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日誌・24 キツネとタヌキ

「意外ですな」 夕刻の光を浴び、磨き抜かれたガラスの輝きも眩しい御子柴グループ本社ビル。 その最上階に近い一室。 最終の採決を待つ書類を見下ろしていた青年は、表情を変えず、目を上げた。 室内には、現在三人、会社役員が顔を揃えている。 一人は彼、―――――御子柴大河。御子柴の、次期後継者。 室内で、座っているのは彼一人だ。残る二人はと言えば。 「あら、何がです?」 部屋の中央のソファを挟んで対峙し、火花を散らしている。 いや、双方にそんなつもりはない。彼らは互いに格下と相手を見下している。 対等に喧嘩をしているつもりなど、毛頭ないはず。…傍目にどう見えたとしても。 大河は内心、またか、とため息をついた。 一人は、壮年の男。九条典明(くじょうふみあき)。 長年、御子柴に勤め、野心はあるが多大な貢献をしたと言っても差し支えない功績を残している男だ。 現在、アメリカの一部地域で市場開発の担当を任されている。重厚な雰囲気も相まって、鋭い辣腕を振るう容赦ない騎士と言った風格がある。 対するのは、女。御子柴さやか。 大河の妻であり、これまた過ぎるほどの有能さを発揮する人物だった。 仕事のやり方もさることながら、外部との交渉や、人事に関して、人間を見抜くことに関しては薄ら寒くなるほどの鋭い観察眼を持ち、結果を見れば、まるで彼女の掌の上で転がされているのではないかと思わされるほどだ。 彼女が返した涼やかな眼差しに、九条は皮肉めいた笑みを見せる。 「この度、同意いただけたことがです。…若奥さまは、わたしの提案に、すべて反対されるのかと思っておりましたので」 なんと言ったところで、九条典明はそもそも、女が仕事に関わるのにいい顔をしない。 その手腕と立場に周囲から敬意を払われ、邪魔者を気にすることなく能力を発揮するさやかには、当たりがきつかった。 今回の台詞も、しないでいい嫌味だ。 今、自身の提案がすんなり通ったのだから、九条はただ立ち去ればよかったのだ。 とはいえ。大河は、内心ため息。 (嫌味のためだけに立ち止まる人物でもない) 面倒なものが収まった風呂敷が開けられる気配に、大河は黙って目を細める。 凛としたスーツ姿のさやかは、嫣然と微笑んだ。 受けて立つ。 そんな声を、大河は聞いた気がした。 「わたくし、良いと思ったことには、同意致します。今回は、良案でしたので」 九条から見れば、自分より若い娘の、この、上から目線が気に入らないのだろう。 うまく立ち回ろうと思えば、さやかも、媚びる程度はできるはずなのに、しないということは、つまり彼女も喧嘩を売っているわけだ。 そこを察しているのだろう、 「おや、では」 昔から何一つ変わらない、若々しい体形も、紳士然とした姿勢も崩さず、オーダーメイドのスーツを隙なく着込んだ九条は、針のように目を細めた。 「わたしの次男が、本社から地方へ飛ばされた人事には無関係でいらっしゃると」 ―――――ああ、それか。 大河は、内心ウンザリ、表面上は苦笑を浮かべ、パン、と手を打つ。 「はい、そこまで」 二人の視線が大河を射抜いた。 さやかは、一見、ただただ艶やかだが、一瞬で臨戦態勢に入っている。 いやむしろ、彼女は前にした戦いが困難であればあるほど、色気が増す女だ。このままやらせれば長くなる。 「九条取締役」 書類を机の上に置き、九条の肩書と共に、大河は穏やかに言葉を紡いだ。 「その件に関しては、代表取締役―――――父も交えて事前に説明させて頂いた通りです」 その時彼は、確かこう答えた。分かりました、と。いかにも従順に。にも関わらず、 「…納得しかねますな」 今になって、答えを翻した理由は。 その後、ごく潰しの息子に泣きつかれたとか、もしくは奥方経由の苦情が来たとか、そう言ったところだろう。 九条は男尊女卑の典型的な思考を持つ男だが、奥方にだけは弱かった。 九条の二番目の息子も、父と同じく、今時にしては珍しく、男尊女卑の思想に頭のてっぺんまで浸かっている。 御子柴で人事権を握るさやかが気に入らないのは間違いない。 「では」 大河は、にっこりと提案。 「再度、場を設けましょう。出国の日はいつですか? その日までに」 「いや、けっこう」 言葉の途中で、九条は苛立たし気に遮った。背を向ける。 その背を見守る大河の笑みは崩れない。 ただ、さやかの視線に霜が降りた。 「失礼します。…どうやら御子柴はそこの女狐に操られているようだ」 言い捨て、敵意を投げつけるようにして彼は出て行った。 扉が閉まり、しばしの間。 何食わぬ顔で、再度書類を見下ろす大河。 その机の前を横切り、さやかはソファに腰を下ろし、足を組むなり、 「女狐ですって!」 拍手の勢いで手を打ち鳴らし、楽しそうに笑い出した。 突き抜けて明るい笑いだ。 ただ不思議と、下品にはならない。どこまでも気高い気品に満ちている。 「本気でそんな言葉を口にする人間がいるとは思わなかったわ。世の中、奥が深いわね」 肩のあたりで切り揃えた、緩く波打つ髪をかき上げ、すっと真面目な顔になる。切り替えが早い。 先ほどとて、どこまで本気で喧嘩を買うつもりだったか、判断が難しい女性だった。 書類に目を通しながら、大河は当たり障りない口調で言う。 「あなたがキツネなら、僕はタヌキでしょうか」 「冗談言ってる場合じゃないわよ、旦那さま」 柔らかく返せば、厳しい声が返る。顔を上げれば、真正面から、まっすぐさやかは大河を見ていた。 「何が言いたいかは分かるわよね」 「さやかさん」 年上の妻に、大河は困った笑みを見せる。さやかは強く告げた。 「わたくしだけならともかく、次期総帥のあなたに対しても侮りを見せるのは、―――――あの野郎、なっちゃいないわ」 あの野心に溢れた男が従うのは、大河の父にだけだ。もちろん、大河とてそれでは示しがつかないことは承知している。よって、 「…僕は、待ってるんですよ」 首根っこを押さえつける準備は怠りない。 「何を?」 「彼が失敗するのを。それまでは自由にさせます」 ただ、大河は気が長かった。 決着をいつかつけねばならないとしても、相応しい状況を整えることに手を抜かない。 どれだけ長い時間がかかろうと、気にならなかった。 絶対の勝利を掴むことに、ひどく貪欲なためだ。逆を言えば、執念深いとも言えた。 「だから、さやかさん、もう少し、待っていただけますか」 納得したのかしないのか、さやかは淡々と続けた。 「ならいいけど。悪いわね、わたくしの生まれは今更どうしようもないわ。誰にでも足を開く娼婦って言われなかっただけまだましなくらい」 「あなたは、僕の奥さんですよ。そんな暴言は誰も口にできません」 応じる大河も、事務的な口調だ。 揃って、端麗な容姿の夫婦である。 並び立てば、いっそう華やかで、社交の場に出れば他の誰より目を引いた。仲の良さから、鴛鴦夫婦として有名な二人である。 ただそれは、外から見ればの話。 さやかはカミソリめいた笑みを浮かべた。悪党そのものの顔で告げる。 「…そうよね、足を開きたがってるのはあなたの方だわ」 その言葉に、大河は動きを止めた。 気まずい気分で察する。 さやかの機嫌が不愉快の方向に一瞬で傾いていた。 大河の妻と言う地位でさやかは守られている、そういう言い方をされたのが彼女は気に食わないのだ。 さやかは相棒なのだ、彼女の力を認める発言もないまま、大河の付属品であることで、無力さを守ってやると言うような言い方をしてはならなかった。 大河が迂闊だったのだ。 結果。 さやかは、目の前の大河を気晴らしで嬲って弄ぶ体制に入っていた。 「さやかさん」 大河は眉をひそめた。醜いモノを嫌悪するように。 構わず、さやかは舐めるような視線で大河を見つめたまま、楽し気に続けた。 「ただ一人限定、だけど」 ふ、と貴公子然とした大河の顔から、穏やかさが抜け落ちる。 無表情になれば、顔立ちが整っている分、印象がひどく冷たくなった。 気圧されもせず、さやかは嘲笑う。むしろ、彼女の愉悦は増していた。 「わたくしもあなたも、愛なんて必要としてない人間だもの。必要なのは、『同志』だけ」 さやかは立ち上がった。 「そう、わたくしたち、同志よね?」 「はい」 二人の間には、男女の愛情など、端からない。 だからこそ、夫婦関係がうまくいっているとも言えた。 大河の従順な答えに、さやかは満足そうに頷く。 「あなたが、愛してもいない女を…、いいえ、そもそも、あなたを愛せもしないわたくしを妻に選んだ理由はひとつ」 机に近寄りながら、さやかは共犯者と罪を確認し合う態度で告げる。 「トラちゃんがわたくしとのつながりを絶対捨てないって知ってるからよね」 嫌悪も露な態度で、顔を背けた大河が何かを言おうとした、刹那。 さやかのケータイが鳴った。 取り出し、見下ろしたさやかは、にこりと微笑む。少女のように。一瞬で、上機嫌になった。 彼女が、こういう幼い態度になる相手は、この世でただ一人だけだ。大河は嫌な予感がした。 構わず、さやかはスマホの画面を手早く操作、問答無用で大河が書類を広げた机の上に置いた。 とたん、スピーカーに切り替えられたスマホから、不機嫌な声が跳ね上がる。 『サヤ。お前、またやらかしたなっ?』 とたん、さやかの目が輝いた。 思った通りのことが起こった、と悪戯を仕掛けた子供がはしゃぐ態度で。そのくせ、素知らぬ顔で尋ねる。 「何の話かしら、トラちゃん」 『チッ、いいから、情報を寄越しやがれ、―――――九条英二ってのは、御子柴の社員だろうが!』 九条英二。それこそ、話題に上ったばかりの九条の次男。 「さやかさん、まさか…」 くらりとめまいを覚え、大河は眉間に拳を当てた。 「また、トラさんを意図的に巻き込んだんですか」 「失敗を、待つ必要なんてないわ」 さやかは勝ち誇った態度で囁く。 「ないなら、…作ればいいのよ」 彼女が悪戯に微笑むなり、 『…あぁっ?』 スマホの向こうから、恫喝するような唸り声が上がる。 たちまち、さやかが真面目な顔で姿勢を正した。大河が動きを止める。 先刻、九条の一睨みには欠片も動じなかった二人が、いっせいに気を引き締めた。 『なんだぁ、御曹司もそこにいるのか。ならちょうどいいや、九条家の情報、全部出せ』 怒りにギラついた声で、雪虎は波立つ息を抑えるようにして、断言した。 『…潰してやる』

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