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日誌・3 取引のはじまり
雪虎は今年で二十八歳になる。
経歴はと言えば、…ありふれたものだ。
最終学歴は、大学。
世間では三流と言われるなりに、幸い一浪もせず卒業した。
そして、あぶれることなく就職。海辺の町で、大手とも言える造船会社だった。
このような体質であったのに、運が良かったと思う。
早速、嫌気がさしていた家を出て、普通のサラリーマンとしての生活を始めた。
何もかも、順調に動いているように見えた。
その矢先。
もともと問題が山積していた雪虎の実家に、特大の爆弾が落ちるような出来事が起きた。
―――――どうにかならなかったのか。
その出来事は今も、雪虎を苛む悪夢だ。
結果実家に戻り…言い訳に過ぎないが、しばらくまともに会社勤めができる状態でなくなった。
そんな経緯で、最初の会社は数ヶ月もせず、辞めている。
アマクサ美装は二度目の会社だ。
入社時はほとんど潰れかけていた。会計は火の車の自転車操業。
あと二年も保つかどうかの状態だった。面接時に、経営側が状況を赤裸々に語ったのは、やけっぱちもあったろうが、わずかな誠意でもあったのだろう。
そんな状態で従業員の募集をかけたのは、状況を悟った従業員がいっきに辞めて、かなり困っていたからのようだ。
―――――どうにか給料は捻出するけど、立つ鳥跡を濁さず、引き払う方向で仕事を進めるから、正社員になりたい、とか、長く勤めるところを探すなら、他を勧めるよ。
それでも。
その頃、精神的に疲れていた雪虎には、誰かの役に立てるという状況は、幾分かの救いになった。なにより。
追い詰められた状況でも、どんな建前も嘘もなかった相手の対応が、信頼できた。
それに、こんな体質の人間を雇い入れてくれたのだ。
雇われた以上、真面目にやって、せめて技術は身に着けようと先輩から黙々とノウハウを学んでいた矢先。
夜間、仕事に入った企業のビルで―――――その出来事は起きた。
確か、そこは画廊か何かが一階に入っていた小綺麗な街中の建物だった。
今その場所には、海外の化粧品会社が入っているが―――――当時は、雪虎が見てもよく分からない絵が整然と並んでいたと記憶している。
当時在籍していた会社の先輩は、皮肉気にこう言った。
―――――一階はよくない取引に使われているから、近寄らない方がいい。まあ、そもそも貧乏人にはお呼びがかからねえけどな。
どんな取引だかは聞いていない。だが、その言い方からして、おそらくは、莫大なカネが動く取引なのだろう。
とはいえ。
お呼びも何も、通常なら残業している社員も残っていない時間帯だ。
ビルの中、三階で雪虎は先輩方と共に割り当てられた仕事に励んでいた。
そんな最中だ。
急に、ビルの中が明るくなり、にわかに騒がしくなったのは。
まだこれだけの人間が中に残っていたのかと雪虎が思った矢先。
別の階の社員らしいスーツの男が、通りかかった。
彼が、何を考えたのか、その時は想像もつかなかったが、相手は謎の行動を取った。
どういうわけか、アマクサの人間を値踏みするように眺めはじめたのだ。そして。
最後に雪虎を見るなり、顔を背けた。夜間だからと油断していた雪虎は、慌てて帽子をかぶりなおしたが、
―――――そこのお前。
彼は雪虎に、一階までついて来い、と言った。別の仕事をやる、と。
…どうにも、胡散臭い。
ひとまず先輩にお伺いを立てれば、帰ってきたのは、消極的な了承。
ならば、仕方がない。
雪虎は黙って彼の後ろについて行った。
連れていかれたのは、画廊の控室だ。
いくつもの絵画が所狭しと棚に収められ、独特のにおいがこもっていた。その奥で。
後ろ手に腕を縛られた青年が、床に転がっていた。…彼こそ。
のちに雪虎に取引を持ち掛ける、風見恭也と名乗る殺し屋だ。
もちろん、偽名に違いない。
ただそんなことは、当時の雪虎には分からない。
分かることと言えば、目に見える光景だけだ。
控室は狭い。
そんな中、複数の男たちが、壁際に立っている。
縛られ、床に転がされている青年を取り囲みながら、少しでも距離を取ろうとしているように見えた。
正直言って、異様だった。
拘束されている青年より、優位にあるはずの、周囲の男たちの方が隠しようもなく狼狽えている。それに…、
(なんだ?)
横倒しになった青年の周囲に、何か虚ろなものを感じた。ぽっかり、彼の周囲に空間が開いていたからだろうか。
とはいえ、あまりそういった微妙なものに集中することは難しかった。
なにせ、控室の中はうるさかったのだ。
本当に、騒がしかった。
忙しなく複数のケータイが鳴り、そのすべてが不幸や損失を伝える情報を声高に告げてくる。それらに、男たちはヒステリックに対処していた。
賑やかだった。パニック状態とも言う。
雪虎を連れてきた男の懐からも、ケータイが鳴り響くなり、彼は地団駄踏んでついて来た雪虎の胸倉をつかんだ。
―――――おい、死神! この醜い男が、これからお前を犯す! てめえも不幸になりやがれっ!!
最初は意味が分からなかった。
そんな仕事は請け負っていない。
ただし、反論する間もなかった。
雪虎は、床に横倒しになった状態で動かない青年の前へ突き飛ばされる。目が合った。
互いに目を瞠る。だが、その理由は正反対だったろう。
雪虎は、相手の目に、瞬間、見惚れた。
紺碧。
きれいだった。奇跡みたいに。
目の内に奈落みたいな引力があった。それが、青の無垢さに拍車をかけている。
雪虎が思うなり。
青年は顔を背けた。汚いものを目にした態度で。
雪虎には、慣れた反応。ただ、こういった反応を見るたび、古傷が疼くのは仕方がない。
―――――他はともかく、コイツだけは絶対イヤ!!
記憶の中、雪虎を指さして拒絶する嫌悪も露な女の子の声が、なけなしの自尊心をズタズタにした、その痛みが蘇るのだ。
中学の頃、悪い仲間とつるんでいた日々の中で陣地争いめいたゲームがあったのだが。
勝った者は相手の持ち物を好きにできるという弱肉強食めいたルールが定められ、子供たちの間で厳格に順守された。その中には…異性も含まれた。
ある意味での犯罪と言う犯罪は、殺人以外なら雪虎はこの頃ほとんどやらかしている。
正直言おう。バカだったのだ。
子供たちに隠す知恵があった上、気付く大人も、止める大人もいなかった。
今から考えればとんでもない話だが、当時のそのゲームに関しては、親も教師も…そして真っ当な生徒たちは誰も知らないのだ。
参加した皆いい大人になったが、秘密は未だ守られている。
性欲も強く、興味もあった少年の雪虎は、一度、女の子に土下座してまで頼み込んだが猛烈な嫌悪しか返ってこなかった。
歪んだ悲しみと怒り、持て余した性欲で、子供だった雪虎はまた別のとんでもないことをやらかしたのだが…。
幸か不幸か、今は飲み込み切れない子供ではない。
醜いからこそ、選ばれないかと思えば、こういった場合には選ばれるのだから、世間は本当にままならない。
咄嗟に、雪虎は帽子のつばを引き下ろそうとした。
問題の顔を隠せば、それで終わりだ。
刹那。
また、青年が顔を上げる。何かに気付いた態度で、不思議そうに雪虎の顔を覗き込んだ。
見えにくいものを見定めるように目を凝らし、…見開いた。
そこで雪虎は、はじめて気づく。青年の容姿がびっくりするくらい優れている事実に。
とたん、いや増す違和感。
周囲の男たちは、彼を怖がっている。その上。
恐慌をきたすほどのパニックを起こしていた。今にも部屋を飛び出していきそうな感じがある。
青年の優しげな容姿と、周囲が見せる彼への恐怖が、真っ直ぐつながらず、雪虎は困惑した。
…いいや。
―――――彼は先ほど、何と呼ばれた?
雪虎の惑いをよそに、恭也は、子供のような表情で、不思議そうに首を傾げる。
そんな顔を見れば、彼はまだ少年のようにも見えた。
やがて、わずかに緊迫した表情で、恭也は尋ねる。
―――――あんた、なんともないのか。
この時の雪虎には、言葉の意味が理解できなかった。ゆえに、放った言葉と言えば。
―――――はあ、何が。
後から思えば、怖いもの知らずの反応を返したものだ。
いや。
愚かさも極まっている。
恭也は、唖然となった。次いで。
彼の唇が、弧を描く。
雪虎はぞっとする。目に映ったのは、狂気に似た表情だったから。
恭也の表情から垣間見えたのは、常識の外にある化け物めいた精神だ。
だがソレは―――――笑みだった。
恭也は、笑っていたのだ。
理解が追い付くより早く。
恭也は弾けるように、声を上げて笑った。何もかもいっさいを莫迦にしきった笑い方。
とたん、周囲で悲鳴に似た怒号がさらに輪をかけて重なった。
あまりに顕著で激しい変化に、雪虎はギョッと周囲を見渡した。
―――――ちくしょう、破滅の死神なんか、だれが呼びやがったんだ…!
叫び、一人が外へ向かって駆け出した。
それが呼び水になったように、次から次へと軛を断ち切るようにして男たちが外へ飛び出していく。雪虎を連れてきた男もだ。
―――――いいよ、逃げろ逃げろ。ぼくから距離を取れば、破滅も不幸も減るさ。
恭也が笑う。笑みを含んだ声で。上機嫌に。それでいて、…虚ろに。
雪虎は咄嗟に息を詰めた。虚無が重圧となって、部屋に満ちたからだ。こらえるために、身が強張る。
先ほどから頭の中で小さく鳴っていた警鐘が、特大の警報に変わった。
コイツはヤバい。
この一階で、今日はどんな取引があったというのか。
後ろ手に縛られていた恭也は、起き上がりながら、呟いた。
―――――…まぁ? 他はともかく、ぼくのターゲットは逃げても無駄だけどねえ。
直後。
部屋に満ちていた虚無。それが一瞬で、殺気に変わった。
いや、当時の雪虎には、総毛立つ寒気に似たその感覚が、殺意だとは理解できなかった。
ただ退路だけは確保しなければ、と本能で、意識を開いたままのドアに集中させる。
その間に、恭也は立ち上がった。
腕を縛っていた縄を何食わぬ顔で身体から落としながら。
―――――そういや今日は美装屋さんが入る日だって言ってたっけ。
ただどういうわけか、彼は興味津々の青い目を雪虎に向けた。
―――――はじめまして、おにーさん。ぼくは風見恭也。おにーさんは?
明らかに、偽名。だが、相手がどういうつもりか読めない。
嘘の名なども、咄嗟に思いつかず、
―――――…八坂雪虎。
雪虎は正直に答えた。
―――――トラさんかぁ。ねえ、このままトラさんも逃げてもいいけど、さ。
恭也は天井に…正確にはその先の上階に視線を向けた。
―――――上には同僚がいるんでしょ? 放っとくとその人たちも不幸と破滅にまみれて死ぬよ? ぼくがここにいるからにはね。
この時は、意味が分からなかった。
付き合いが長くなるにつれ、嫌になるほど事情は思い知らされたが…恭也は、雪虎の体質とはまた違った意味で突き抜けた、嵐じみた現象を周囲にもたらす人間だった。
―――――破滅の死神。
正しく、恭也はその通りの存在だった。
雪虎は、この時。
他人などどうでもいい、と逃げるべきだった。そうすれば、自分の命だけは守れただろう。普段の彼なら、躊躇いなくそうする。
ただ。
『死』。
この単語は雪虎に、異様なほど激しい抵抗感を生んだ。
なにせこの時、全く癒えていなかった。
実家で起きた、特大の出来事―――――妹の自殺が雪虎に残した傷跡は。
雪虎は思わず恭也の腕を掴んでいた。震えながら懇願した。
止めてくれ、と。なんでもするから、と。
乞う立場にいたのは、雪虎の方だ。それなのに。
恭也は戸惑いも露な目で、自分の腕を掴んだ雪虎の手を見下ろしていた。
その様子は、迷子の子供にも似ていた。
―――――…。
何かを言いさし、結局、やめて、恭也は。
雪虎の前に膝をついた。ゆっくりと、手を伸ばし。
人差し指を伸ばした。その、指先で。
―――――…っ?
つぅ、と雪虎の足の間をなぞり上げる。
状況の異様さに、雪虎のソレはすっかり萎縮していた。
―――――なら、さあ。取引しようよ。
雪虎の顔を抵抗なく覗き込み、恭也は淫蕩に笑った。
―――――ぼくを抱けたら、その度胸に免じて言うなりになってあげる。
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