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日誌・8 ストーカー被害とボヤ騒ぎ

バックパックを身体の前で抱えた真也は、雪虎と並んで夜道を歩きながら首をひねる。 事情を聞くには聞いたが、理解はしても納得はできない、そんな顔だ。 「でも…トラさん」 「なんだ」 「相手は、殺し屋ですよね」 バイトの大学生、筒井真也の顔は正直だった。自分の台詞に、現実味がない。 そういった雰囲気。 どこか侮りを残した軽口で続ける。 「そんなことして、殺されるとは思わなかったんスか」 ―――――そんなこと。 真也に、男同士の交わりについて色眼鏡で見るような態度はないが、それは単に、本当のことと思っていないせいかもしれない。 雪虎は、直接答えることはしなかった。 「…さっきの部屋な」 迎えに寄越されたからには、真也には事情を明かしてもいいと上が判断したということだ。この程度なら、話してもいいだろう。…同時に。 「表札、なかったろ」 「はい」 「まず、それで帰らなかったことを褒めてやる。それから、」 ―――――恫喝が、必要だった。命の危険がすぐそばに潜んでいることを、腹の底から思い知らせる必要が。 「…おい、二度目はないぞ」 雪虎の雰囲気が、一瞬で変わる。真也の背が、ピンと伸びた。 なんと言えば正しいのか――――強いて言うなら、真也の命などそこらのごみ箱に躊躇いなく捨ててしまえる人間に見えた、と言うのか。 その物騒な空気は本当に刹那で消えた。 後に残ったのは、陰鬱で不機嫌そうな、普通の男だ。 帽子をかぶっている今、あまり表情は見えないが。 「絶対、近寄るなと言われていたな? 好奇心は身を滅ぼす。あいつはお前に気付いていた。今日は見逃したが、次はどう出るか俺にも読めない」 今の雪虎に逆らってはいけない。 真也の本能が叫び、彼は本能に従った。 「…すんません」 借りてきた猫のようにおとなしく頷いた真也に、雪虎はいつもの面倒そうな態度で続ける。 「あと一つ。―――――折角だから、教えてやる」 「いや、その、…もう」 覗いてはいけない汚物を見せつけられる感覚に、真也は力なく声を挟んだ。 もう、やめてくれないかな。だが、言い切る寸前、 「あの部屋には、もう一人いた」 雪虎の言葉に、氷を飲み込んだ気分になった。 「…え…?」 「拘束されてたろうがな。おそらく、ガムテープで」 胸糞悪い、と雪虎は吐き捨てる。 「さて、俺が部屋を出た後、ソイツはどうなったかな」 実のところこれは、雪虎にとって、他人事ではない。 いつ、立場が逆転するか分からないことを、雪虎は芯から知っていた。 風見恭也と言う男は。 いるだけで、自動的に周囲に破滅をもたらす男だ。 殺し屋になったのは、もうそれしか道がなかったのだと、いつだったか、彼は笑った。 皮肉でもなく。悲壮でもなく。喜悦でもなく。 何の感情も含まれない、ただの、笑みの形を器用に象って見せた。 生まれながらに、周囲に対してそんな影響を持つ人物が、普通の会話を交わせるだけの精神を保てていることは、奇跡に近い。 もっとも。 歪に、狂っているとしか思えないことを、平気でやらかすが。 ゆえに、いつ雪虎が飽きられて、玩具のように壊されるか知れたものではない。 必要ない、と言うのに、上役が雪虎に迎えを寄越す理由は。 少しでも、恭也の殺意に対して、第三者の存在が重しになるよう仕向けることができれば、と思ってのことだろう。 あとひとつは。 ―――――もしものときの、死体の回収。 「や、やだなー、趣味の悪い冗、談…」 明るく言いさした真也が、途中で言葉を止めた。 その時には、雪虎の目に、自身のアパートが映っている。 だが、確か真也の家は、 「お前の家は、もう少し先だな」 「や! おれもう子供じゃないんで、一人で大丈夫なんで!」 送っていくわ、という雪虎の言葉に被せるように、真也は大きな声を上げた。 「じゃ、今日はお疲れっしたーっ」 引き留められてなるものかとばかりに、真也はさっと駆け出す。…こういうところは、ある意味要領がいいのだ。 「…おう、お疲れ」 雪虎の声がきちんと届いたかどうかは、分からない。 まあいいか、と雪虎はあくびを一つ。 疲れた。 風呂に入って、さっさと寝よう。 身体のだるさに鞭打って、隣に建った新しいマンションを尻目に、自分の部屋があるアパートの外付けの階段に足をかけたそのとき。 「ちょっと、やめて! …いい加減にしてよ、―――――誰かぁ!」 甲高い声が、壁の向こうから聴こえた。震える女の声。 悪いことに、―――――知り合いの声だ。 彼女の身の回りで最近、問題が起きていることを知っている雪虎は、無視もできず、 「どうしたっ!?」 アパートの敷地、その境にある壁に手をかけ、いっきに身体を引き上げた。 壁の上から見えた光景は。 ―――――火。それから。 ガソリンの匂い。いや。灯油? 見上げてきたのは、二人分の目。 一人は、男。帽子をかぶり、眼鏡をかけ、マスクをしている。問題なのは。 その手に、火が灯った雑誌を持っていること。そして周囲には。 濡れた跡。 「トラさん!」 呼ぶ声に目を向ければ。 あることから知り合いになり、頻繁に挨拶を交わすようになった、隣のマンションに住む美容師の卵が、泣きそうな顔で見上げてきた。 彼女が最近、ストーカー被害に遭っていることは、聞いている。 確か先日、親や彼氏とも相談して、警察も含め、対処を取ったと言っていなかっただろか。 だが、ひとまず。 そこにいる男が、ストーカー男で間違いないはずだ。 こんな夜中に、そんな相手と外で会う羽目になった状況を叱っている場合ではない。 ガソリンだったなら、危険すぎる。 これは気化しやすい。 すぐ、ボン! だ。 そうなっていない以上、おそらくは灯油のはず、だが。 咄嗟に飛び降りて、雪虎は男へ手を伸ばす。 とにかく火を、液体から遠ざける必要があった。 相手は、雪虎の突然の登場に、唖然としている。 思い切り引き寄せれば、たたらを踏んだ。この様子なら、すぐ引き離せる。確信した、矢先。 「…さ、サチから離れろ!」 近くの電柱から飛び出して来た男が、雪虎目掛けてモップを振り下ろした。 刹那に、ばか! と叫んだのは、知り合いの女性。 「そのひとはいつもお世話になってるトラさんよ!」 もしかして、と思う。 今、彼女をサチと呼び、雪虎にモップを振り上げた男が、彼女の彼氏、ということだろうか。 そして、どうやら。 雪虎の方が、ストーカーに間違われたらしい。 ―――――悪いことと言うのは、重なるもので。 雪虎は、咄嗟にモップを避けてしまった。 拍子に、ストーカー男の腕を離してしまう。 拘束がなくなった男は、そのまま逃げるべく駆け出そうと、腕を振り上げた。 その背中を。 強かに、彼氏くんの振り上げたモップの柄が叩きつけた。刹那。 ぽぅん、と火のついた雑誌が―――――雪虎のアパートの敷地内へ飛び込んだ。 このときの、立場も年齢も違う全員の心はひとつだったろう。 嘘だろ。 唖然となったのも束の間。 雪虎は慌てて壁に手をかけた。 アパートの周囲を囲む壁はコンクリートだが、年季の入ったこのアパートは木造なのだ。 路上の液体の上に引火しなかったのは、不幸中の幸いだが。 「ど、どうしよう、トラさん!」 女性が狼狽えるのに、逆に雪虎の頭が冷える。 大きな声で、指示を飛ばした。 「きみたちは、そいつを逃がさないように。それから、警察へ連絡、消防署にも!」 ―――――それから数時間後。 近場の警察署内で、眠い目をこすりながら雪虎は。 若いカップルたちからの土下座を受けていた。

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