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日誌・1 日常と非日常

殺し屋とのアパートでの逢瀬から、時間を少し遡る。 「バイト、まだ体力は残ってるか」 仕事終わりに、帽子を目深に被った男が、愛想も何もない声で言った。 男の名は八坂雪虎。有限会社アマクサ美装の社員。 性格か、態度は、ひたすら無骨。 しゃがんでバケツを重ねていた青年が、何かを察した態度で顔を上げる。 「もう夕方っスけど…そう聞くってことは、深夜の仕事、入ったんスか、トラさん」 軽い調子で返事をしたバイト青年が、筒井真也だ。 今年大学二年生。良くも悪くもイマドキの若者である。童顔で、どちらかと言えば可愛らしい顔立ち。耳に束で埋まっているピアス。 その割に、こういう仕事をバイトに選択するあたり、ただ軽いだけのお調子者でもない。 そういう相手が、他人事めいた態度で、大変だなぁと言いたげに見上げてくれば、大概の者は断りたいのだろうと判断する。 雪虎もそう判断し、あっさり引いた。 「いやならいい」 たちまち、慌てるバイト。 「まさか。ついて行くっス。あの仕事、割がいいんで」 どうやら、もったいぶって恩を着せるか、給金を上げてもらおうとしたかのどちらかだったようだ。 「なんの話です」 がちゃがちゃ、モップを数本束ねて持ってきたのは、のっぽのにやけた男だった。 三人揃って、灰色のツナギを着ている。背中には『アマクサ清掃』の文字。 三人目の男は質問した直後、なにやら察した態度で自身の顎を撫でた。 「ああそうか、話したんですね、トラ先輩。今夜の仕事、バイトくんも来るのか」 前半は雪虎に、後半は真也に。言って、飄然と笑った。 彼は山本浩介。 笑えば、たちまち、垂れ目が人当たりのいい空気を醸し出す。 雪虎に対するよりも、気楽な態度で、真也は胸を張った。 「微力ながら戦力として頑張るッス」 場所は、街中でも、駅に近いビルの五階フロア。 回収された掃除道具を小型の手押し車に乗せ、一人、エレベーターへ向かいながら、雪虎。 「俺は片付けに回る」 「はい」 素直に頷く浩介。対して、真也は。 「え、でも」 しゃがんだまま唇を尖らせる。気にせず、雪虎。 「後輩はバイトを連れて完了報告と挨拶を頼む」 「はい。行くぞ、バイトくん」 「けど、オレらの中でトラさんが一番上なんだから挨拶は…」 「来い」 遊びのない声で浩介に呼ばれ、言いさした真也の言葉は途中で止まる。 大きく息をつき、立ち上がった。 「分かってるっス。事情が事情ですもんね」 「あの人のは仕方ねえにしても、お前は目上相手の挨拶にはちったぁ慣れろ」 同僚の言葉を背中で聞きながら、雪虎はエレベーターに乗った。 一人になって、少し気が抜けたのか。 視界を覆う帽子のつばが鬱陶しくなって、少し持ち上げる。 閉塞感が少しなくなり、雪虎は大きく息を吐いた。 …疲れで、ぼんやりしていたかもしれない。 気が付いた時には、エレベーターのドアが開く最中だった。 その向こうに人影を見た雪虎は慌てて帽子を元に戻した、が。 向こう側にいた女子社員二名が、生理的嫌悪感に顔を歪めたのが見える。 蒼白になった彼女たちは、ぱっと雪虎から目を逸らした。 直後、雪虎に道を開けるように、もしくは避けるようにエレベーターの前から左右に飛びのく。 汚物を前にしたのと似た態度だ。 醜悪なものをこれ以上見たくない、そんな様子で彼女たちは雪虎に背中を向けていた。 帽子のつばをおさえ、顔を隠すように、雪虎は会釈しながら二人の間を通り抜けた。 背後から声が追ってくる。 ―――――あの人、美装会社の人? ―――――自分を先にきれいにすべきだと思うけど。 手押し車の鼻先を裏口に向けたところで、 「あら、アマクサさん」 顔見知りの事務員が声をかけてくる。 ふっくらした体形で温かな雰囲気の、年配の女性だ。 「…こんにちは」 「はい、こんにちは」 ぼそぼそ呟き、小さく会釈した雪虎の薄暗い態度に、不快気になることなく、にこにこと近寄ってきた。 「…もしかしてウチの社員が失礼を?」 雪虎の背中越しに、エレベーター側を見遣った彼女がひそやかに尋ねるのに、雪虎は首を横に振る。 「いや、逆に申し訳ないです」 「そんなことないわ。第一、あなたの場合」 雪虎が隠すようにしていた顔を抵抗なく覗き込み、彼女は不思議そうに目を瞬かせた。 「きちんと見れば、あなた、かなりの男前だし、清潔なのに」 すぐ、彼女は苦笑する。 「まあ、最初は彼女たちと同じ反応をした私が言えたことじゃないけどね」 雪虎は目を逸らした。 彼女から距離を置き、さらに帽子を深くかぶる。 彼の態度に、事務員は逆に心配そうな顔になり、首を傾げた。 「実際、ソレはどうしてなの? 雰囲気って言うのかしら…最初に見た瞬間はあなたがすごく…その、醜く見えるのは」 ―――――呪いじゃない? 言いにくそうな事務員の言葉を聞くなり、昔言われた言葉が雪虎の記憶の底から蘇った。 「慣れたら、そういうものだって言うのは、分かるから、最初の時ほどの抵抗はなくなるのにね。あなたも大変ね」 人は、美しいものなら何度も見たいと思う。だが、醜いものは? …こうだからこそ、外部への対応を、雪虎は避けている。 「あの」 雪虎もまた言いにくそうに、彼女へ返した。 「俺は慣れてるので大丈夫です。ただ、その、…あなたは大丈夫でしょうか」 「え?」 「顔色が、悪い、です」 自分のせいでなければいいが。 言うなり、事務員は、驚いたように目を瞠り、子供を慰める態度で柔らかく微笑んだ。 「あらやだ、違うのよ。これはね、…実は母の体調が悪化してね。ここのところ、休みのたびに地元へ帰ってるから疲れがたまってるのよ」 「…入院、してるんでしたね」 「そう」 覚えてたのね、と彼女は小さく頷く。 「父じゃ頼りないし、子供は私しかいないから、近いうちにここの仕事を辞めて地元に戻るつもりなの」 「辞められるんですか」 「アマクサさんが次来る時にはいないと思うから、今日はその挨拶にと思って声をかけたのよ」 「…寂しくなります」 本音で、しみじみと雪虎。 なにせ、彼の体質、というべきか、そういうものを受け入れた上で気さくに話してくれる相手と言うのは貴重なのだ。 また、二言、三言、挨拶を交わして、深くお辞儀をし、雪虎は彼女と別れた。 裏口に出れば、既に他の二人が待機している。 それを見て、雪虎は足を速めた。 「待たせたか」 「いえ、逆に良かったです」 言いながら、浩介がポケットから鍵を取り出した。 「おれが車のキー持ってたんで」 バンの後ろのドアを開けながら、真也がいつもの調子で雪虎に言った。 「もしかして、帰りにあのふっくらした事務のおばさんに捕まったんスか? あのひと、トラさんのことお気に入りだからー」 三人揃って車に道具を積み込みながら、雪虎は小さく嘆息。 「その通りだが…あの人は、近いうちに家の事情で仕事を辞めて、地元に帰るらしい」 「それは…」 浩介が眉をひそめた。 「いい人だったのに、残念です。そうなると、ここの会社の雰囲気も少し変わってくるでしょうね」 「やりにくくなるのは勘弁してほしいッス」 うへえ、と真也が舌を出したところで、積み込みの終わった雪虎がドアを閉める。 「運転はおれが」 鍵を持った浩介が運転席へ乗り込むのに、他の二人も続いた。 雪虎が助手席に、真也が後部座席に。 「今から直行ッスか?」 真也の質問に、雪虎が頷いた。 「急な依頼らしいが、時間に厳しいクライアントでな」 「了解です」 浩介が車のエンジンをかけると、背もたれにもたれかかった真也が大きく伸びをして、ふっと真顔になって呟く。 「んじゃ、殺人現場にGOっスね」

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