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日誌・6 拘束と解放
年季の入ったアパート。
狭い階段を見上げ、しばし悩む筒井真也。
アマクサ美装のバイト帰り。
バックパックを背負った彼は、無造作に壁に据え付けらえた郵便受けを改めて確認した。
じっと見つめた先にある郵便受けには、何も入っていない。表には、名前も表示されていなかった。
どれほど逡巡の停止状態が続いたか。
にわかに、何かを振り払った表情で真也は顔を上げた。
思い切った態度で、階段を上りだす。軽快に。悪びれなく。
二階を通り過ぎ、三階に至る階段の前、踊場へ至った時。
キ、と微かな音が耳に届く。足を止めた。
どこかの扉があいたのだ。
様子を窺いながら、真也は猫じみた動きでじりじり後退。すると、
「トラさん」
聴こえた声に、ぴくっと動きを止めた。耳を凝らす。とたん、
「なんだ」
聴き慣れた不愛想な声が聴こえた。
刹那、真也の中から、ちっぽけな警戒心すら、あっさり吹き飛んだ。
すぐ、好奇心がわきおこる。いったい、誰と話しているのか。
こんな夜中。
郵便受けに名前もない部屋で。
そう、真也が残業と称したお使いを頼まれた場所。
それが、あの部屋だ。
しばらくすれば雪虎が出てくるはずだから、迎えに行ってやってほしい、と。
ただし。
―――――ぜったい、近寄るな。
正直、違和感しかない指示だ。
そもそも、雪虎は三十近い男である。この年齢になれば、起こす行動は、ある程度自己責任だ。迎えに行く必要が、果たしてあるのか。そして。
(近寄るなって?)
意味が分からない。自然と真也の顔に、楽し気な笑みが浮かんだ。
分からないが、あの専務が指示を出し、浩介が言うのだ。意味はあるのだろう。
…面白いではないか。
見つかるか見つからないか、ぎりぎりの位置から真也は声がした方を見遣る。
聴こえた声からして、雪虎と一緒にいるのは、男のはずだ。
こんなところで隠れるようにして会うなんて、いったいどういう相手なのか。
階段は薄暗い。
少し緊張しながら覗き込んだ先に、見えたのは。
背後から腕を回されている雪虎の姿。
右の脇腹から回った腕が、左の腰骨を鷲掴んでいる。
見ようによっては、拘束されているような。
珍しく、雪虎は帽子をかぶっていない。こんな暗がりだ、確かに必要はないだろうが。
…それでも、雪虎を見た瞬間の『いつもの』感覚は、変わりなかった。
思わず、真也は目を逸らす。慣れているはずなのに、こうだ。
どうして、ひどく醜いものを見た気分になるのだろう。しかも、もう一度見るのが怖いと思わせるような、質の悪い感覚が喉元に残るのだ。
気持ちを整え、しっかり、見直せば。
―――――雪虎が、相当の男前だというのは、目の肥えた真也にも否定できない。
(あんな、かっこいい、のにね)
ただし、キレイ系ではない。
中肉中背で、しなやかな印象。
清潔な感じ。
そして無骨な雰囲気が逆に、男っぽい色気を感じさせる。
誰がどう見ても、イイ男だというだろう。
そんな雪虎を、感心半分、真也が再度見直すと同時。
雪虎を引き留めた腕の持ち主が、彼を追うように一歩、外へ踏み出した。たちまち。
真也は、ぽかんと口を開ける。
(…なに、アレ)
おそろしくきれいな男が。
おそろしくきれいに微笑んで。
不機嫌な表情の雪虎の頬に、後ろから口づけた。
「怒らないで」
宥める口調に、雪虎の口元がへの字になる。彼の反応を気にも留めず、相手は。
「痛ぇ…っ!」
雪虎の首筋に噛みついた。抑えた声で雪虎が抗議。だが、暴れたりはしない。
抗議、しながらも―――――おとなしく受け入れて、いるのが。
見ていると、やけに、居たたまれない。
妙に、濃密な空気だ。
時間がかかりそうだな、と予感するなり。
「…またね」
相手はすっと雪虎から身を離した。未練もなく。
あっさりとした解放に、見ている真也の方が虚を突かれる。
なにせ。
触れ方のひとつひとつが。
まるで、オスの独占欲の表れめいたものだったから。
そう簡単に手放さないだろうと、自然と予感したのだ。なのに。
一度も振り向かなかった雪虎の背後で、ドアはしずかに閉じられる。
真也は見ていただけだ。
見ていただけ、なのに。
―――――妙に当てられた。
すぐ、雪虎が大きく息を吐きだす。言い難いものを吐きだす態度で。
いつもの雪虎の行動に、真也はハッと我に返った。拍子に、と言うべきか。
ブツ。
背負っていたバックパックがいきなり、背中から落ちた。
「え」
慌てて持ち上げ、ひもが切れたのだ、と理解した時には、
「この、ばか」
すぐそばに、雪虎がいた。
「嘘だろ、トラさん、これこの間買ったばっかで」
ここにいた言い訳をするより、新品のバックパックがいきなりダメになったことにショックを受けた真也が言いさすのに、
「いいから」
あとだ、と雪虎は真也の腕を引っ張る。
力の強さに真也が顔をしかめるのにも構わず、上から命令した。
「行くぞ」
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