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日誌・9 堂々たる被害者

「アタシがバカだったの」 ほんとにな。 聞くなり、雪虎は、正直な気持ちをぐっと飲み込んだ。 土下座改め、正座して、しょげ返った彼女を、隣の彼氏くんがハラハラした様子で見ている。 そんな二人を見ている雪虎は、…なんと言うか、しょんぼりした可愛らしい小動物二匹が叱られ待ちで待機しているような感じで、怒りが萎えるのだ。 …まあ、要は、こういうことらしい。 隣のマンションの知り合いの美容師―――――高原幸恵は、ストーカーとの話に決着がついたことに、気が緩んでいた。 これで、好きなだけ仕事や趣味に没頭できる。 人付き合いでも、周囲に不便をかけなくて済むのだ。 心から、安堵していた。 ゆえに、その日は仕事が終わった後、遅くまで技術を磨くべく練習をしていたわけだ。 気付けば、時計の針は夜中を回っていた。 彼女の職場とマンションは、歩いて10分程度の距離にある。 そのまま、彼女はしっかりと職場の戸締りをして、帰路についたわけだが。 マンションの入り口で、待ち伏せされていた、らしい。 ストーカーとどういう会話をしたのかまでは聞いていないが、どうせろくなことではあるまい。 要は。 雪虎は完全な巻き添えだ。と言うのに、今度は。 「本当にぃ? ほんとに、この人はストーカーじゃないわけ?」 まだ若い警察官がしつこく疑惑の発言を繰り返す。雪虎も怪しい、という態度を一貫して崩さない。 あるわけないだろ。 言いたいが、今は近くに幸恵がいる。即座の否定は彼女に魅力がないと言っているに等しくなる。ひとまず、雪虎はその言葉を飲み込んだ。 幸恵は20歳だ。 28歳の雪虎から見れば、まだまだ子供。精神的にも幼いと感じる。 魅力がないとは言わないが、幸恵を、まずもって、『女』とは見られない。 …ストーカー扱いには、特に腹は立たない。なにせ。 なんだかもう今更で、慣れた反応に、またかとウンザリするくらいだ。 同時に、紛らわしい存在で申し訳ないとも思う。 おそらくは。 雪虎が、初見で残す印象がすこぶる悪い・醜いという、体質と言うか、本人ではもうどうしようもないソレが、周囲から勝手にそういう反応を引き出してしまうわけなのだろうから、だ。 今回とて、もしかすると、へたに雪虎が飛び出さなければ、うまくことは収まったかもしれない。 幸恵の彼氏くんは、きちんと彼女を守ろうと動いたわけだし。 それが。 ―――――雪虎のアパートでは、結局、ボヤ騒ぎにまで発展した。 階下の壁が一部焼け、煤だらけになったのだ。 幸い、燃え落ちるということはない。住むのに支障はないだろう。 が、管理側としてはそう言うわけにはいかない。あの状態を放っておけば、ゆくゆくは危険である。 今の雪虎にとっての一番の問題は。 自身がストーカーの疑いを受けていることではない。 アパートがあのような状態になったことで、管理人のおばあさんが意気消沈している状態が目下最大の悩みである。 そもそも、小さくて可愛らしい管理人さんは、もう大層なお歳だったりするのだ。 以前から、冗談半分に、ここも、もうおしまいしなきゃいけないねえ、と言っていた。 そんなの、雪虎はとても困る。 他人から見ればパッとしない物件でも、雪虎にとっては楽園なのだ。 今回の騒ぎで、管理人さんの弱気に拍車がかかっていないといいのだが。 「だっから、最初っから、違うって言ってんじゃんっ」 ぴょこんと立ち上がり、キレた口調でとうとう叫んだのは、幸恵だ。 元気なのは結構だが、警察に対して突っかかるのは利口ではない。 とめろよ、彼氏くん。思う間にも、幸恵は大きな声でまくし立てた。 「トラさんは、アパートの管理人のおばあちゃんからお料理習ってる、アタシの兄弟弟子なの! 兄貴分なの! 管理人さんも言ってたじゃん!」 ベタなのだが、幸恵の言うとおりだ。 はじまりは、管理人さんだった。 一人暮らしの男、即ち雪虎を気遣って、彼女はちょくちょく、家庭料理を差し入れてくれたのだ。 おばあちゃんにとっては、雪虎など、子供に等しいのだろう、なんやかやと世話を焼いてくれている。 それに対して、雪虎が別の料理でお返しをしたり、ちょっとした日曜大工でアパートの修繕を手伝ったり、と言うやり取りを続けているのを、何年か前に、幸恵に目撃されたわけだ。それも、何度も。 年寄りと、陰気臭い男の井戸端会議の、何が琴線に触れたのか。 ある日突然、幸恵から料理を教えてほしいと頼み込まれた。 どうも、幸恵は料理が死ぬほど下手で、…実際、聞いた以上のシロモノを作って見せられ、褒め言葉の一つも思いつかなくて困ったことは記憶に新しい。その時も。 ―――――土下座で頼み込まれた。きれいな土下座だった。ただ道端でするのは思いとどまってほしかったが。 ともかく、彼氏に美味いものを食わせたかったらしい。 それからの付き合いだ。 幸恵は、びっくりするくらい華やかで、明るく可愛く、イマドキの女の子、なのだが。 言動に、たまに年寄り臭い雰囲気が漂う。 聞いた話では、おばあちゃん子らしい。納得。だからか、管理人さんにもよく懐いていた。 拳を振り上げる威勢のいい彼女の隣で、彼氏くんがぺこぺこしている。 彼は、格好いい系というより、眼鏡にクセ毛、大人しい感じの優等生といったタイプだ。 幸恵が猫なら、彼氏くんは犬。 隣の彼氏の様子に構わず、続ける幸恵。 「しかも助けに入ってくれたのに、何さ、この扱い!」 「しかしねえ、あんな時間にうろうろしてること自体、怪しいんだよね」 「それはアタシもでしょっ?」 庇ってくれるのはありがたいが、このままでは埒が明かない。 確かに、付き合いの長い幸恵は、今更、雪虎を疑ったりはしないだろう。 だが、雪虎が初見の相手に引き起こす印象が印象である以上、疑惑にはとことん付き合った方が、きちんとした解決につながるはずだ。 まあ、こじれるのは慣れている。警察側の気持ちも分かってしまうし。 憤然とした幸恵の前に、雪虎は掌を上げて止めた。 口元をへの字にして顔を上げた彼女に、雪虎は首を横に振って見せる。 「お嬢はもう帰るといい」 「けど」 「ほら、彼氏くん、送ってあげな」 おとなしそうな彼氏くんは、慌てて頷いた。たぶん、彼の方が、状況が見えている。 「あ、はい」 話を進めれば、納得いかない様子の彼女が、不貞腐れた表情になった。 もっと言葉を付け加えるべきか、雪虎が悩んだ瞬間、 「…トラ?」 低い、声が聴こえた。顔を上げれば。 ―――――紺の着物に、黒い羽織をひっかけた男が、こちらに顔を向けていた。 刹那、雪虎は、目を瞠る。 (なんで、こんなとこに) 心の中、一瞬で死にそうな心地になった。 つい、喉奥で呻く。 帽子のつばをつい、深く下げてしまう。 隠れたい。 いたのは。 どっしりとした、重い存在感の男だ。 190はあるだろう、長身。首はがっしり、肩幅も広く、腰も据わった、男らしい体躯。 視線だけで、ふと息苦しい心地にさせる、その男は。 「―――――…会長」 つい、雪虎は慣れた呼び方で彼を呼んだ。一瞬で、息も絶え絶えの心地になった。 合わせる顔が、なかったから。 しずかに佇んでいた彼は、月杜つきもり秀しゅう。 会長と呼んでしまうのは、彼は雪虎の中学時代、生徒会長だったからだ。 ちなみに。 彼の処女と童貞を奪ったのが、過去の雪虎である。 (なのになんで、俺に普通に声をかけられるんだよ…!) 被害者であるはずなのに、雪虎に対する態度が他に対するのと変わらないのだから、強心臓だ。 逆に、雪虎の方が居たたまれない。 成長した今、本当に顔向けできなかった。 怖いもの知らずだった学生の頃はともかく、今となっては隣に並ぶのもしんどい。 心から思う。 若さって怖い。 秀は、もう30歳にはなるだろう。 月杜家の当主であり、確か、一児の父親である。 なぜ。 どうして彼が、警察に。 無論、この男が何かの疑惑の対象になるはずはない。むしろ。 言葉は悪いが―――――公的機関を操る、もしくは、利用できるだけの立場に、彼はいる。それは、組織に組み込まれている、と言うわけではない。組織の外にいながら、それだけの権力を持っている、と言うことだ。 月杜家、と言ったなら。 地元の人間なら、すぐ、ああ、と納得するだろう。 「うわわ。トラさんと別種のイケメン…やっばぁ…」 小声で興奮気味に呟いたのは幸恵だ。 いつの間にか、雪虎の背後に陣取っている。 彼氏くんは、と見れば、手をつないで隣に引っ張り込んでいた。 そのまま、隠れるようにスマホを構える。どうやら、秀を撮ろうとしているようだ。

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