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日誌・4 強者の望みと弱者の希望
それなのに奇怪なものだ。
現在、雪虎は定期的に死に関わる仕事に携わっている。
しかも、続いていた―――――死神との取引が。
―――――恭也が望んだからだ。
もっと試させてほしい、と。
いったい何を、か。
その危険性に顔を青くしたのは、最初の取引から、半年近く経ってからのことだった。
つまりそれまで腹の底から、理解はしていなかったというわけで。
ぽつり、遅れて本音を自供した雪虎を、幼馴染は散々罵った。
―――――はあっ!? はっきり知った上で『合意』じゃなくて『取引』にしたんじゃなかったの!? 救いがたい鈍さね、昔からだけど!!
…半分は怒り、半分は心配でできた罵倒だ。甘んじて受けた。一時間。正座で。
雪虎はあまり聡い方ではない。
幼馴染の言う通り。
雪虎の恭也の関係は、何も無理に、『取引』という形で続ける必要はなかった。
個人的な関係にひっそりとおさめてしまうことだってできたのだ。
強者である恭也の方が望むのだ。雪虎は、ただ、諾と飲めばよかった。
そう、しなかったのは。
雪虎が小心で、…臆病だからだ。
『理由』がなければ、きっと恭也との関係に、混乱した。
彼を助けられるはずもないのに。
救えるはずもないのに。
ただ関係だけ続けるのは、正直キツかったのだ。
つまりは、恭也と言う存在を受け入れるだけの器が、雪虎にない。
雪虎は、ちっぽけな男なのだ。
だからこその、取引だ。…分不相応に。
雪虎は、恭也との関係を続ける。それが、雪虎が提供するもの。
今後もその『取引』を継続するならば。
―――――恭也が提供するものが必要だ。
結果―――――裏側の仕事がアマクサに回されるようになった。
どうやら恭也はこれでも『組織』に属する人間で、仕事はそちら側から舞い込んでくる。
そう、アマクサが危険な方向に足を突っ込んだのは、雪虎にも責任の一端があった。
しかし、雪虎だけではこうもうまく回すことはできなかったろう。
綱渡りを可能にしたのは、―――――御子柴さやか。
御子柴グループの後継者の妻であり、雪虎の幼馴染だ。
昔から彼女は、ぼんやりした計画を現実に落とし込む作業がうまい。
無論、慈善事業ではない。アマクサには、さやかは本来、見向きもしなかった。
単純に、幼馴染の就職先としか思っていなかったはずだ。
しかし、表沙汰にできない新たな取引先に、彼女は興味を示した。そこから生まれる新たな人脈、つながりに。
ただ、それは、恭也を相手に始めるには無理があった。
取引しようにも、始める前に周りが破滅してしまう。
承知の上さ、と彼は表情だけで笑って見せて、
「代理人を立てる」
紹介されたのが、黒百合と呼ばれる少女だ。美しい少女だった。人形のように無表情だということを除けば。
「きれいだろ? 興味があるなら、好きに扱っていいよ。ただし、抱くなら覚悟した方がいい」
その言葉の意味までは聞いていない。
幸い、いかに美しくとも、あまり年が離れすぎていれば子供にしか見えなかった。
子供を抱く趣味は雪虎にはない。
一見、ごく普通の少女に見える。だが。
あのような殺し屋と世間や―――――『組織』の仲介を勤めるのだ。普通の人間ではない。
第一、恭也のような存在と関わり合って無事でいられるということは。
「アレはねえ」
恭也は退屈そうな目で告げた。
「死にたいんだよ。抱けばすぐ分かる。ずっと叫んでるからね。死にたいって」
―――――即ち。
彼女にとっては『生存』そのものが不幸で絶望なのだ。
救い難い。
皮肉にも、だからこそ、恭也といても無事なのだ。普通の人間が恭也と関われば、破滅あるのみだ。
なのに。
特段、死にたい願望も持っていない、むしろ意地でも生き残ってやると思っている―――――特筆すべき技能も才能もない、凡人の雪虎が。
…なぜ無事なのかは、未だに謎だ。
ちなみに雪虎には、さやかのように、一度身内と判断した人間さえ無事なら、他はどうだっていいとも思うような、人間としての程度がひどい部分もある。だが恭也と関わり続けても、だいじな人間の身に不幸が襲い掛かったということは一度もなかった。
…こうして。
何の因果か、お互いの命がつながり、関係も途切れなかった、―――――現在。
陽が落ち、カーテンが引かれた暗い部屋の中。
床に投げ捨てられたコンドームから目を上げ、ドアから動かないまま、恭也は薄く笑う。
「最初はさ」
何かを迎え入れるように、誘うように、腕を広げた。
「トラさんから触ってくれって言ってるだろ」
雪虎の表情は動かない。ただ陰鬱で、不機嫌。それでも。
一拍の沈黙を置いて、また、ドアへ向かう。恭也に近づきながら、手を伸ばした。
指先が、触れる。陶器のような肌に。
伝わる、体温。
ぬくもりを感じるたび、雪虎は不思議な気分になる。
(本当に、生きてるんだな)
恭也の容姿はあまりに整いすぎていて、どう頑張っても、作り物に見えるときがある。
この肌の下に、赤い血が通っているなんて、そっちの方が冗談みたいな気にもなった。
雪虎の、きれいに洗った、カサカサした分厚い掌が、恭也の片側の頬を包み込んだ。刹那。
先ほどまで室内に満ちていた、息苦しくなるような飢えた獣に似た気配が、見る間に萎んだ。
恭也が目を伏せた。
飼い猫のようにおとなしく、雪虎の掌に軽く頬を押し当てる。
すり…、とゆっくり往復。かと思えば。
口元を掌の中に沈ませるように、キス。
眉根を寄せて、切なげに。
その様は、驚くほど絵になった。
目の前で、こんな姿を見せられたなら、女ならたちまち恋に落ちる。
―――――神聖な儀式じみた静寂が、室内に落ちた。
笑えるな、と雪虎は内心自嘲。始まるものは、大概の者が目を背ける行為だ。
夢見るように、恭也の瞼が持ち上がる。青い目が、真っ直ぐ雪虎を射抜いた。
見る者が見れば、相手を殺す寸前の目、と思ったかもしれない。
ひたすら、物騒だ。
…情欲にさえ、濡れていなければ。
むしろ、雪虎は。
応じる気分で、薄く笑った。
殺しに来いよ、と。
それが、…合図だ。
「…っ、」
雪虎にのしかかる勢いで、恭也が唇を重ねた。
この男相手に、油断などしていないし、できもしないが。
(痛ぇ…!)
どうもいつも、身構えるタイミングを外され、雪虎は押し倒されてしまう。
今回も、そうだ。
拍子に、帽子がどこかへ飛んだ。
見た目はどこまでも洗練されているのに、恭也の動きは獣じみていた。
彼が、どれだけ他人との触れ合いに慣れていないのか。
―――――時にひどく、痛々しくも思う。
ただこういう時は、まず、…雪虎の身体が痛い。
今日はどれだけ擦り傷を作るだろうか。
頭の片隅で考えながら、恭也の唇を受け止める。とはいえ。
逸る衝動に任せた恭也の動きは、いつもままならない。
舌を絡ませようとするのに、空振る。
思い切り吸い上げたいのに、唇がぴったり重ならない。
「ハ、くそ」
恭也がもどかし気に罵る。男臭い欲情を色濃くまとった声だ。
それらの仕草、言葉が、いちいち。
格好いいな、と素直に思う。腰にくる。だが。
放っておけば、腹立ちのままに噛みつかれそうだ。実際、何度噛まれたことか。
風呂場で自分の身体に穿たれた噛み痕に愕然となるのは、三度もあれば十分だ。
雪虎は手を伸ばす。恭也の身体が小さく震えた。
雪虎の掌が恭也のわき腹を撫で上げたからだ。
…ねっとりと、緩慢に、舐めまわす動きで。
その続きで、背中に腕を回す。あやすように、とんとん、と軽く叩けば、何かをこらえるように、恭也が細く長く息を吐きだした。
動きを止めた恭也の下唇を、雪虎は、ちう、とやわく吸い上げた。
恭也がそれを受け入れたことを確認し、諫めるふりをした、甘やかす声で、雪虎は一言。
「待て」
その声には既に、自分自身すらとろかそうとするような、熱がこもって、いて。
雪虎の声の、何が刺さったか、一度、恭也が息を詰めた。
見えた隙は、素でできたものか。…わざとか。
誘われるように、雪虎は恭也の背に回していた手を、片方。
彼の頬に伸ばした。目を、合わせる。雪虎は、首を伸ばすようにして。
―――――口づけた。
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