。まあ、それでもさすがに覚えてないってことはないよね~」  意地悪な響きを含んだ女子の言葉に思わず他のとりまきの顔を見渡すと、みなそれぞれ肩を竦めた。  くそ。孤立無援か。  たしかに、クラス全員を覚える努力をしていたかと言われると、答えは否だ。  自然と一緒にいることになったカースト上位のアルファたちの前でボロが出ないよう、学力が落ちないよう、心血を注ぐので手一杯で、いつでも教室の隅にいるような奴にまで注意を払ったことはない。  話の断片を組み合わせて推測するに、真島がクラスメイトだったことは間違いがないようだった。なんということだ。あんなに必死に調べて調べまくって行ったのに、よりによって元クラスメイトのところへのこのこ赴いてしまうとは。  この俺にそんな下手を踏ませるなんて、頭文字D恐るべし。内心苦虫をかみつぶし、はたと気づいた。  てか、俺、元クラスメイトにあらぬところを見ら……っ?  出来る。今なら恥ずかし死出来る。なんなら爆死。  そう思うほど体中の血管がびくびく痙攣する。メンタルとフィジカルがこんなにも密接に繋がっていることにびびっていると、そんなこととも知らないクラスメイトたちが真島を取り囲んで矢継ぎ早に質問を浴びせかけていた。 「で、なんで真島まで突然?」 「あ、そうだよ。おまえいつも返信も寄越さないから今回も普通に不参加で処理してたよ。まあ全然それはいいけど」 「ところで真島は今仕事なにしてんの」 「たしかお医者様になったって聞いた気がする。何科――」 「あー!」  蓮は叫んだ。  言うことをきかない体が、そのときだけは素早く反応して、自分でも驚いた。吐き気もいつの間にか消し飛んでいる。 「思い出した。そう、真島!」  嘘だけど。  質問の隙を与えないよう、真島の肩をばんばん叩く。 「いやー、懐かしいな!」  嘘だけど。 「今来たんならまだなにも喰ってないんじゃないか? 早くしないとなくなるぞ、ほらっ」  長身の背中をぐいぐい押して、輪の中を抜ける。少し不自然だったかもしれないが、誰もわざわざあとを追ってはこなかった。クラスメイトの存在をすっかり忘れていた、というか、認識すらしていなかったという失態を必死で取り戻そうとしているとでも思ってくれたのかもしれない。両親から愛され、その能力を惜しみなく評価されることに慣れているアルファが多く集う高校の連中は、変なところで人がいい。  一応は料理の並ぶテーブルの前を経由して、取り囲んでいた連中の視線がすでに逸れていることを遠目に確認すると、そのまま廊下にまで真島を押していく。  最初とは逆に今度はこっちが奴の手首をひっ掴んで、手近なトイレに連れ込んだ。念のためさらに個室の中に押し込める。 「おい、なにす……」  背中を個室の壁に打ったのか、真島が不満げな声を上げる。かまっている余裕はなかった。 「……ぢ、痔だなんて、知られたくない。この俺が」  俯いて、もそもそと告げる。変態医師でクラスメイトで、突然訪ねてきて。なにから解決したらいいのかわからないが、とにかくまず口をついて出たのはそれだった。 「脅し目的なら――」  ガン、  ――耳元で突然大きな音がして、蓮は思わず身を竦めた。  真島が背後の扉を拳で殴ったのだ。 「ばかかおまえは……!!」  心底そう思ってるということが伝わってくる、唸るような声だった。  覇気のない熊だった体から、怒気があふれ出している。狭い空間だということもあるのだろうが、伝わってくる圧に文字通り圧倒されそうになって怯えつつ、その奥からなにか別の衝動が顔を出しそうな気がして、蓮は「な……なんだよ」とかろうじて虚勢を絞り出した。努力に反して声がかすかに震えるのは、どうにもできなかった。  気づくな、と念じたが、この距離ではそれも無駄だったろう。馬鹿にされる。笑われる――身構えたとき、真島の体から不意に怒りの気配が消えた。  頭ひとつ分高いところから、はあ、といら立ちを無理矢理押し込めたようなため息が降ってくる。 「……守秘義務くらいわきまえてる」  あの傷のある甲で呆れたように額を抑えると、前髪の下の瞳がわずかに覗いた。意外に鍛えられた体から発せられる怒りを感じたときにも思ったが、覇気のない熊の割には妙に色気がある。だがそれもすぐもさもさの前髪に隠れてしまう。  あ、と思った。見えなくなるのが惜しい。  え、なに言ってんの俺。  非常事態なのにそんなことを感じた自分に動揺する。  その奇妙な感覚を打ち消すように詰め寄った。 「じゃあ、なんの用だよ」  高校時代ぶいぶい言わせていた奴が実はオメガで、しかも恥ずかしい病気。それをネタにしに来たのでなければ――「つき合え」のほうか。  それはそれで青ざめていると、真島は言った。 「俺は医者だ。診察の途中で飛び出していった奴を放っておけると思うのか?」  口にされなかった「ばかかおまえは」が語尾に見えそうな、冷ややかな口調だ。 「同窓会の案内が来てたなと思っていちかばちか来てみたら、酒なんか飲みやがって……」  それで「なにをやってるんだおまえは」か。これは、意外にも職務に真摯ということなのか。  一瞬感心しそうになったが、いや、そもそもと思い直した。 「お……おまえがおかしなこと言うからだろうが」  しかも、あんな格好のときにだ。  ぬるぬるしたものを塗られて、あらぬものをあらぬところにつっこまれているときにだ。  本人を前にすると、金土と震えて眠ってどうにか癒やした傷など簡単にかさぶたが剥がれてしまう。屈辱で悶死しそうになりながら蓮は、真島の胸をどんと叩いた。 「――俺が、オメガだから、ああいうこと言っていいと思ったのか」  その憤りは、震えながらずっと頭を離れなかった。  薬の飲み合わせがあるから、病院では属性を問われることもある。真島医院の問診票に、蓮は迷った末オメガである旨を記入していた。初めて罹る病気だったから、正直に申告した方が早期治療に結びつくかと思ったのだ。医院のネットでの評判は上々で、信用に値するだろうともあのときは思っていた。 「ああいう?」  察しの悪い相手にいら立ちながら、蓮はその言葉を口にした。 「つ、つき合え、とかだ」  ――オメガ高の連中って、言ったらすぐやらせてくれるんだろ?  高校時代の仲間の言葉が耳の中でよみがえる。  あの頃だってすでに、差別はなくなったと言われていた。言われていたのだ、あれで。  さらにあれから十年近くが経って、それでもまだオメガは尻軽で淫乱という間違ったイメージは巷から完全には消えていない。  医者の間ですらか。  どんなに頑張って勉強して、いい大学にいっていい会社に就職しても、結局生まれついた属性ですべて判断されてしまうのか。  母は、オメガでありながら幸福であることをアルファの義姉に嫉まれて婚家を追い出された。その後の苦労がなければ、病気になることはなかったのではないか。仕事だって、突然異動を言い渡されたのは、オメガだってバレたからじゃないのか。  そのうえ医者にまで。  なにが守秘義務はわきまえてる、だ。  真島の胸に叩きつけた腕が震えた。頽れそうになる背中をトイレのドアに預けて、どうにか保つ。  悔しい。俺はなにも悪くないのに。たまたまオメガに生まれついただけなのに。なんで心無い言葉に怯えたり、突然襲われそうになったりしなくちゃいけないんだ。  真島は長いこと黙っていた。震える自分を見下ろしている視線を感じ、ここを飛び出してしまいたいとも思ったが、ドアと真島の間に挟まれて身動きが取れない。  沈黙は長かった。  やがて、ふう、とさらに深いため息が個室の中に響いた。 「あれは……、診察のあとちょっとつき合えという意味だ」 「え?」 「問診票を見て、高校のとき同じクラスだったあの一ノ瀬だとすぐに気がついた。でもうちはああいう科だからな。気がつかないふりをするのがいいかと思った」 「そ、そうなのか……?」  予期していなかった言葉に、おそるおそる面を上げる。  あのとき、確かに「俺と」と言ったように思ったのだが、自分の聞き間違いだったのだろうか。  聞き間違いなんて、するか? この俺が。  とはいえ「あらぬところにあらぬものを突っ込まれて、あらぬ格好をしていた」ときだ。かなり混乱していたことは否定できない。 「おまえは俺を認識すらしてなかったようだがな」  渋い声で淡々とそう付け足されると、さすがに申し訳なさがあった。 「しらないふりで話を聞いてたら、忙しくて飯はろくなもの喰ってないというから、元クラスメイトのよしみで食事の指導からしてやろうと思ったら、逃げた」 「いやでもあんな状況で。せめてパンツは履かせろよ!」  ものごとには順序というものがあるだろう。まずパンツ、それから会話だ。  それとも、そんな順番をすっとばしてでも心配だったということだろうか。存在を認識もしていなかった、ただの元クラスメイトのことが?   もしやこいついい奴なのか? と見上げた先で真島は言う。 「診察は途中だし薬も受け取らずにいきやがって。医者に一度手がけた患者をほったらかしにさせるな。寝覚めが悪い」  なんだ。ただ自分の腕に酔ってるマッドな医者か。  蓮はなぜか面白くない気分になり、ふいと顔を背けた。 「見たとこ軽度なんだろ。市販薬でなんとかする」  のこのこ出て行って、またあんな思いをするのはごめんだ。それに、接点のある奴にオメガであることを知られてしまった気まずさはやっぱりある。できることならもう会いたくなかった。あくまでも自分は、アルファのイメージのままでいたいのだ。クラスで人気の一ノ瀬くんのままで。  そんな気持ちはお見通し、といった間で、ぼそりと声が降ってくる。 「言っておくが、痔は自然治癒しないぞ」 「病名をはっきり言うな! ……自然治癒しない?」  さらっと恐ろしいことを言われた気がする。真島の目は相変わらずもっさりとした前髪の奥に隠れていたが、はっきりとわかるように頷いてみせた。 「おまえの場合痔核がだいぶ深いところにあるから、市販薬だけじゃ――」 「だから生々しい話すんなって!」  思わず大声を上げてしまい、蓮ははっと我に返った。気配を殺して耳を澄ます。他に客が入ってきたらことだ。真島は構う様子もなくさらに訊ねてくる。 「今は痛みはないのか?」 「だ、大丈夫だ」  嘘だった。  痛み止めを飲んではいたが、シャンパンを飲んだ辺りから「奴」がじくじくと主張を始めているのに気がついていた。  久し振りに自分のもっとも輝かしい時代を知っている連中に会ってちやほやされ、グラスも進んだから、だいぶアルコールが回っているのだろう。  嘘がバレているのかいないのか、真島はさらに追い打ちをかけてくる。 「今はまだ痔核がひとつだからいいが、放置しておくとだいたい三時と七時と十一時の方向に複数出る」 「……え?」 「学生時代の覚え方は『三時のおやつはセブンイレブン』だ」 「心底いらねえその情報」 「とにかく、酷くなれば当然それだけ便の通り道は狭くなって――」  あとは、わかるな? とばかりに沈黙を作られた。  嘘だろう。ひとつでもこんなにじくじくするのに、これがあとふたつ? 想像しただけで気が遠くなりそうだ。  さっきとは別の感情でぷるぷる震えていると、真島はまたため息をついた。ため息ごとに「このばかが」と言われている気がする。 「なってしまったものは仕方がない。早い内に専門家に相談するのが一番賢いやり方だろう。俺は職務を全うできる。おまえは治る。win-winてやつだろう。なにが不満だ。恥ずかしがってる場合か。来週早々にもう一度来い」  もっさりと覇気のない熊のくせに、治療を迫る口調は強引なものだった。たとえ自分の実績の為だとしても職務に忠実なことは間違いないだろう。  だがこんなとき、正論を淡々と語られれば語られるほど気持ちは頑なになるものだ。 「だから、仕事が忙しくて……」  言いかけた言葉を奪うように真島がさらに重ねてくる。 「ああ、自慢の有名企業勤めなんだったな」  クラスメイトたちの話が聞こえていたんだろうか、どことなく底意地の悪い言い回しだ。そしてそれは、確実に蓮の一番弱いところをついてきた。 「自分の健康管理もちゃんと出来るのがエリートってもんじゃないのか?」 「うるせえな、行くよ。行きゃあいいんだろ!」

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